第三話 忘れ去られた小屋

 白い光のトンネルの中を、いくつもの光の壁を抜けながら、アルフォンスの意識は高速で進んでいた。

 夢から醒める時の、脳内が揺れるような、重力に似た感覚の連続。

 段々と研ぎ澄まされて行く意識は、トンネルの向こう側に過ぎ去る、仄かな光の中にソフィアの見て来たであろう光景をつぶさに見つめていた。


 そうして、トンネルの最後に一際大きな光の壁へと接触する。


─── パシュッ!


 何かが弾ける音と共に、彼は一瞬、赤子の産声がいくつも連なるのを聴いたような気がした。

 その穏やかで暖かな光の空間に立つと、その光はゆっくりと薄れて、木漏れ日の多い広い森の中の風景を残す。


 アルフォンスは紅い瞳を木漏れ日に輝かせ、その森の景色を見回している。

 ……ここには見覚えがある。

 その懐かしさに、彼は思わず微笑んでいた。


─── ソフィアと初めて契約した、あの幼い頃の森


 里での暮らしの中、何度となく思い返しては頭に浮かべていた風景は、光の加減が違う程度でほぼ記憶と一致している。


 ただこの世界には、樹々に囲まれた場所ならではの、瑞々しい空気感や、針葉樹の清涼感を含んだ香気や、広葉樹の甘やかな土の香りなどは存在していない。

 匂いや空気感の無い、ただほんのりと暖かい世界は、現実では無いのだと彼に実感を抱かせた。



─── 『ソフィア』



 そう声に出し、森の中に彼女を求めて見れば、何処へ向かえば良いのか、まるで初めから知っていたような方向感覚が沸き起こる。


 歩く靴裏に感じる腐葉土や樹々の根の張り出した感触は、どこか鈍く、自分がそう感じようとしているから感じているのだと直感した。

 それはスタルジャの精神世界に、何度も足を運んだ彼だからこそ分かる、夢と現実の狭間にいるような世界観であった。

 この世界は、想いの強さで出来ている。


 だから曖昧な思い込みは、感覚すら起こさない。

 今、ここを理解しようとしているから、この鈍い感覚が起こっている。

 アルフォンスはわずかでも、ソフィアとの記憶と繋がっている事を感じていた。



─── 『ソフィア』



 ここに居る事を誇示するように、森の中を歩きながら、アルフォンスは何度かその名を呼んだ。

 そうして進んで行く度に、離れているはずのソフィアの意識が、自分に重なっているような、奇妙な一体感に襲われる。

 その感覚が高まり、彼女の吐息すら覚えた時……


─── 目の前に古びた小屋が現れた


 積み石が歪み、一部隙間からはシダが生えている、そんな一見廃屋のような佇まい。

 これもアルフォンスには憶えのある光景である。

 ……養父イングヴェイ・ゴールマインと一時過ごした、人々に忘れ去られた山小屋。


 歪んだ入口の柱とけたを補強するように、イングヴェイが新たに取り付けたドア枠と、重厚な一枚板のドアが当時の記憶そのままにある。


─── この中にソフィアは居る


 根拠は無い、しかしそれが確信だとして、アルフォンスはそれに従った。

 だが、取手を引こうとするも、ドアは固定されているかのように、ガタつきひとつせずに閉ざされたまま。

 かんぬきや、鍵で閉じられたものではなく、このドア自体が開く事を忘れてしまったようであった。



─── その時、ドアに向いていた彼の後方で、気配がざわつき始めた



 振り返れば、樹々の影が平坦な漆黒へと変化して、それがドロドロと流れながら蠢いている。


 それらはドロリと立ち上がると、酸化し切った血液のような赤黒いドレスを着た、リディの姿へと変貌した。

 辺りにさざめく、膨大な数の呪詛の囁きの中、青白い顔をしたリディは、樹々の間の影に次々に産まれてゆく─── 。


 アルフォンスはドアから離れ、小屋と森との間の、少しひらけた場所に立つ。

 背中には弱々しい神気を感じ、逆に森からは腐れただれた血生臭い神気が押し寄せる。


 スッと半身に構えたアルフォンスの体を、光のオーラが包み込む。

 真夏の太陽の陽射しの如く、浴びるもの全てをジリジリと炙るような神気が立ち昇ると……


─── 森の中のリディ達は、一斉に目を開き、光の無い赤黒い瞳でアルフォンスに振り返る


 樹々の幹や枝、足下の藪の枝を通り抜けるように、ドロドロとしたその体を波打たせて、リディの群れが彼へと迫った。


─── ガッ、ググッ!


