ガラス磨き職人
一日が経ち、二日が経ち、三日目が過ぎた。進展は何もなかった。軍人の男は辛抱強く待ち続けた。食事は下男に運ばせているようで、わしのいる階下に降りてくることもなかった。四日目。初めて軍人は階下に降り、“猫”の主人に話しかけた後、わしに声を掛けてきた。
「おぬしに話がある」
「なんですかな」
久しぶりの乾し肉で臭いパンを食べながら、わしは言った。
「おぬしがここで依頼を読み上げたと聞いた。そのとき何か変わったことがなかったか、聞かせてもらいたいのだ」
「何事もありませんでしたな」
わしは答えた。それは事実であったのでわしの心は痛まなかった。
「そうか。ところでだが。おぬしは賢者の石について知っているか?」
「名前だけならば」
またわしは事実を伝えた。軍人はわしに言った。
「そうか、失礼する」
「いえいえ。ところで」
「何だ?」
「鞄を今も手に提げているのですな」
わしは軍人の左手を見ながら言った。階下に降りるだけのに、その荷物はあまりに大仰すぎる。恥じ入るかと思ったが、軍人は言われても表情を変えなかった。
「ああ」
「中身はよほど大事なものなのでしょうな」
「……そうだ。気になるか?」
「ふむ。気にならないと言えば嘘になりますな」
わしは顎に手をやりそう言葉を返した。それでも軍人は無表情のままだ。
「そうか。だが、そうそう見せるものではない」
「それはそうでしょう」
もっともな話にわしはうなずいた。男が聞く。
「話はそれだけか?」
「はい」
「そうか。では」
そういうと軍人はまた鞄を提げたまま階段を上っていった。わしは食事を再開し、そうしてまた時間が過ぎた。確かその日の宵のころだったはずだ。あの男が酒場にやってきたのは。
その男はいつものように礼をして入ってきた。わしが知る中でここに純粋に酒を呑みに来る、数少ない客の一人である。
(酒を呑みに来たと言うことは仕事が一段落したのだろう)
わしはそう判断した。男はガラス磨き職人だった。日頃は近場の仕事場に篭もってガラスを磨いているが、仕上げが終わるとここに酒を呑みに来る。今日もまあ、そんなところだろう。そしてそんな彼はわしの呑み友達でもあった。
「旦那、何か面白い話はありましたかい?」
わしの座っている席の向かいに座って男は話しかけてきた。
「賢者の石を捜しておる隣国の軍人がおるよ」
わしは返した。実際、それ以外に話すようなことはここ最近無かった。
「隣国から? そいつはめずらしい」
「じゃろう、なかなか趣のあるやつじゃった」
「へえ、どこいらへんがですかい」
わしは男の風貌とその破格な依頼、そして決して離さない鞄のことを簡潔に説明した。男は神妙な顔で聞いていたが、やがて大きく頷き、言った。
「ふうん、それにしても賢者の石ですかい」
「そうじゃ。お前さんは何か知っているかの?」
「まあ知らないと言えば嘘になりますね」
そう言われてわしはいささか驚いた。わしは男に勧める。
「ほう、話す気があるのなら、“猫”亭の主人に言うがいい。情報だけでも幾らかくれるらしいぞ」
「なーに。別に金が欲しいわけじゃありませんがね」
「持っておいても損はあるまい」
グビリ。酒を一口呑んでわしは男に言った。
「ま、実を言わせて貰えば、隣国の薄汚い金なんていらないと言ったところでさぁ」
グビリ。同じように酒を呑んで男。
「はは、まだ、気になるかね」
「そりゃ、気に入りませんや」
普段は隠しているが酒を呑むと表に出てくる男の隣国嫌いはこの“猫”亭の中では有名だったので、わしは納得した。
「ふむ、他に知っている人間もそんなところで止まっているのかも知れんな。それとも……」
「おや、わっしの情報は正確ですぜ」
わしが少し訝しんだ声音を出すと男は顔を赤くさせて息巻いた。ふふん、乗せ易い男だ。わしは笑顔で返す。
「ほう、でも話す気はないのじゃろう?」
「代わりにあんたに話しやすよ。それでそのくそったれの隣国の軍人さんに話すも良し、話さないも良し。んで、話すんなら貰った情報料は俺のここでの酒代にでも充ててくださいな」
「しかしそうしたらお前さんの酒がまずくなりはしないかね」
「酒にうまいまずいもないでさぁ。酔えればわっしはいいので」
「ふむん。だったら悪くない話だ」
「でしょう」
男の言葉にわしは頷いた。一息置いてわしは男に頼む。
「では聞かせてくれないか。わしも最近退屈してたのでな」
「いいでしょう。では聞いてくだせい」
そうして男は語り出した。それを以下に書き留めておく。
わっしは教会の依頼を受けることもあるんですがね、まあだいたいがレンズの依頼ですが。そりゃ眼鏡にしたり文字を大きくしたりで、便利ですからな。
時には望遠鏡の依頼も受けることもありまさぁ。もちろん弾道確認用のですがね。最近は砲兵の必需品ってまで言う奴もおりやす。
おかげでわっしは親方から独立して以来、仕事に困ったことはありやせん。
何の話でしたかな。そうでした賢者の石でさ。その教会ですが、たまに妙な依頼がわっしに舞い込むことがあるんでさ。そのときのことなんですがね。
ある時ビスト司教様からでっかい凸レンズを磨いてくれという依頼がありましてな。大きさで言うと人の頭ぐらいでさ。
そんなでっかいレンズ磨いたことがないと言ったら、なんとしても磨いて貰わなきゃならねえって剣幕でわっしはびっくりしたんでさ。
とりあえず実物を見せてくれと言ったら、奴ら都合のいいことにもう持ってきていたらしくって、大きな白木の箱を持ってこさせたんでさ。そしたら箱を見るなりビスト司教様の顔色が変わってさ。
「これは賢者の石の箱ではないか!」
そう叫んだんでさ。ええ、間違いはありません。そのあとはもうめちゃくちゃでした。依頼も何も無かったことになって、わっしも話を聞いただけ損でしたので、おかげでしばらく機嫌が悪かったでさ。これでわっしの話はおしまいでさ。
「教会が賢者の石を?」
わしは最後に念を押すように言った。
「ええ、間違いありませんでさあ」
男はだいぶ酔いつぶれてきたのか、体を前後に揺すりながらわしに返す。
「そうか、確かに、それならば納得がいく」
「でしょう」
「うむ。しかし、お前はそろそろ帰った方がいいな」
「そうですな。あとは任せまさぁ」
「うむ、一晩ゆっくり考えてから決めよう」
「そうしてくだせいや」
男は立ち上がり。勘定を済ませると出て行った。わしは男の出て行った“猫”亭の扉を見ながらぼんやりと物思いにふけっていた。
(さて、どうしたものかのう)
わしは顎を手の上に載せて考える。男の話は嘘とは思えなかったし、真実ならばきっとやっかいなことになるだろう。わしとしてはやっかい事はごめんだった。しかし情報を持っているだけというのはもったいない。
(寝ながら考えるとするか)
わしは今日の仕事を早めに終え、二階の自分にあてがわれた部屋で休むことにした。
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