黒血の魔物

グオティラス

第1話

 真夜中。

 町外れにある家の一室で、少女がベッドに腰かけていた。

 肩まで届く長い黒髪と、白いワンピースが印象的だ。


(何の音……?)


 美しい顔には困惑の表情が浮かんでいる。

 彼女は今まで熟睡していたが、急に奇妙な音が聞こえてきて目が覚めたのだ。

 

(どこ……から……?)


 少女はベッドから出て、室内を見渡した。

 学生鞄や複数のぬいぐるみがあり、勉強机の上に置かれた定期券には、新井楓あらいかえでと書かれている。

 しかしいずれも、勝手に音を鳴らすような代物ではない。


(この部屋からじゃ……ない)


 ならば室外。

 まだ鳴り続ける音が気になり、楓はドアを開けて廊下へ出た直後。

 斜め前にある窓の外で、誰かが動いていることに気づいた。


(誰……?)


 窓の外は庭である。

 泥棒でも侵入してきたのだろか。

 それなら、先ほどから続く物音の理由も説明できる。


(確かめないと)


 本当に泥棒かどうかは分からない。

 だから勇気を出し、静かに窓へ近づいた直後。

 庭の中央に、人影がはっきりと見えた。

 月光に照らされ、男性の姿が浮かび上がっている。

 精悍な顔立ちで背が高く、服の上からも分かるほど筋肉質だが、鈍重そうな印象はない。

 左右の拳を凄まじい速さで交互に突き出し、次々と風切り音を鳴らしているからであろう。


(これが物音の正体だったのね……それにしても父さんは何でこんな夜中に?)

 

 男性の名前は新井泰明あらいやすあき

 数年前に楓を引き取った養父で、血のつながりはない。

 しかし、名付け親は彼である。

 楓が自分の過去を、まったく覚えていなかったためだ。

 聞いた話では、全身に酷い怪我を負った状態で路上に倒れていたところを、泰明が発見したらしい。

 そして警察に事情を聞かれても、楓は何一つ答えられなかった。

 どのような経緯で酷い怪我をしたのか、なぜ路上に倒れていたのか。

 さらに、自分の本名や家族のことも思い出せないという有様。

 施設へ送られなかったのは、発見者の泰明が引き取ってくれたからである。

 故に、楓にとって彼だけが親なのだ。


(悩みでもあるのかしら……?)


 泰明は凄腕の格闘家だ。

 強さだけでなく、道場を開けるほどに指導力も優れている。

 そして何か悩んでいる時は、鍛錬で気を紛らわせるのだ。


「……」


 自分で良ければ、相談に乗りたい。

 力になりたい。

 そう思い、楓が窓を開けた瞬間。

 泰明は動きを止め、彼女の方へ顔を向けた。


「音でお前を起こしてしまったのか……すまんな、楓」

「別に良いよ。気にしないで」


 言いながら、楓は心配そうな表情を浮かべた。


「何かあったの……?」

「俺自身に何かあったわけではないさ」


 呟いて両腕を下ろし、周囲を見渡す泰明。


「ただ、この町ではお前を引き取った頃から、物騒なことが多くなったからな」


 その通りだ。

 小、中、高いずれかの学校に通う少女が、忽然と姿を消す事件が後を絶たない。

 目撃情報が皆無に等しく、失踪者の年齢もそれぞれ大きく異なる。

 共通点は学校に通っていることと、性別しかないため、警察の捜査も難航しているらしい。

 誘拐の可能性も高いが、それなら犯人から何の連絡も来ない点が奇妙と言える。

 手がかりがつかめないまま、失踪者の数だけが増え続けているのが現状だ。


「ここ数年で百人以上も失踪してしまった。いつお前が次の被害者になってしまうかと思うと、夜も眠れん」


 そこで泰明は表情を曇らせた。


「俺が護衛としてお前についていてやれれば、一番なんだがな」

「父さん……私なら、大丈夫よ」


 泰明を安心させようと、楓は静かに言った。


「この事件が誘拐だったとしても、怪しい人が近づいてきたらすぐ逃げるわ。足の速さには自信があるもの」


 楓の身体能力は高い。

 同年代の少女達と比較しても、格段に上だ。


「確かに……お前なら逃げ切れると思うがな」


 不安そうに、泰明は続けた。


「とにかく十二分に警戒していてくれ。何かあってからでは遅い」


 その言葉を聞き、真剣な表情で楓は頷いた。

 本当に誘拐ならば、犯人は何年も多くの標的を連れ去り続けていることになる。

 誰にも見つかることなく、まったく証拠も残さないまま、だ。

 どれほど警戒しても足りない相手だろう。


「さて、そろそろ俺も寝なければな。お前も部屋に戻れ」

「分かった。おやすみなさい、父さん」

「ああ。おやすみ」


 泰明との会話を終えると、静かに窓を閉めて歩きながら、楓は思った。


(失踪事件……か)


