現代百物語 第40話 囁く声

河野章

現代百物語 第40話 囁く声

 谷本新也(あらや)は顔面蒼白でいつものコメダ珈琲で藤崎柊輔と向かい合っていた。

「今度こそ僕は……駄目かも知れません……」

 青い顔にげっそりと痩けた頬。

 暫く会わない間にやつれてしまった元後輩の姿に、藤崎は流石に驚きの声を上げた。

「お前、なんでそんなに……」

「ひどい顔、ですか? 今回のはちょっと予想外に……しつこくて」

『しつこい?』と藤崎は先を促す。

 梅雨で、外はしとしとと雨が降っていた。

 店員が傍を通るだけで新也はビクつくように身を強張らせる。こんなに憔悴しきった新也を見るのは藤崎は初めてだった。

 怖い怖いと言いつつ、毎回何かしら逃げる方法を思いつき、そこから逃げ出せることができるのが今までの新也だ。今回は、一体何が彼をここまで憔悴させるのだろう。

「囁き声が……聞こえるんです」

「囁き声?」

 予想外の言葉に、藤崎は首を傾げた。

「それの何がそんなに怖いんだ?」

 今までの数々の怪異に比べたらそんなものは一見、軽いもののように思えるが……と珈琲を啜る。

 小さな声で新也は語りだした。その間にも、ときおり顔をしかめてビクッと体を揺らす。

「最初は、家の中で始まったんです……」

「おう」

「寝ようと思ってベッド……知ってますよね、俺の部屋の配置。隣の部屋寄りの壁際にベッドがあって、そこに仰向けで寝転んだんです。そしたら……ぼそぼそ壁の向こうから話し声がするんです。隣の人はOLさんで、顔見知りなんですけど、明らかに違う……低い声がずっと続くんです。死がとか、殺す、みたいな物騒な言葉が間に混じって、後は延々聞き取れないような声です。それが妙に生々しい声で、僕、怖くて……」

「テレビの音とか……そのOLの子の彼氏? じゃないのか」

「最初はそう思って何とか無視してたんですけど、それが毎晩なんです。しかも、ある日、俺トイレに入ってたんですけど……そしたらその扉の向こう、俺の家の廊下あたりでもその声がするんです」

「……お前の部屋の中で?」

「そうなんです。夜は隣の部屋でする筈の声が、今度は俺の部屋の中です。それに気づいてしまってからはもう地獄で。あらゆる扉越し、壁越しに声が聞こえてくるんです。しかも四六時中」

「それは……眠れないだろう、お前」

「はい、だからこの調子です」

 フラッと新也の体が揺れる。

 慌てて藤崎は立ち上がると思わず、片腕で新也の身体を支えた。

「寝れて、ないのか?」

「声の隙間に……寝るんですけどすぐにくぐもった声で『死ね』とか、聞こえてきて。仕事にも支障きたしてるんで……壁の少ない、こういう広めの店なら大丈夫かと思って今日は来てみたんですけど……」

『ありがとうございます』と、藤崎の腕を借りて新也は何とか身体を立て直す。

「駄目ですね。壁……はないはずなのに、声が聞こえます。くぐもった、周囲の人間の身体を通したような声……というか。壁に耳をピッタリつけたときに壁の向こうの声を拾ってる感じで、周囲から満遍なく聞こえます。水の中にいる時の感じにも似てるかな」

「……俺は、お前の言葉は信じるよ。けどお祓いとかは信じない……駄目元で行くだけ、行ってみるか?」

 机の上で頬杖をついて、不承不承藤崎は提案してみた。自身で信じていないものを新也に勧めるのは気が引けた。

 しかし今回は相当疲れているのか、新也はコクリと頷く。

「何か、しないと駄目だとは思います。っていうか、僕もう駄目になりそうです。後、こうやって広い店の中で、先輩と話してて気づいちゃったんですけど……」

「何だ?」

 まだあるのかと、藤崎は席に戻りつつ眉を寄せる。

 四六時中呪いの言葉を受けているという新也は、俯いた顔を上げると、少し首を傾げてほんのりと笑った。

「たぶん、これ……俺の体内──体の中から聞こえてる、ような気がします」

「はあ!?」

 流石の藤崎も自身からざっと血の気が引くのが分かった。

 新也はどこか他人事のように、なぜか安心したような表情を浮かべている。

「こいつ、僕の耳の中にいます」

「お前、それはヤバいだろう!?」

 それに反して、藤崎は自身の中に『それ』がいるような感触を思い浮かべ、声を荒げる。 何ものかわからないなにかが、身体に根を張り巣食っている感触。

「いえ、今まではどこから襲われるのか、声に反して動いたら死ぬんじゃないかと怯えてたんですが……声がくぐもって反響していた理由もわかりましたし、体内ならそう怖くない、ような──」

「阿呆か、完全に毒されてんじゃねぇか!」

 珍しく藤崎が怒鳴った。

 腕をガッと掴んでぼんやりとした新也を立ち上がらせる。 

「神社でも寺でもどこでも良い、お祓い行くぞ」

「はい、お願いします……」

 新也は変わらず微笑んでいる。

 身体に力が入らない様子の新也を半分抱えるような形で、藤崎は店を後にした。



【END】

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