二人の天才

 乱歩の活動は大きく四つに分けられると感じます。傑作短編を連発した一期、長編連載を軸とした二期、少年ものが売れた三期、海外作品の紹介などでミステリの普及に尽力した四期。

 物語の起伏、豊かさなどを抜いて、単純にミステリとしての巧さで言えば、一期の短編が素晴らしい。乱暴ではありますが、乱歩のミステリの面白さというかアイデア創出力というかは徐々に下がっていったとも言えます。それを補うかのように長編ならではのドラマ性に工夫を凝らしたり、海外作品の翻案、少年もの、トリック研究、普及活動など精力的に仕掛けていくわけです。

 対してヒッチコックはどうか。不勉強なりに活動時期を大きく二つに分けました。「レベッカ」でハリウッドに進出する前と後です。

 おそらく、ハリウッド進出前のイギリス時代の作品で映画ファン以外の一般層に一定以上の知名度があるのは1938年の「バルカン超特急」くらいなのではないでしょうか。

 年表をつくる編集の仕方でそう見えるように仕向けているところはあるのですが、1940年を境に乱歩と入れ替わるようにヒッチコックが売れていったようです。

 ヒッチコックが「バルカン超特急」で売れた1938年に乱歩がなにをしていたかといえば、「妖怪博士」の連載なのです。「妖怪博士」は少年ものの第三作。乱歩が割り切って少年ものにシフトしたととらえることもできそうなのです。

 1940年「レベッカ」の年に乱歩が取り組んでいたのは「新宝島」。この作品の乱歩ファン以外の一般層の知名度は低いでしょう。

 1951年「見知らぬ乗客」の年に乱歩は評論集『幻影城』を出していて、書き手からは一歩引き、研究者としての覚悟を示しているかのよう。

 1954年「ダイヤルMを廻せ!」「裏窓」の年には自らの名を冠した乱歩賞の制定に動き、最前線からは撤退し、後進に道を譲ったようです。翌55年、「ヒッチコック劇場」でプロデューサーとしてテレビに活躍の場を広げた年に記念碑が立ち、乱歩はすっかりレジェンドになっています。

 1950年代がヒッチコック黄金期となるのでしょうか。世界情勢や、映画業界と日本の推理文壇の違いなど、同列に語ることは難しいところはあるのですが、ヒッチコックは遅咲き、幸か不幸か乱歩はデビュー直後から才能を搾り出してしまったというところでしょうか。

 サスペンス映画は技術の蓄積がものを言う積み上げのアート、探偵小説はアイデアの消費がつきものの削り取るアート、としてしまうのは雑だとは感じるのですが、後年の乱歩の研究は「ミステリ技術の積み上げ」を新しい時代の人々に残そうという試みだったのではないか、と考えると、ちょっとぐっとくるものがあります。

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