 一体いつまで続くのだろうか。

 泰明を安心させるべくあんなことを言ったが、本当は大丈夫などと思っていない。

 いまだ解決の目途も立っていないという状況には、否が応でも恐怖を感じる。

 しかしそれを表情や口に出すことで、泰明をこれ以上不安にさせたくないのだ。

 だから、楓は恐怖を押し殺した。


(怖いけど……怖がっているだけじゃ駄目……だよね)


 怯えていても、状況は何も変わらない。

 ならば実際に誘拐犯と出会ってしまった時、何とか落ち着いて対処できるようにしておく。

 そう結論を出すと、楓は自室のドアを開けて中へ入り、ベッドで眠りについた。



 ※※※



 翌日の午後。

 楓は高校の駐車場にいた。


「……」


 彼女が通う学校には広いグラウンドがあり、運動系の部活が盛んだ。

 もちろん練習量も並ではなく、普段なら夜まで続くが今は違う。

 まだ明るい時間帯なのだが、既に運動部員達は後片付けをしている。


「今は物騒だからね」


 失踪事件が頻発中の町だ。

 家族に車で送り迎えしてもらうか、あるいは集団登下校が義務づけられている。

 部活動も、夜道は危険なので暗くならない内に終えなければならなくなった。

 警察の巡回も盛んであり、パトカーのサイレン音が絶たない。


「警戒し過ぎるぐらいで……ちょうど良いわ」


 言って、楓は周囲を見渡した。

 彼女以外にも、家族からの迎えを待つ者達が数多く駐車場に集まり、不安そうにしている。

 当然の反応だ。

 いつ自分が被害者になるか分からない状況で、平然としていられるわけがない。

 楓も表情にこそ出していないが、内心不安なのだ。

 無言で冷や汗を流しつつ、彼女は腕時計に視線を向けた。


(十八時九分……いつもなら、十八時前に迎えに来てくれているのに)


 時間を確認し、心の中で呟いた瞬間。

 背後から男性の声が聞こえてきた。


「待たせたな」


 それを聞くなり、楓は振り向いた。

 数メートルしか離れていない位置に、泰明が立っている。


「行こう、楓」

「ええ」


 会話を終えると、二人は歩き始めた。

 人々の間を通り過ぎ、駐車場を抜ける。

 一緒に昇降口へと向かう泰明に対し、楓は問いかけた。


「車は外なの……?」

「校内の駐車場が満車だったからな。それを確認してから校外へ出て、近くのコインパーキングに停めてきたんだ」

「それでいつもより時間かかったのね」

「ああ。校内に駐車することができなかった人達は、俺みたいに徒歩でコインパーキングからここへ向かっているよ」


 静かに言葉を交わしつつ、昇降口から外へ出る。

 道路を一直線に進みながら、二人は会話を続けた。


「学校からどれぐらい離れているの?」

「正確な数値は分からないが……一キロ前後だろうな」

「一キロ……か」


 気にするほどの距離ではない。

 楓がそんなことを考えていると、泰明が不意に足を止め、無言で両手を構えた。

 まったく隙がない動きだ。

 素人の楓でも相当なレベルだと分かる。

 しかし何を警戒しているのだろうか。

 楓も立ち止まって周囲を見渡してみるが、危険そうな感じはしない。


「父さん……どうしたの?」

「……」


 泰明は何も答えない。

 無言で前方の街路樹へ視線を向け、真剣な表情で彼は口を開いた。


「そこにいるのは分かっているぞ。出てこい」


 直後。

 街路樹の裏から、少しも足音を立てずに男性が姿を見せた。

 肩まで届く長い黒髪と、白いバンダナが印象的。

 鮮血のように赤い服を身に着け、眼光は刃を連想させるほど異様に鋭い。

 威圧感も凄まじく、尋常な存在でないことは明白だ。


「その少女だけなら簡単に誘拐できたんだけど……相変わらず鋭いね、泰明」

「鍛錬は欠かしていないからな」


 そう言うと、泰明は一歩前進して続けた。


達也たつや。お前がこんな行動をしていることから考えると、失踪事件の黒幕は過激派の魔物か?」

「その通り」


 真剣な表情で答える達也。

 両者の会話を聞きながら楓は不思議に思った。


(魔物とか過激派って何……それに何で父さんは、あの男のことを知っているの?)


 まるで分からない。

 困惑する楓の前に立ち、彼女を庇いながら泰明は言った。


「連続失踪事件の黒幕……それが過激派だったとはな」


 静かだが、恐ろしく凄みのある口調だ。

 しかし達也は圧倒された様子もなく、平然と口を開いた。


「共存派の魔物に気づかれないよう慎重に動いているから、それほど順調ではないけどね。数年かけて百人ぐらいしか誘拐できていない」

「そう……か」


 呟くように言うと、泰明は目つきを鋭くして両手を構え直し、続けた。


「誘拐した人達の居場所を教えてもらうぞ。どこに過激派のアジトがあるかもな」

「素直に喋るわけないだろう。僕の口を割りたかったら、力づくで聞き出してみなよ」


 楽しげに呟いた瞬間。

 達也はアスファルトの路面を粉砕するほどの勢いで突進し、拳を突き出した。

 直後に響き渡る打撃音。

 超高速のパンチを、泰明が掌で受け止めたのだ。

 

「楓! 危険だから離れろ!」


 その言葉に頷いて後退しながら楓は悟った。

 どうして泰明が真正面から達也の拳を受け止めたのか。

 理由は簡単。

 回避すれば、背後の楓に当たっていたからだ。


(私が近くにいたら足手まといになる……!)