 アルフォンスの両手に、それぞれ頭を掴まれたリディは液状になる事なく、確かな肉と骨の軋む音を立てた。

 光の神ラミリアの加護は、呪いの所有権を打ち消し、リディの世界の法則を書き換えている。

 アルフォンスの手は、今確かにリディに届いていた。


─── 『死ね』その一言をつぶやいて、両手に掴んだリディの頭部を胴体から引き抜く


 筋繊維、神経、血管、皮膚、それぞれが引き千切れる音の中、リディの頭部は頚椎の一部を垂らしたままアルフォンスの手の中にぶら下がる。

 腐れた赤黒い血をドプドプと溢れさせて、ふたりのリディの体が折り重なるように倒れた。


 ボトリと放り投げられたふたつのリディの首が、地面にぶつかる重い音を立てて転がる。


 倒れたリディふたりの骸、その後ろから、黒い刃を振り上げて飛び込んで来たリディのあご先を、全体重を乗せた掌底で打ち抜き、その首をあらぬ方向にグルンと振り向かせる。

 更に回り込んだ者には、その鎖骨と肩のくぼみへ振り下ろした指先を抉り込み、前のめりに引き倒したその頭部を踏み割った。



─── 『死ね』……



 神々しく強烈な光のオーラの中、黒髪をざわめかせ、紅い瞳を妖しく光らせたアルフォンスはポツリとそう呟いた ─── 。




 ※ 




─── パチパチ……パキ……パンッ……


 暖炉の火が揺れている。


 爆ぜた薪の火の粉が舞い上がり、煙突に吸い上げられて行くのを、私はただジッと見つめる。

 窓ひとつない、雑然と物が散らばった部屋は、暖炉の揺らめく炎の明かりだけの薄暗い世界。


─── 誰を思い出す事もしなくていい、私だけの世界


 雑多な物に溢れていても、それらが何かいちいち認識しなくてもいい。

 何かを見れば、何かを思い出してしまう。


 ……ただ、それだけの部屋。

 それなのに、心は時折ざわめき出して、自分自身の行動や言動を責め立てる。


─── 『私は……失敗しました』


 そう呟いて、自分の愚かさを認めれば、ほんの少しだけ辛さが紛れる気がする。

 ほんの少しだけ。


 でもそれは忘れる事を禁じる、諸刃の剣のような暗示。

 ひとつ認めた罪は、丁度あの暖炉の灰に埋もれた小さな炭火のように、空気に触れれば何度でも赤熱して責め立てる。


─── 『私……失敗……しました』


 思えば何故、最初から人々を愛そうとしなかったのか。

 そこからが私の失敗の始まりだったのではないかと、もう何度も立ち止まった考えが、頭の中を巡り出す。


─── 『私……失敗……し……た』


 あの人を支え切れなかった。

 その悔いがまた、私の心に打ち込まれたくさびから、焼け付くような痛みを伴う思考が流し込まれる……。


 彼に力を与えてあげられなかった。

 それもこれも、私に神として人界を調律する、本当の覚悟が足りなかったから。

 思えばリディのように、全てを捧げてでも、使命を全うする一途な姿勢が必要だったのではないか?


 もう何度も否定したその考えが、また何度でも持ち上がるという事は、私が間違えているからではないかと暗い気持ちが侵食して来る。


─── 『私……失敗……』


 感情を持って生み落とされた最初の化身。

 人界の文明レベルが上がるに連れて、自然と生まれた大きなうねりに、何故……感情など必要だったのか。

 その疑問が湧いた瞬間から、手遅れだったのではないのか?


 『あの時、ああすれば良かった』と考えれば、『それはああだったから不可能』と、考える側から否定が浮かぶ。

 そこが出口だと思って向かう先から扉は閉まり、目に入る突破口は無くなってしまった。


 そんな理不尽な道は、生の終わりでしか、解決出来ないのではないのか ─── ?


 心は結局、この結論にしか辿り着かない。

 でも、この結論に至ると、何か黒い物が心の中に首をもたげて、答えが消される。

 まるで死ぬ事すら許されないかのように、何か強制力が働く。



─── それを繰り返していたら、私は醜い怪物へと姿が変わってしまった……



 もう誰にも会えない。

 この姿は誰にも見せたくない……。


 答えが黒い何かに食い潰されて無になった。

 そうしてまた、荒れ果てた心になぎが訪れ、暖炉の薪の音が耳の中に戻って来る。


─── 『私は……』


 そう言いかけた時、それは聞こえた……



─── 『ソフィア』



 その声に胸が高鳴る。

 それと同時に、断罪への義務感が自分をいましめる。


 もう、何度も聞こえた幻聴。

 何度も求め、後悔の念に押し潰された幻聴。

 失敗した私が、もう求める事が許されない、あの暖かな楽園の記憶から、零れ出ているのだろうか?

