第16話

 構えるなり、達也は動いた。

 一瞬で距離を詰め、正面から殴りかかってきたのだ。

 腹部めがけて迫る拳を、楓は一歩横へ動いて空振りさせる。

 直後に響き渡る風切り音を聞きながら、彼女は素早く踏み込んだ。

 腰と軸足を高速で回転させ、拳に体重を乗せて、達也の脇腹を狙う。

 疾風に等しい猛烈な勢いだ。

 相手が並の下級魔物であれば当たっていただろうが、達也は直撃寸前に一歩後退し、回避する。

 拳が超高速で彼の残像を横から貫き、風切り音を響かせた瞬間。

 達也の腹部が浅く裂け、少量の鮮血が飛び出した。


「なっ!?」


 直撃こそしなかったものの、かすっていたのだ。

 驚く達也の足首を狙い、楓は鮮やかな動きで前進して蹴りを放った。

 転倒させるつもりであったが、達也は瞬時に後退。

 楓の蹴りは当たらずに空振りしてしまい、二度目の風切り音を鳴らしただけだ。

 直後。

 達也は猛然と前進し、お返しとばかりに楓の足首へ蹴りを叩き込んだ。

 打撃音と呻き声が同時に響き渡る。


「うっ……!?」


 楓はバランスを崩して仰向けに転倒。

 即座に立ち上がろうとするも、そんな暇はなかった。

 その前に、達也が肩を踏み潰そうとしてきたのだ。

 慌てて横へ転がり、何とか軌道から外れる楓。

 一瞬後、達也の足が岩盤を踏み砕き、轟音を響かせた。 

 周囲に破片が飛び散っていく。


「……」


 破片を腕で払いながら立ち上がると、楓は前方に顔を向けた。

 達也が踏み砕いた位置の岩盤に、小規模のクレーターが形成されている。

 凄まじい破壊力だ。


「今のタイミングなら間違いなく肩を潰せると思ったんだけど、素早いね。攻撃の方も速く鋭い。結構やるじゃないか」


 達也は腹部の浅い傷に触れ、続けた。


「泰明達に鍛えられたんだろうけど、僕と君が出会ってからまだ数か月。どんなに厳しい訓練を積み重ねても、たったそれだけの期間で素人がここまで上達できるとは思えない」

「何が言いたいの……?」

「君は成功作の可能性があると言いたいのさ」


 それを聞いて楓は少し寒気を感じた。

 誘拐された少女達が実験体であり、魔王の力が宿っていないから失敗作と言われたらしい、という話を思い出したのだ。


(成功作だから……私は急激に上達できたということ……?)


 気になったが、この状況では考える余裕などない。

 今は戦いに集中するべきだ。

 楓がそんな気持ちで構え直していると、達也は前傾姿勢になって続けた。


「試させてもらうよ。手加減なしの全力でね」


 直後。

 達也は足元の岩盤を陥没させるほど猛烈な勢いで突進し、瞬時に懐へ飛び込み、膝で攻撃してきた。

 その速さに驚きつつ、半ば反射的に回避しようと動く楓だが、間に合わない。

 膝は彼女の脇腹に深くめり込み、打撃音を響かせ、大きく蹴り飛ばした。

 猛烈な痛みと痺れを感じ、吐血しながら楓は宙を舞い、十数メートル離れた位置の岩盤へ落ちて転がる。


「うぅっ……!」


 全身が酷く痛む。

 無防備に岩盤の上へ落ちたせいでもあるが、特に脇腹のダメージは甚大だ。


(砕けた……!)


 先ほど蹴られた際に、体内で何かが砕けるような感覚を覚えた。

 おそらく肋骨が何本か破壊されたのだ。

 楓は激しい痛みで呻き、軽くせき込んでしまう。

 少量の鮮血が口から飛び出し、岩盤に降りそそいだ。


(次は……かわしてみせる……!)


 そう思いながら立ち上がった瞬間。

 達也の姿が、視界から消えた。

 いや、正確には一瞬だけ見えたが、反応する時間がない。

 彼の足が恐ろしい速さで上から振り下ろされ、踵が肩に直撃した。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!」


 今まで一度も経験したことがない壮絶な痛みだ。

 苦悶の表情を浮かべて叫びつつ、楓は膝をついた。

 踵落としを受けた肩は無残に裂け、次々と鮮血が流れ出ている。

 決して少なくはなく、傷口から割れた骨まで見えるという有様だ。

 これで脇腹のみならず、肩にも重傷を負ったことになる。


(強い……達也が父さんと互角というのは本当らしいわね)


 ならば、こうなるのは当然。

 幾度となく繰り広げた模擬戦で、楓が泰明に勝ったことはないからだ。

 いかに身体能力で上回っていようと、技量や経験で大きな差があるため、勝ち目は薄い。

 楓が戦慄していると、達也は静かに問いかけてきた。


「楓。まだ痛むかい?」

「?」


 何を言っているのか。

 不思議に思ったが、すぐに彼女は奇妙な違和感を覚えた。


(痛く……ない……?)


 いつの間にか出血が止まり、傷口も完全に塞がっている。

 しかも肩や脇腹にまったく痛みを感じないため、どうやら骨までもが元通りになったらしい。


(こ……これは……!?)


 どう考えても異常な再生速度だ。

 自然に得られた力とは、思えない。

 そして他にも、気になることはある。


(達也は……このことを……?)


