文句ばっかり言って。

丹羽 鶏一郎

第1話

世界は朝から始まる。

太陽に、隠し損なった本当は全部、焼き尽くされて。

まっさらな今日を纏う。


世界が真っ暗なうちに、汚れきった今日は洗われる。濡れた今日は、夜風に吹かれ川の流れを見つめ星を見上げ、闇の静寂のなかでひたすら日の光を待つ。どんな洗剤も石鹸も、洗われて濡れた今日に潜む細菌を除去できない。ただ、地平線と東向きに昇る太陽の初めの接点からこぼれんばかりに溢れる日の出だけが、その全ての忌むべきものを消し去って。その瞬間、今日は昨日になって、明日が今日になる。全ての物があるべき場所に、あるべき通りにあるように。


「ああ、また、汚くしちゃった。」

 服の裾であいつの頬を軽く擦ってみる。頬の汚れはこびりついて、びくともしなかった。両の掌をめいっぱい広げて、あいつの頬を包む。汚れに熱を加えると乾き切った泥汚れみたいなそれが粘土のように柔らかくなって簡単に剥がれる。汚れと皮膚の接着面まで35度4部が届くまで、結構な時間がかかるけど、無精しちゃいけない。水で流そうとすると、粒子同士が結合して水分を取り込み、体積は10倍、亀の甲羅みたいに固くなって…失敗は一回で十分。

 あいつの頬に手を添えて、じっと考えてみる。お風呂場の、一つしかない長方形の小さな窓から溢れる月明かりが、あいつの黒髪に居座る。あたしのパサパサした茶髪とはかけ離れた、長く真っ直ぐな黒髪。あたしが体をゆっくり揺らすと、あいつも体を揺らす。振動が共鳴して黒髪がなびく。川の流れのような質量が右往左往するのに心奪われた後、時間の経過にはっとして、

「落ちないかも。」

 今日は、どうしよう。昨日も一昨日もできたことだけど、今日はできなかったらどうしよう。例え、ちゃんとできていても、求められていることが今日は違うかもしれない。保証はどこにもないんだ。正しいともわからない。あたしが間違ってたら。

「…。」

 顔を上げて、前を向く。あいつは軽く顎を上げておとなしくしている。汚れのせいであいつは目は開けられないし、あたしはその表情も汲み取れなかった。舗装されてない道路みたいな床に膝をつき、手はだらんとさせて、ただただ待っている。汚れの表面はじんわり冷たくて、かじかむことはないけど、少し気になる。話ができたらな、と思った。しんとしたなかで、目の前に観葉植物を置かれて、監視するだけの仕事。世界のあんたの気持ちが、今ならわかるよ。

 名も知らない人生をひとしきり辿って、長くて量の多い睫毛にヘドロが絡まってる様と目があった。電飾に彩られた針葉樹が頭に浮かぶ。すると同時に、両手の感触が一瞬ふっと軽くなってすぐずしっと重くなる。体温が到達しきった。粘土状のそれを軽くこねて、生気のない肌に塗るつける。反応を起こしたヘドロ状の物体を汚い部分に塗りつけて、指でそっとこそいでやると、汚れが落ちて真っ白い肌が顔を覗く。あたしはこの瞬間、いつもほっとする。これを何度も何度も繰り返して身体中の汚れを落としきる。顔、首、肩、胸、腹、腕、足、背中、髪。終わる頃にはいつも汗だくだ。

 まつ毛に付着した汚れ以外、全部取り去って、腕いっぱいのリンゴぐらいの重さのヘドロを思い切り脇に投げた。これは朝には跡形もなくなる。最後の仕上げだ。

 両方の手のひらを音が出るくらいの速さで擦った。指と指とを組んで、何度も組み替える。1人で恋人つなぎをして、力を込める。頭がつんとするまで。

 右手の親指と人差し指の腹同士をこすり合わせて、人差し指に汚れを絡ませる。十分に温めた指と冷えた汚れの温度差によって、磁石棒を向けられた砂鉄のように、くるくると巻きついてくる。左目の目尻から、右目の目尻まで通った。明かりの灯る時がきた。

 すだれた睫毛がゆっくりゆっくりまぶたに押されて、存在感をなくす。

 宇宙と目が合う瞬間。

 この瞬間、息ができなくなる。息をのんだきり、吐くのを忘れてしまうんだ。私の二酸化炭素を吸わせるのは、あまりにもったいないから。本能がそれをわかってる。このままずっと…。

「ぐえ。」

 あいつが首に手を回して、思い切り抱きついてきた。物理的に息ができなくなる。ひとしきり頭を撫で回されたら、

「行こうか。」

  手を繋いで、街に出る。夜のうちに。

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