 自分を再び責めるべく、その言葉を口にする。


「私は─── 」


─── 『ソフィア』


 ビクンと手足が動いた。

 暖炉の薪の音よりも、今度は確かな音として、私の近くに聞こえた。


─── 『あ……る……?』


 呟いた声に、強い意識が外から向けられるのが感じられた。


 彼が! 彼がそこに居る‼︎

 座り続けた部屋の片隅から、立ち上がろうとした時、暖炉の明かりの影が、にゅっと立ち上がってこちらを見た。


 暗くて見えないけれど、あれは私。

 浅ましい私から抜けた、本当の私。


「また、彼に苦難を背負わせるつもりですか?

契約ひとつ結び切れない、無様なあなたが、彼を求めるなどと……」


─── 『わ……私は……』


「自身の姿を見てみたらどうです?

その醜く下賎げせんな今のあなたを、誰が求めるというのですか」


─── 『う……あうぅ……っ』


 自分の腕を見る。

 白くゴワゴワした毛にびっしりと覆われ、ゴツゴツとした手の平は黒光りして、褐色の爪が伸びていた。


 私はもう、化身じゃない……。

 大きな運命を持つ彼に、近づく事すら許されない、脆弱な魔物と化してしまった。

 私は再び床に座り、ゴワゴワとした自分の膝を抱く。

 不釣り合いに長くなってしまった腕は、膝を抱えても、指先が耳の後ろまで届いてしまう。


─── 『ごめんなさい……』


 私はそう呟いて、もう二度と口を開かないと心に決めた ─── 。




 ※ 




─── ドチャ……ッ!


 不自然に体を曲げた、ドス黒いドレスの体が地面に打ち付けられ、口からはドクドクと赤黒い液体を流している。

 森から出現したリディの群れが、これで全てアルフォンスに殺し尽くされた。


 最後のリディが立ち上がらないのを見て、森の奥を見通す。

 しかし、すぐに彼は背後にある小屋を、弾けたように振り返った。


「ソフィ! 俺だ、アルフォンスだ!」


 アルフォンスは小屋の中にソフィアが居る気配を感じている。

 しかし、何度戦いの最中に呼びかけても、返事は無かった。


 今、彼が感じたのは、今までこちらに溢れ返っていたリディの気配が、小屋の中から突如、濃密なものとなって発せられた感覚。


「返事をしてくれソフィッ!」


 再びドアに近づくと、リディの気配は忽然と消えて、ソフィアの気配が弱々しく希薄になっていた。

 そして再び森の中から、リディの気配が強まる ─── 。


「……俺はさ、ソフィ。里での十年の修練の日々は、君とのあの日の想い出があったから頑張れたと思ってる」


─── 『…………』


 小屋からの返事は無い。

 しかし、アルフォンスは彼女の意識がこちらに向いている事を、微かにだが感じていた。


「そりゃあ……途中からさ、なんかいきなり『お嫁さんにして欲しいな』って言い出してたし、ちょっと変な子だったんじゃないのかって不安にもなったよ」


─── 『…………』


 アルフォンスにドス黒いリディの群れが、ジリジリと集まり始めた。


「色々勉強して、契約書って何なのか分かった辺りで、やっぱりちょっと『おかしな子』だったのかなぁってさ」


─── 『…………』


 複数同時に黒い刃で斬り掛かるリディを、アルフォンスは地面を強烈な踏込みで飛び出し、光に覆われた腕で三体まとめて串刺しにする。

 それらを放り投げる爆発的な勢いを乗せて、近くにいた一体の脇腹を、蹴り落とすような前蹴りで抉り込む。


「それでもやっぱり、あの時の君との想い出は一番ドキドキして、俺にとっては誇らしくて大事なものだったんだ。

…………里を降りる日が来たらさ、もしかして再会出来たり……なんて、想像もしてた」


─── 『…………』


 リディ達は、世界を己の思う通りにせんと、けがれた神気を放出して、辺りをドス黒い霧で覆う。


「でも、もし会えたとしても『あ〜懐かしいね、恥ずかしい』とか『でも、今は別に好きな人いるしね』みたいに言われるのがオチかなって……。

昔の想い出に浸ってる自分を、終わらせられるんじゃないかって、そんな風にも思ってた」


─── 『…………』


 アルフォンスは両腕を天に突き上げると、ラミリアの加護を引き出して、上空を光の神気で覆った。


「でも、実際会ったら驚いたよ!