 知っていたのだろう。

 そうでなければ、先ほどのような質問はしないはずだ。


「達也」


 聞かなければならない。

 答えてくれるかどうかは分からないが、ひとまず問いかけようとした瞬間。

 達也が嬉しそうな表情で、口を開いた。


「完治したようだね。つまり魔王の力が問題なく宿っている証拠。だけど念には念を入れて、もう少し試すとしよう」


 そう言って、彼は動いた。

 先ほどまでの楓なら、間違いなく対応が難しい速さだ。

 今は違う。

 両目で、達也の動きを完璧に捉えている。

 肩めがけて突き出された拳を、半身を引いて回避。

 続けて脇腹を狙った蹴りも、素早く後退して空振りさせる。

 達也が再び攻撃を仕掛ける前に懐へ入ると、楓は彼の腹部を殴った。


「ぐっ……!」


 打撃音と共に達也は呻き、吹っ飛んだ。

 それを見て、楓は驚いた。


(強く……なっている……?)


 単純に怪我が治っただけではないらしい。

 動体視力や反応速度が以前よりも格段に上がった。

 それだけではない。

 全身の筋力自体も飛躍的に向上したようだ。

 詳しい理由は分からないが、今そんなことを考えている場合ではない。


(今は……戦いに集中する!)


 楓が心の中で叫んだ瞬間。

 達也は吐血し、口の周囲を黒く染めながらも、歓喜の表情で言った。


「間違いない……君が成功作だ」


 どうやら、もう戦う気はないらしい。

 先ほどまでと違い、達也から闘志が感じられないのだ。


「嬉しいよ……やっと成功作が見つかった……!」


 言葉と共に達也は懐から何かを取り出した。

 細長い物で、下部に紐がついている。

 筒、だろうか。


「でも僕達だけでは手に余る……ひとまずこの場は全員撤退だね」


 言い終えるなり、筒を足元へ向けて紐を引く達也。

 直後。

 筒の先端から何かが恐ろしい勢いで飛び出し、岩盤に激突した。

 奇妙で大きな音が周囲に響き渡り、耳に鋭い痛みが走る。

 半ば反射的に楓は顔をしかめ、一瞬達也から視線を外してしまう。


「!?」


 慌てて周囲に視線を巡らせるが、近くに達也の姿はない。

 遠くに、走り去る彼の背中が見えた。

 今の筒から飛び出した物を囮に使ったらしい。

 まだ追いつける距離だが、楓は動かずに違う方角へ顔を向けた。

 自分と同じように、泰明達も過激派と戦っているからだ。

 彼らの安否が気になる。


(達也の口振りからして、今の奇妙な音は撤退の合図だったみたいね)


 既に岩場のどこからも争う音が聞こえてこない。

 本当に他の過激派も撤退したかどうかはともかく、戦闘終了したことは確かだろうが、油断は禁物だ。


(みんな……無事でいて……!)


 心の中で呟いて駆け出すと、楓は決して気を抜かずに周囲を警戒しながら、泰明と昌克の姿を探した。



 ※※※



 翌日。

 ビルの最上階にある部屋に、過激派の魔物が集まっていた。


「達也……それは事実か?」


 椅子に座ったまま問いかけたのは、神威だ。

 視線の数メートル前方に達也と雪華が立っている。

 どちらも無傷ではない。

 達也は腹部に包帯を巻き、雪華も片腕の肘をギプスで固定しているのだ。

 ダメージが軽くないことは一目瞭然。


「事実です」


 掌で腹部に触れ、少し冷や汗を流しながら達也は答えた。


「骨折さえもすぐに完治する圧倒的な再生速度。それに伴って、全身の筋力や動体視力、反応速度などの急激な強化。それらを、しっかり確認しました」

「間違いないな?」

「はい!」


 自信に満ちた表情と口調だ。

 それを見て、神威は小さく頷いた。


「分かった。お前の言葉を信じよう」


 言い終えた瞬間。

 雪華が、神威に問いかけた。


「神威さん。今後の誘拐対象は新井楓のみということになりますか?」

「ああ。もう他の実験体達を連れ去る理由はなくなったからな」


 そこで窓の方へ顔を向け、外を見ながら続ける神威。


「成功作発見は実に喜ばしいが、残念なのは星司が帰ってこないことだな」


 それを聞き、達也は表情を暗くした。

 星司の安否を気にする余裕がなかったのだ。

 雪華も同じようで、申し訳なさそうに顔を下へ向けている。


(これだけ時間が経過しても帰ってこないということは……捕縛されたと考えるべきか)


 泰明や昌克と大差ない実力者である星司の脱落は、少し痛い。

 達也がそのようなことを考えていると、不意に神威が話しかけてきた。


「そんな顔をするな、達也。雪華もそこまで気に病むことはないぞ。楓を手中に収めて計画の最終段階を成功させれば、過激派は共存派を遥かに凌ぐほど強大無比な勢力となる。そうなれば、捕まった仲間達の救出も簡単だ」


 確かに、彼の言う通りである。

 過激派の計画を成功させることは、それほどまでに大きな意味を持つのだ。


「楓の誘拐実行班には私も加わる。もちろん隠密行動が前提だ。お前達にも加わってはもらうが、決して無理をするなよ」


 静かだが、力強い口調だ。

 達也と雪華は何も言わずに小さく頷いた。

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