第20話

 昌克が楓と共に高い丘を登り、研究所近辺へ辿り着いた瞬間。

 異様な血臭に気づき、思わず顔を歪めて呟いた。


「そんなに離れた位置じゃないな……近くで誰かが負傷したみたいだ」

「ですが……誰の姿も見当たりませんね」


 楓の言う通りだ。

 周囲に注意深く視線を巡らせても、人間や魔物がいるようには見えない。

 しかもここは丘の上で、障害物もないのである。


「臭いの元は……どこだ」


 呟きつつ、昌克は楓と共に研究所の入口へ向かうが、途中で足を止めた。

 地面のある一点に、黒い染みが広がっていたからだ。

 見ただけで魔物の血液だと分かる。


「あれか」


 素早く駆け寄り、屈み込む昌克。

 そして驚異的な五感で血液の状態を詳しく確認し、唖然とした。


(まだ新しい……地面にぶちまけられてからそれほど経っていないぞ……!)


 つまり、先ほどまでここに魔物がいたのだ。

 どちらの派閥なのかは分からない。

 しかしこの一ヵ所だけでなく、他の地点にも血痕が無数に残されているので、何があったかは簡単に推測できる。


(ここで誰かと誰かが戦っていた。赤い血痕がないことから、おそらく魔物同士の戦いだ。この様子では勝った方も無傷ではないだろうね)


 そして黒い血痕は、研究所の入口付近にも見える。


(研究所を根城にしているのか、それとも僕達の接近に気づいて一時的に逃げ込んだだけなのか)


 いずれにせよ、中へ入るなら十二分に警戒しておく必要がある。


「楓ちゃん」


 注意を促すために話しかけようとした直後。

 楓が何も言わず、軽やかな足取りで研究所へ入っていく姿が見えた。


「なっ……!?」


 あまりに無警戒。

 驚きつつも、昌克は慌てて彼女を追いかけ、中へ足を踏み入れた。

 研究所内は酷く殺風景だ。

 通路が正面と左右に分かれているだけの単純な構造で、天井や壁、床の全てが黒く焼け焦げている。

 これでは魔物の血液が付着していても、判別できないだろう。

 しかし、昌克は別のことを気にした。


(様子がおかしいぞ……何があった?)


 楓は単独で、正面通路の奥へ向かっている。

 しかも、動きに迷いがまったくない。

 どこに何があるのかを、完璧に把握しているかのようだ。

 そうでなければ、これほど無警戒に歩けるわけがない。


「楓ちゃん……?」


 困惑しながら追いかけ、声をかける昌克だが返事はない。

 楓は何も言わず、奥へ向けて歩くのみ。


「一体どうしたんだよ……?」


 並んで歩きながら楓の顔を見て、昌克は冷や汗を流した。

 彼女が酷く虚ろな表情をしているからだ。

 もはや意識があるかどうかも怪しい。


「楓ちゃん……!」


 軽く肩を掴んで呼びかけるが、やはり楓は何も言葉を返してこない。

 まるで操られているかのように淡々と足を動かしている。

 昌克を無視して歩き続け、正面通路奥まで辿り着くと楓は素早く屈み、床に走る亀裂の一つへ手を突っ込んだ。

 間を置かず腕を引いた直後。

 その位置の床に変化が生じ、縦横九十センチほどの正方形に割れる。


「……」


 楓は相変わらず虚ろな表情で、何も言わずに床を引き抜いた。

 どうやら蓋だったらしい。

 先ほどまでそれがあった位置の下には、階段が見える。


(隠し階段だと……!?)


 探している間に偶然発見したという感じではない。

 事前に知っていたとしか思えない動きだ。

 蓋を近くの床へ投げ捨てる楓を眺めながら、昌克は思った。


(記憶喪失になる前の楓ちゃんがここにいたというのは……もう疑う余地はないね)


 そんなことを考えていると、楓が階段を下りていくのが見えた。


(単独行動は危険だ……何とか止めないと……!)


 昌克は慌てて追いかけようとする。

 だがその前に、背後から女性の声が聞こえてきた。


「待ちなさい、昌克」

「!?」


 昌克が冷や汗を浮かべながら振り向くと、十数メートル前方に一組の男女がいた。

 達也と雪華だ。


(しまった……僕としたことが……!)