あれが俺の変な想い出でも何でもなくて、君はずっとそのままの気持ちで居てくれた。

それどころか、俺なんかの事をギルドに入ってまでして、ずっと探してさえ居てくれたんだぜ⁉︎」


─── 『…………』


 ニコッと微笑んだアルフォンスの両腕が振り下ろされると、辺りに充満していたドス黒い神気が地面に押し潰された。


「すっごく嬉しくてさ。あの時のドキドキより、もっと胸が高鳴ってた。なんだか分からない内に、里で戦い続けてた自分が、空っぽなんかじゃないんだって。

君のおかげで、そう思えたんだ ─── 」


─── 『…………!』


 ソフィアの気配が仄かに強まり始めた。

 それに同調してか、それまで脆弱だったリディ達の肉体が、少しずつ強化されて行く。


 リディの呪いは、ソフィア自身の神性を穢す神の呪いである。

 その呪いの持続性、耐久性を上げるために、必要なエネルギーとして使用されていたのはソフィア自身の神気。

 ソフィアを助けようとすればする程、リディの力は増して行く事になる。


「再会してからのソフィはラッキースケベだの、既成事実だの……。

こっちがどれだけドキドキしてるかも知らないでさ、必死に耐えてたんだぞ? ずっと探してくれていたソフィを、どう大切にすれば良いのか分からなかったから」


─── 『…………っ!』


「知らないだろ? バグナスの海岸で、ティフォとソフィのどっちの気持ちを受けるべきか、イカ串で天秤作り出しちゃうくらい本気で悩んでたんだよ! リックの恋バナ聞いて、泣きそうになったりしてたんだぞッ⁉︎」


 リディへの攻撃が、徐々に一撃粉砕出来ずに、手数を要求され始めていた。

 その反面、森の闇に増えるリディの数は、更に増え続けている。


「タッセルの夜祭で、一緒にティフォを探してた時だってそうだ。俺、人生で初めてのデートしてんじゃんって、緊張しまくっててさ。

繋いだ手を離した時、どうすればもう一度とか、手汗大丈夫だったかなとか大変でさ……」


─── 『…………ッ⁉︎』


「だから……アクセサリー商寄った後のキスとかさ……俺、忘れられねえよ絶対!!」


 リディの耐久力が上がった分、アルフォンスの攻撃に力任せの一撃が増え始めた。


 彼女達にフェイントや戦術の組立ては、そのほとんどが役には立たない。

 痛みやダメージを考慮しない無感情な相手に、人間味のある戦いなど見込めるはずもなかった。

 華麗さのカケラもない、力でねじ伏せ、砕き、引き千切る、獣の如き殺し合いが繰り広げられていた。


「前にも言ったけど、もうソフィが隣に居ない時間は想像出来ないんだよ。

もう一緒じゃなきゃ嫌だ……。

すっごくキレ者の君が好きだ。

バカやってトンズラする君が好きだ。

人事を自分の事のように怒る君が好きだ。

こっちが勇気出すとヘタレ出す君が好きだ。

人類なんてとか言いながらちゃんと人を愛する君が好きだ!」


─── 『…………ぅっ』


 全身に浴びたリディの返り血で、すでに彼の白いシャツはドス黒く染め上がっている。


 ラミリアから受けた神気は扱えても、魔術を使う事は出来なかった。

 いつもなら瞬時に治せる傷を治す事も出来ず、力任せに殴りつけていた拳は、指が折れ曲がっていた。

 それでも、何度か手首を振って指の位置を戻すと、更に強く握り直して構えを取る。


「こんなに生きてる事を実感できたのは、君と再会を果たしてからだ。

どんなに闘いの経験が増えても、どんなに薬や自然の知識が増えても……自分の気持ちを大切にする楽しさは、君がいないと分からなかった」

 

─── 『……ある……く……ん』


 ソフィアの神気が更に強まった。

 リディの流用している神気も高まり、その瞳に精彩が加わっている。


 攻撃をかわし切れずに、アルフォンスに傷が増えて行く ─── 。


「嫌なら断ってくれていいから、一度だけ俺のワガママを言わせてくれ……。

俺と一緒に居てくれソフィア! もう、頑張らなくたっていい、世界を救えなくたって仕方がない!