 心の中で叫びながら楓は後退していく。

 そんな彼女を見ると、達也は拳を引き戻して言った。


「泰明、あの子から父さんとか呼ばれていたね?」

「それがどうした」

「異種族と親子関係を築くなんて、君は変な魔物だと思っただけさ」


 どこか嘲笑するような表情で達也は続けた。


「血のつながりはない。それどころか、同じ種族ですらない義理の娘がそんなに大切かい?」

「ああ」


 即答する泰明。


「大切だ……!」

「そうか……どうしてそう思うのか、僕には分からないよ」


 言い終えると同時に、達也は拳を突き上げた。

 流麗な軌道を描きながら、超高速で正確に泰明の顎を狙う。

 しかし当たらなかった。

 泰明が上半身を素早く仰け反らせ、回避したからである。

 周囲に風切り音が響き渡ると、達也は素早く拳を引き戻し、蹴りを繰り出した。

 狙いは脇腹だ。

 斜め下から凄まじい速さで迫る足を、泰明は瞬時に後退して難なく回避。

 またしても達也の打撃は当たらず、風切り音を鳴らしただけだ。


「ちっ……!」


 舌打ちしつつ、後方へ跳躍して距離を取る達也。

 間を置かず構え直してから、彼は言った。


「僕の打撃を二度も簡単に回避するとは……昔よりも強くなったね」

「鍛錬は欠かしていないと言ったはずだ」

「確かに……そうだね」


 呟くと、達也は目つきを鋭くした。


「もう小手調べは終わりだ。本気でやってやるよ、泰明」

「俺の台詞だ、達也。本気でお前を叩きのめす」

「やれるものならやってみな」


 短い会話を終えると、泰明と達也は凄まじい眼光を放ちながら睨み合った。

 そんな両者を、楓は少し離れた位置から見ている。


「父さん……!」


 彼女が心配そうな表情で叫んだ直後。

 近くから話し声が次々と聞こえてきた。

 全て動揺と困惑まじりだ。

 路面粉砕や戦闘の音で異変を察知した人々が、集まってきているらしい。

 失踪事件の影響により、不審な出来事に対して誰もが敏感になっているからだ。

 パトカーが来るのも時間の問題である。


「人が多いか」


 達也は少しずつ後退しながら続けた。


「あまり目立つとまずい。今回は退かせてもらうけど、次に会った時は覚悟しな」


 宣言すると同時に、達也は懐から何かを取り出した。

 数個の小さな球体だ。

 それらをまとめて足元へ叩き付けると、破裂音と共に大量の煙が発生し、周囲を包み込んだ。


(煙玉……!?)


 いきなり視界を大量の煙で塞がれ、楓は動揺しながら心の中で叫んだ。

 すると近くから泰明の声が聞こえてきた。


「楓、無事か!?」

「ええ、大丈夫よ!」


 楓は声を頼りに駆け出し、泰明を見つけた。

 どうやら彼も無事のようだ。


「楓……無事で良かった……!」


 優しげな笑みを浮かべる泰明。

 しかし即座に周囲を見渡すと、真剣な表情で言った。


「だがまずいことになったぞ……奴を逃がしてしまった」

「!」


 反射的に楓も周囲を見渡した。

 既に煙は消えており、達也の姿が見当たらない。

 本当に逃げたのだろう。


「俺の失態だ……次こそ必ず叩きのめして捕まえる……!」


 それから泰明は少しだけ間を置き、楓の方に顔を向けて続けた。


「いつかこんな日が来るかもしれないと思っていたが……できることならお前を巻き込みたくはなかった」

「父……さん」

「俺が知っていること……今まで隠してきたこと……これから話そう」


 言い終えると、泰明は周囲を警戒しつつ、歩き始めた。

 その背中を見ながら楓は考える。


(父さんが知っていること……隠してきたこと……か)


 達也のことを泰明が知っていた理由。

 過激派、魔物という謎の存在。

 聞きたいことは多い。


(よく考えたら私は父さんのこと……ほとんど知らない)


 どんな存在なのかを詮索しようとは、思わなかった。

 優しくて頼りになる、素敵な男性。

 最初からそんな認識だったし、事実そうだからだ。

 故に、わざわざ過去や素性を詮索する気にならなかったのである。

 これまでは、確かにそうだった。

 しかし今は違う。


(父さん)


 心の中で呼びかけながら、楓は泰明の後に続いた。

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