 様子がおかしい楓にばかり意識を向け、周囲の警戒を怠っていたのだ。

 迂闊としか言いようがない。


「くっ……!」


 昌克は素早く懐に手を入れ、白布を取り出した。

 決して有利な状況ではない。

 だが三体共、岩場での戦いで軽くないダメージを負っているという条件は同じだ。

 立ち回り方によっては、撤退に追い込むこともできなくはない。

 そう思いつつ、白布を構える昌克に対し、雪華は静かな口調で言った。


「警戒する必要ないわ。私達の役目は足止めであって、殺すことじゃないもの」

「足止めだと……?」

「そうよ。楓以外は地下へ行かせるなと、神威さんに命じられているの」


 雪華が言い終えた直後。

 彼女の隣にいる達也が、口を開いた。


「大人しくここにいた方が賢明だよ。何しろ地下には今、神威さんがいるからね」

「なっ……神威が……?」


 過激派のリーダーが直々に来ているというのか。

 ならば単独で地下へ行った楓は、酷く危険な状態と言える。


「楓ちゃん!」


 叫びながら、昌克は階段の方へ振り向いて下りようとする。

 しかし、凄まじい速さで接近してきた達也に腕を掴まれ、強引に動きを止めさせられてしまう。


「やめておきな。今あそこへ行ったら、残酷な事実を知ることになる」

「残酷な……事実……?」

「ああ。楓と泰明にとっては特にね」


 それを聞いて反射的に動こうとする昌克だが、できなかった。

 今度は雪華が神速で懐へ入り、彼の腕を掴んだからである。


「事が済むまで、貴方には私達と一緒にいてもらうわ」

「くっ……!」


 左右の腕を掴まれ、何とか振りほどこうとしながら、昌克は忌々しげに呻いた。



 ※※※



 楓は困惑していた。

 いつの間にか知らない場所に立っていたからだ。


(ここは……どこ……?)


 心の中で呟きながら周囲を見渡した。

 彼女が立っているのは、広い空間の中心だ。

 天井には数多くの電灯があり、周囲を明るく照らしている。


「……」


 静かに視線を巡らせると、巨大な円筒状のカプセルや用途不明の機械があることに気づいた。

 一つや二つではない。

 緑色の液体で満たされた半透明のカプセルが、機械と共に数え切れないほど設置されているのだ。

 

(まさか研究所の中……なの……?)


 内心動揺しながらも、楓は周囲の観察を続ける。


(この暗さからすると……多分ここは地下ね)


 だが、いつこんな場所へ来たのか。

 まったく覚えていない。

 それに昌克は今、どこにいるのだろうか。


(昌克さんと、合流しないと)


 無数の巨大なカプセルについて、気にならないと言えば嘘になる。

 しかし本格的に調べるのは後回しだ。

 今は昌克との合流を優先すべきであろうと思い、階段の位置を確認した瞬間。


「!?」


 彼女は目つきを鋭くして、素早く構えた。

 林立しているカプセルの隙間から、音もなく男性が姿を見せたからだ。

 神威である。


「神威……!」


 鋭い目つきで睨みつけ、彼の名前を呼ぶ楓。

 直後に、彼女は困惑した。


(私……どうしてあの男の名前を……?)


 彼とは初対面。

 姿や名前など知っているはずもないのに、自然と口から出てきたのだ。

 困惑しながらも構える楓を見て、神威は笑みを浮かべた。


「やはり来たか。プログラム通りだな。私の姿と名前も憶えている、いや、思い出したようだ」


 楓の方へ歩み寄りつつ、彼は続ける。


「達也が言っていた通り、完全な成功作というわけだな。後は完全覚醒させて、その際の処置さえ間違えなければ何も問題ない」

「……」


 楓は黙って、神威の言葉を聞いていた。

 気になる内容だが、考えるのは今ではない。

 優先すべきことは他にある。


「昌克さんは、どうしたの……?」


 ここは研究所の地下らしい。

 そしてドアや通路の類がまったく見当たらず、上への階段があるのみ。

 つまり地下研究所とは、この広い空間だけという可能性が高いのだ。

 ここに昌克がいないなら、彼は上にいるはずだが、おかしい。

 つい先ほどまで一緒だったのに、なぜ今は別々なのか。

 内心、酷く混乱している楓に対して、神威は淡々と答えた。


「上で達也と雪華が足止めしている。殺せと命じた覚えはないから安心しろ」

「……」


 それで安心できるわけがない。

 今すぐにでも上へ行きたいが、階段は神威の背後に存在する。


(どうやって彼の背後へ回り込んで……上へ行くか……!)


 楓は構えを解かず、必死にその方法を考える。

 すると神威は両腕を組み、問いかけてきた。


「昌克のことが、そんなに心配か?」

「当然よ!」


 怒気すら含む口調で楓は叫んだ。

 昌克は泰明の親友であり、大切な仲間。

 心配しないわけがない。

 そう思って叫んだのだが、神威は意外な反応を見せた。


「どうやら感情面のプログラミングも完璧に成功したようだな」


 いつの間にか彼は、どこか哀れむような表情を浮かべている。


「非常に喜ばしいことではあるが、哀れとも感じる」

「何が哀れなの……?」

「作られた感情を、自分自身の感情だと思っていることだ」


 こいつは、何を言っている。

 楓は意味が分からずに、混乱するばかりだ。

 そんな彼女を見ると、神威は哀れむような表情のまま続けた。


「教えてやろう。お前は、ここで誕生した」


 楓の顔から、血の気が引いた。

 驚愕のあまり言葉もなく、呆然とする。


「ここで……?」

「そうだ」


 即座に肯定する神威。


「我ら過激派は昔から慎重に考え続けた。どうすれば社会の支配を成し遂げ、人間への復讐を遂げられるかをな」

「……」

「人間と共に生きようとする共存派への対策も必要だったが、魔王であり不死身である灯真様が共存派に所属している以上、どうあがいても勝ち目はなく我々は途方に暮れていたよ」