ただ俺と一緒に居てくれ、俺が望むのは君のいる世界なんだッ!」


『 ─── ダメ……です、アルくん。私はもう、あなたに会えませ……ん』


 それまで小屋の前の開けた場所を戦線としていたアルフォンスが、初めて小屋のドアの前まで退いた。


「何故?」


『 ─── 私はもう……私の姿では無くなって……しまいました。こんな姿は……あなたに』



─── ガチャ……ッ‼︎



 アルフォンスの掴んだ取手は、余りにあっけなくドアを開けた。

 暗い部屋に飛び込むと、すぐにドアを締めてかんぬきを掛ける。

 直後、外からドアを叩く音がけたたましく響いた ─── 。


「そ……そんな……! どうしてその扉が……」


「…………ソフィの神気が少し戻ったんだよ」


 暖炉の揺らめく仄かな光、それだけが光源となる薄暗く雑多な部屋の隅に、それは怯えた様子で立っていた。


─── 全身が白い毛に覆われたトロル


 トロルとは淀んだ魔力の濃い森に発生する、猿に似た姿の低級な魔物の一種。

 二足歩行で腕は長く、顔は犬と猿の中間の容貌、顔と手足の先だけは褐色の肌が剥き出しで、赤褐色か黒色の毛に全身が覆われている。

 力も知性も低く、駆け出しの冒険者の稼ぎにされるひ弱な存在である。


「おそらくだけど、リディに色々諦めさせられてた思考より、君の本当の想いが勝ったんだよ。

『こんな所に居たくねえ』って」


 ニコニコと笑いながら近くアルフォンスに、白いトロルは後退り、足元の何かを蹴倒して慌てふためきながら壁に背をつけた。


「……わ、私の姿が……み、醜くいと……思わないんですか!」


「 ─── 何が?」


 その言葉にトロルは慌てて自分の手足を見回して、悲痛な声を上げた。


「ちゃんと見て下さい! ほら、トロルなんですよ……⁉︎ しかも、白い毛なんて……」


「どれ?」


 そう言ってアルフォンスはトロルを片腕で抱き寄せ、確かめるようにその頰を手で撫でた。

 トロルの目は、キョロキョロと激しく困惑している


「……わ、私…………ンンっ!?」


 突然、アルフォンスは唇を重ねた。

 少し抵抗しかけたトロルを、そのまま壁に押さえつけるようにして、強引に口付けを交わす。


 部屋に響いていたドアを叩く激しい音と、暖炉の焚火の音が、ふたりの耳から聞こえなくなった。

 長い接吻、やがて戸惑っていた唇が、せきを切ったようにアルフォンスを求め出す。



─── ちゅ……ちゅぷっ



 アルフォンスの頰を、華やかな香気を引いた白金の長い髪がくすぐる。

 桜色の柔らかな唇が、ふたりの熱に赤味を増して、アルフォンスの唇にぴたりと寄り添う。


「ん……う、ふっ……はあ……」


 やがて名残惜しそうに、わずかに口を開けたまま、ふたりの唇が離れる。

 焚火の明かりを横から受け、潤んだ瞳と唇、そして頰に涙の跡を一筋残したソフィアの顔が照らし出されていた。


「迎えに来たよ……ソフィ」


「あ……ああ……ひぐっ、うっ!」


「ははは、泣くのは後だ。ちょっと外にしつこいの一杯いてさ。手伝ってくんない?」


「く……ふふふっ、うぐっ。

て、手伝うどころか……ひぐっ、私が殲滅してやりますよ……えふふ、ぶひっ。

─── あ、ブタ鼻鳴っちゃった」


「ぶふッ!」


 ふたりが思わず吹き出して笑い出すと、世界に音が戻り、けたたましいドアの音が小屋の中に鳴り響く。


 ソフィアは宙空に手をかざすと、彼女の杖が現れ、その刃が引き抜かれた。


「 ─── ふう。

私からもワガママをひとつ……いいですか?」


「ん、なに?」


 暖炉の明かりか、上気しているのか、赤らんだ頰を悪戯っぽく膨らませて呟く。


「終わり方が締まらなかったので、帰ったら続きを要求します……ね」


 再び開かれたドアの向こうには、もうふたりにとって脅威となる程の者は存在しなかった。




 ※ 




─── シノンカ霊王朝中央神殿 聖泉


 それまでピクリともしなかったソフィの体が、大きくビクンと跳ねた。

 アルはもう何度もそんな感じで、ピクってしたり、ラミリア様そっくりな神気を噴き出したりしてたけど……。


