「人間が描けていない」という文句を解剖する
前回、きちんと小説として洗練されていることがミステリとして提示される真相の驚愕などにも繋がっているのだ、といったことを書きました。セイヤーズの「疑惑」はママリイ氏の心の動き、小説の部分がきっちりしているから評価が高いのだといったことも書きました。
逆に言えば、よくできたパズルを解けるだけでいいのだ、小説という形式でパズルを味わいたいのだという人にとっては丁寧に描いた心の動きは不要なものとなるのかもしれません。
シャーロック・ホームズの推理がワトソンや依頼人を驚愕させるのは丁寧な論理の連なりの途中を端折って、結論だけを告げるからです。「なぜわかったのか」を説明するために推理の道筋を手がかりから丁寧に解説していくと驚きはなくなります。
ミステリの悩ましいところは、丁寧に描写すると驚きが減じたり消えたりする点です。象徴的なのはクリスティーです。またあいつかよ勘弁してくれ、とセイヤーズに祟られそうですが書きます。
クリスティーの得意技は「言い落とし」と「ダブルミーニング」。
言い落としは必要な情報を伏せることで誤解を誘発させること。これは「地の文で噓を書いてはならない」というミステリにおける鉄の掟を守る(というか破らない)ためにも有効なテクニックです。
ダブルミーニングは言葉の二重性を利用したひっかけのみならず、ある現象をAと受け取ったが実はBだったという言語に限らない範囲にまで及びます。
クリスティーはあえて細部まで正確に書かないことで噓をつかずに誤解をさせて驚かせる達人です。
優れた小説のように丁寧に心の動きを追ってしまうと、読者に情報が正確に伝わってしまいます。ホームズの推理の過程をつぶさに提示してしまうのと同じ現象が起きるのです。ですから、驚きを提供するためには作家は「伝わらない」書き方をしなければならないこともあるわけです。
ミステリ界隈をウロウロするとどうしても遭遇してしまう文言に「人間が描けていない」というものがあります。あまり好きではないフレーズです。私の好きなものを傷つける言葉だから嫌なのだとずっと思っていました。最近、それだけでなく言葉の意味や発する人の心をきちんと理解できていないからではないかと感じています。
この「疑惑」を読んで、ミステリは意外性を伴った謎の解決のために描けない部分があることを改めて感じました。もちろん、心の動きをすべて垂れ流すように書くのでは小説というアートになりえません。どうしてもどこかに取捨選択は生じます。普通の小説ならばいったんは作家の天秤にかけられる部分が、驚きのために最初から天秤にかけられていないということが「人間が描けていない」という批判の一部をなしているのかもしれないと考えました。一部ですよ、ごく一部。
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