解放の日

ひなた

第1話 解放の日

アップは終了だ。

上気して紅くなった頬を汗が伝う。

15分後にはパラリンピック車椅子陸上100mの決勝が始まる。



しかし苦しくてたまらない。

背中をドリルで抉られたかのような強い痛みが襲う。

涙がこぼれそうになるのを歯を食いしばって耐える。

唇を噛んでいたようで、鉄臭い味が口中に広がる。


この痛みは進行性の脊髄変性疾患に罹患しているからだ。

現代医学ではこの疾患の発生原因は特定できておらず、治療法も確立されていない。

絶え間ない痛みと発作、そして痺れがあるので、眠ることすらままならない。

俺は小学生の時にこの病気が発症してから、ずっとこの症状と共に20年もの時を生きてきた。


5分が経過した。

しかし一体どうしたことだろう。

心臓は早鐘を打ち、背中の痛みはさらに大きくなっていく。

興奮が高まり痛覚麻痺作用のあるアドレナリンが分泌されているはずだが、この痛みは消えてくれない。


カバンの中から一通の手紙を取り出し、軽く握りしめる。

この手紙のおかげで俺はここまでこれた。大丈夫。これが俺のラストランだ。

自分を精一杯鼓舞する。


10分が経過した。

痛みを少しでも忘れるようと、これまでの日々を振り返る。

壮絶な痛みと戦いながら繰り返してきた練習漬けの日々。

俺を毎日ケアしてくれた唯一の理解者である理学療法士の妻。

今日は彼女に最後の勇姿を見せてやらなければなと思う。

そして頑張れ、頑張れと馬鹿の一つ覚えのように、俺を応援するサポートチームのメンバー達。


怒りが俺を支配した。

あいつらは俺の気も知らないで、頑張れ、頑張れと本当にヘドが出る。

誰1人として俺の本当の痛みを、苦しみを理解できないくせに。

何度も何度も殺してやりたいと思った。

右の拳をぎゅっと握りしめる。

すると手のひらには爪が食い込んだ跡が残った。


唐突に俺は悲しくなった。

なんと器の小さな男だなと思ったからだ。

此の期に及んで恨み辛みなんてどうでも良いじゃないかと自分を奮い立たせる。



15分が経過し、レースの最終招集がかかった。

俺は両手にグローブを装着し、愛用の競技用車椅子「翔」を所定のレーンに走らせた。

観客席は多くの応援者達で溢れかえっており、咽せ返りそうなほどの熱気に包まれていた。

決勝進出者達は皆一様に真剣な顔つきで、空気はまるで張り詰めた糸のようだ。


俺は覚悟を決めた。

これが最後のレースだ。


そのとき、レースの始まりを知らせる「セット」と言う音が聞こえた。

俺は最後に肺に目一杯息を吸い込み、細く吐き出した。

何も考えない。あとは集中するだけだ。

張り詰めた糸が限界を超えてさらに引き伸ばされる。


「パーン!」


静寂を破る鋭いピストル音が鼓膜を震わした。

選手達は一斉に弾丸のようにスタートラインを飛び出した。


俺の出だしは好調。

感覚はこれまでの人生の中で一番と言っていいほど研ぎ澄まされていた。

周りの音が何も聞こえない。

背中を風が後押ししてくれるのを感じる。

ハンドリム(ホイールの内側にある小型の輪)を回す上半身の筋肉が躍動しているのがわかる。


そして俺は中間の50m地点までトップを走っていた。

だが世の中はそう上手くはいかないようだ。

突然ハンドリムを回した時に背中に衝撃が走り、背骨が粉々に砕け散ったかのような痛みに襲われる。

奥歯を噛み締めてなんとか我慢するが、スピードは減速する。

周りの選手がじわじわと差を詰めてくる。

今すぐやめてしまいたい。心の底からそう思った。


満身創痍の状態で思い浮かべたのは、今日まで自分を支えてくれた一通の手紙。

そうだ、これが本当に最後なんだ。

乾いた雑巾を絞るが如く、最後の力を腕に込める。


そして奇跡は起こった。

俺は誰よりも早くゴールラインを駆け抜けた。

辺りは割れんばかりの大歓声に包まれた。


おめでとう、おめでとうと今までサポートをしてくれた人たちが駆け寄ってくる。