「ローゼン……そ、ソフィが動いたの!」


「ウフフ、ね? 私たちのダーさんは、神々にも愛されてるですよ。

─── さっきからソフィちゃんの神気が、急速に戻って来ていますから、もうすぐ……」


 ユニが久しぶりに自然な笑顔を見せてくれた気がする。

 なんかユニ、落ち込んでるのもそうだけど、何かにひどく気を使ってるような感じがしてて心配だった。

 ローゼンもラミリア様との話を終えて、光の部屋から出て来てから、いつも通りと言えばそうだけど、何処か表情が硬かった気がする。


 かくいう私も、ソフィの腰を泉の中で支えながら、思わず彼女の手を握っていた。

 ……そして、ローゼンの言葉からすぐ変化は起きた。


─── バシュッ! カカカカカカッ……


 突然、ソフィの体の上に、黒いスライムみたいなのが飛び出した。

 それが空中で真っ二つに切られた後、格子状に細かく刻まれて、黒い霧になって消えた。


「 ─── う……ん」


「「ソフィッ⁉︎」」


「うんうん! これは完全に呪いに勝ったようですね〜♪ 神気が爆発的に回復してるですよ!」


 それだけじゃない。

 アルの雰囲気が神々しくなって、私との契約を通してすごい魔力が注がれて来た……。

 驚いたミィルが飛び出したけど、彼女も少し大きくなってる⁉︎


『おはーって、ちょっとこれナニ……⁉︎』


「分かんない! アルの力がどんどん上がってる……!」


「ラミリアちゃんの加護が、ソフィちゃんのヘルプに回ってた分、戻って来たですよ。

─── うわぁ……これ、完全に人類やめちゃってますよダーさんったら……」


 魔王の力なのか、私とミィルだけじゃなくて、ユニも、そしてローゼンまでもが薄っすらと黄金色に輝いて見えた。


「「「…………ッ⁉︎」」」



─── シュオオオオォォォ……ッ‼︎



 ソフィの周りから、何本もの光の柱が立って、回転しながら空に突き抜ける。


 この大空洞を真っ白に染め上げて、空に上ると今度は空を真っ白にしながら、見えなくなるまで真っ直ぐに飛んで行った。


「 ─── あっ、ソフィ! おはようなの!」

 

 ユニの声と水の跳ねる音で振り向くと、そこには薄っすらと目を開けて、ユニに微笑みかけてるソフィの姿があった。


「ソフィ……っ!!」


 思わずユニとふたりで彼女に抱き着く。

 ソフィは小さく『ありがとう』と何度も囁いて、私たちを抱きしめてくれた。


「う……ん」


 ソフィの後ろから、今度はアルの呻きが聞こえた。

 ローゼンはフフフと笑って、私たちに手の平で『しっしっ』としている。


「ほれほれ、順番があるですよ〜♪

ね、ソフィちゃん☆」


 私とユニが『あ』と声を出して、笑いながら離れると、ソフィは水の中でクルンと体を回してアルに抱き着いた。


「ん…………おはようソフィ」


「ううっ、あう……っ。あ、アルくん ─── 」

 

 ソフィは目を覚ましたアルの首元に、大声で泣きながらすがりついてる。

 私とユニはローゼンの隣に移動して、ふたりの再会を見守る事にした。

 アルはソフィの頭を撫でながら、何度も何度も『うん』って、優しく返事をしてる。


「さ、ちょっと冷えて来たし、泉から上がってあったかいお茶でも飲むですかね♪」

 

 ローゼンは流石大先輩だけあって、こういう時の機転の利かせ方すごいなぁ。

 後で色々教えてもらおうかな……。


 私たちが移動し始めた時、アルはソフィに何かを囁いた。

 それはよく聞こえなかったけど、ソフィの少し張り詰めた『ハイ』って返事だけはハッキリと聞こえた。

 振り返った時に見たふたりの姿は、満天の星の下、水面に映る星とに挟まれて、信じられないくらい美しかった……


 その時、ソフィに何を話していたのかは、すぐにアルから私たちにも伝えられる事になる。

 この翌日から、アルは人が変わったように世界各地を移動しながら……



─── 殺戮を始めた



 私たちがそれを止めることは、出来なかった。

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