「不死身……?」


 楓が問いかけるように呟いた直後。

 神威は小さく頷き、答えた。


「正確には不死身に近いというだけで、死なないわけではないがな。それでも灯真様だけが持つ魔王の力は驚異的だ。どんな怪我も即座に完治し、怪我をするたびに傷つく前よりも強くなり、頑丈になり、速くなり、五感も研ぎ澄まされる。これがどれほど恐ろしいことか、分かるだろう?」


 当然だ。

 どんな負傷も超高速で再生し、そのたびに強くなる存在など、敵対勢力にとっては悪夢でしかない。


「灯真様が共存派である限り、過激派は迂闊に動けない。だがある日、そんな状況を一変させられるかもしれない方法を思いついた」

「それは……何?」

「きっかけは灯真様が事故で傷を負い、出血したことだ。我々は灯真様の血液が付着した物を回収し、研究所まで運んで解析。その時に特殊な血液こそが、魔王の力の源だということが分かった」

「特殊な血液……?」

「灯真様の血液は黒でも赤でもなく、緑。他の魔物とは根本的に違う存在だ。そしてその血液を手に入れた時、我々は絶好の機会だと思ったよ。この血液を利用し、我々も魔王の力を獲得できるかもしれない、とな」


 いつの間にか、神威は表情を変えていた。

 実に忌々しげだ。


「だが結局獲得できなかった。そこで我々は自分達が魔王の力を得るのではなく、魔王の力を持つ生命体を培養し、過激派の味方にしようと考えて実験を開始した。灯真様の血液を元にな」

「まさか……その培養生命体が……!?」

「我々が実験体と呼ぶ少女達だ。お前もな。お前達は灯真様を倒し、人間社会を支配するために作り出された存在なのだ。だから家族など最初からいない。実験に付き合った、あるいは付き合わされた人間ではなく、この地下研究所で血液を元に一から培養された生命体だからな」


 世界の全てが、崩れるような錯覚を覚えた。

 それほどに衝撃的だったのだ。

 両親の顔を知らず、泰明に保護されるまでの記憶もない。

 しかし、こんな事実なら知りたくなかった。

 魔王を倒し、社会を支配するためだけに培養された生命体。

 それが自分の正体。

 認識すると同時に少し恐怖を感じたが、続く神威の言葉に、それは消し飛んだ。


「つまり我ら過激派こそ、お前を誕生させた親と言えるだろう」

「ふざけるな……!」


 楓は怒りの表情で叫んだ。

 本当に過激派が親に該当する存在だとしても、それを認める気はない。

 迫害されてきた復讐を成し遂げるために、非倫理的な活動を繰り返した集団。

 そのような連中が親だと言われても受け入れられるはずがない。

 事実だとしても、だ。

 何より楓には、既に親と呼べる存在がいる。


「私の親は新井泰明よ。誰よりも優しくて、強くて、大好きな父さん」


 高ぶってきた感情のままに、楓は叫んだ。


「貴方達なんかじゃないわ……!」

「そう思う気持ちも作られたものだとしたら?」


 楓の心臓が、不安と恐怖で鼓動を速めた。

 これ以上、聞いてはいけない。

 知ってはいけない。

 そう思いつつも、神威の言葉に耳を傾けてしまった。


「我々は実験体四百人の脳に、あるプログラムを組み込んだ。自分に対して好意を向けた魔物、優しくしてくれた魔物に懐くというものだ。過激派の味方にしやすくするためだけに組み込んだのだが、それが魔物と培養生命体の親子という奇妙な関係を誕生させたようだ」


 楓に向かって前進しながら神威は言う。


「こうなると、灯真様と時雨に計画を察知されて研究所を破壊されたことは、結果的に良かったのかもしれん。手間こそ大幅に増えたが、プログラムが正常に機能していることが確認できたのだからな」

「……」

「お前がここへ来れたのもプログラムによるもの。この研究所の近くまで足を踏み入れた実験体は、自分の意志とは関係なく無意識に地下へ下りるようにプログラムを組み込んでおいた」

「……」

「お前の泰明に対する敬意や愛情などもプログラムの産物であり、作られた気持ちに過ぎんのだ。魔物に対して偏見を持たないこともな。お前自身の意志とは関係ない」

「嘘よ……!」


 今までにないほど力強く、悲痛な表情で、泣きながら楓は叫んだ。


「私は自分の意志で父さんを愛した……プログラムされていたから愛したんじゃないわ……!」


 あまりにも悲壮な叫びだ。

 昌克、時雨、他の共存派の魔物達。

 そして、泰明。

 彼らに対する信頼や敬意が、プログラムの産物に過ぎなかったなど認められるはずがない。


「違うな。単独で無意識に地下研究所まで来れたことがプログラムが正常に働いている証拠。ほとんどの実験体は魔王の力を宿さぬ失敗作だったが、お前だけは魔王の力を見事に宿した成功作なのだからな」


 淡々と告げる神威は、複雑な表情を浮かべていた。

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