俺はそいつらを軽くいなしながら、観客席にいる愛する妻に向かって、右手を天高く突き上げた。

その拍子にバランスを崩し、車椅子ごとバタンと後ろに倒れた。

揺れる視界に映る彼女は静かに涙を流していた。





表彰式が終わり、俺は妻の車で速やかに会場を後にしていた。

時間は午後の7時を過ぎており、辺りは薄暗闇に包まれている。

「おめでとう。今日は最高の日ね。あなた。」

彼女は明るい声でそう呟いた。運転席に座る彼女の顔は見えないが、きっと優しい笑みを浮かべていることだろう。

俺はそんな彼女に素直に喜びを表現しようと、感慨深げに呟く。

「ああ、本当に今日は最高の日だ。最後のレースにふさわしい結果だった。」

だが最後という言葉を聞いた時、彼女の背中がビクッと揺れた。

そして少し陰りのある声で俺に問いかけた。

「あなたは・・・本当にこれで良いの。」

俺は彼女がこう言うであろうことを容易に想像できていた。

「ああ、何度も言っているだろう。俺の意思は変わらない。それは俺を間近で見てきた君が一番よくわかっているだろう。」

拒絶の意を示すために気丈に言い切った。

気まずい沈黙が2人の間を流れる。

彼女は消え入りそうな声で一言わかったと呟いた。

その言葉は冷たくて重い暗闇に溶けて消えていった。




俺と彼女は海岸近くの駐車場に車を止め、海を目指して石造りの道を歩いていた。歩いているといっても、彼女が俺の車椅子を押してくれているのだが。

辺り一面は暗闇に包まれていて、昼のムッとした暑さは影を潜めていた。

不意にブワッと後ろから強い陸風が俺と彼女の背中を吹き抜けた。

まるで海が俺を誘うかのように。新たな門出を祝福するかのように。

気分が高揚した俺は車椅子を押す彼女に振り返って「良い気分だよ」と声をかけた。彼女の表情は暗くてよく見えなかったが、黙って頷いたのがわかった。


やがて視界が開け、目の前には広がるのは群青色の海と濃藍の夜空。

俺の目には海と空の濃青が混じり合い境界線が非常に曖昧に見えた。

夜空は雲ひとつなく、燦々と北斗七星が輝いている。

俺は彼女にもっと近くで海が見たいと言い、断崖絶壁の先端ギリギリまで移動する。車椅子のタイヤにはねられた小石がパラパラと崖を落下し、群青色に吸い込まれていった。


そこで俺は鞄から一通の手紙を取り出して、彼女に手渡した。

「君のおかげで俺は今日まで頑張れた。今まで本当にありがとう。」

彼女は複雑そうな表情でそれを受け取る。

「この手紙には君への感謝の言葉はもちろん、俺が感じていた日々の苦痛、安楽死が許されない日本社会への提言が書かれている。俺が死んだら、君はこの手紙を世界に公表するんだ。きっと社会は変わらざるを得なくなるだろう。」

俺が言葉を吐き終えると、しばらく沈黙が場を支配した。

不意に彼女が俺の腹のあたりに両手を回し、抱きしめてきた。

彼女の温かいぬくもりが肌を通して伝わってくる。

「私はあなたの痛み、苦しみを理解することはできないのかもしれない。でも心の底からあなたのことをもっと理解したいと思っている。あなたの苦しみを分かち合いたいと思っている。あなたの決断は揺るぎないものなのかもしれない。

それでも私はあなたに伝える。死なないで。ずっと私と一緒にいて。」


俺は彼女の手を優しく振りほどき、キスをした。

ぷっくりとした柔らかい唇だった。

上気して温かみのある感触が俺の心を溶かしていく。

しばらくその感触を堪能した後、唇を離し彼女の耳元に「今までありがとう」と一言伝えた。

そして俺は車椅子を足場のないその先へと押し進めた。


果てしなく広がる群青に1人の人間が飲み込まれた。



昏く青光りする海に、破り捨てられた紙切れがあてもなく彷徨っていた。












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解放の日 ひなた @Hinayanokagerou

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