第二十三話 スタルジャ

 静かな夜の海に沈んで行く。

 波も無く、自分の体温と全く同じ水に、全身を包み込まれながら落ちて行く感覚と言えば、これに近いだろうか。


 微睡まどろみを具現化した空間がこれなのだろうと、そんな事を思いながら、沈んで行くに任せている。


 深層への境界、二本の白い石柱の間を、真っ直ぐに進んだつもりが、気がつけばこうして下に進んでいた。

 そういう、どこかちょっと常識が所々抜けているような感じは、夢の世界とよく似ている。


 真っ暗な空間を延々と沈んで行く中、時折豆粒ほどの青白い光がきらめいて、すうっと音も無く通り過ぎて上へと登っていく。


『 ─── こわれちゃった自我のカケラだよ』


 胸元からミィルが顔を出して、はかなく揺れて浮かんで行く光を見上げる。


 数分前にもこんな光が飛んで行ったが、上を見上げてみれば、俺達が通って来た深層の入口が、青い満月のように小さくなって揺れていた。


「壊れた……自我? スタルジャはそんなに大変な状態なのか……⁉︎」


『ううん。ちがうよ、スタはちゃんと存在してる。

─── 自我ってさ“これは自分だ”って、自覚してる意識のことなんだ。でも、自我ってずっとひとつじゃないんだよ」


「ひとつじゃないって……分裂でもするのか」


『ほら、ちょっと前のじぶんを振り返った時にさぁ。“あー、あの頃はこんなことも出来なかったよな〜”って、思うことあるでしょ?

あの時の感覚って、自分そのものってゆーより、どこか他人みたいにおもってるハズ』


 言われてみればそうかも知れない。

 当時の自分が何故そう思っていたのか理解出来なかったり、時には言動の恥ずかしさにウハッてなったりするしなぁ。

 ……確かに他人事っぽい感覚な気がする。


『人の自我はね、ちょくちょく入れ替わってるの。記憶は受け継いでるから、その瞬間が分からないだけで、成長したり、なにかがあった時にね。

そうして、役目を終えた自我は、強すぎる感情を抱きかかえて眠りにつくんだよ』


「……なんだって、そんなややこしい事を」


『さぁね? でも、神さまってのはスゴイと思うよ?

だって、その場その場の感情は、だんだん頭の中でしぼんでいくけど、傷は消えない。

─── そうやって、消耗した自分ごと切り替えちゃえば、心は守られていくじゃん?』


 『生きていれば』か。

 ヒルデの言葉が、その心の機構と一致したような気がした。


『ふつーなら、その問題を乗りこえて、当時の自分をみとめてあげたり、ねぎらう気持ちが生まれると消えていくんだよ。

─── ただスタはさ、それがムズかしかったから、多くのこってる。

スタがそうってより、エルフだからかな?

純粋で生真面目で、責任感が強いからね〜』


「そうか……。そうかもな。スタルジャだったら、そういう過去の自分にも優し過ぎたりするかも知れない。

じゃあ、この光達ってのは ─── 」


『うん。スタが他の自我と、たたかってる証拠だよ。さすがだよ、あたしの大家さんはさ♪』


 ダークエルフが現れるのは、エルフそのものの純粋さが原因なのかな。

 自分でも知らないうちに増えていく、心の中の自分の存在に、折り合いをつけにくいのかも知れない。


 そう考えると、エルフが頑固だったり、人との暮らしを避けているのが、彼らの心の防衛策ではないかと思えた。


 ……誰かと近づくって事は、それだけ心が刺激され易くもなる。

 世の中の苦しみや悩みは、対人関係がそのほとんどの理由だというからな。


 スタルジャはエルフにしては驚く程素直というか、そこらの人より素直だが、人見知りはよくしている。

 過去のせいで人間嫌いってのもあるだろうが、そういう防御が働いていたのかも知れないな。


「この先はどうなってる? 俺はスタルジャのために何がしてやれる?」


『アマーリエも言ってたけど、アルフォンスがやるべきことは、スタの自我を見つけてあげることだよ。

古い自我じゃあなくて、今本当に表に出てくるべき、現在のスタをね』


「…………本当の自我か」


『……あんまり不安にさせたくはないけど、大事なことだから言っておくよ。

たぶん、本物と古い自我は、見分けがつかないと思う。

古い自我たちには、しっかりと“お前じゃない”って、教えてあげなきゃいけないんだけどさ。

─── スタの自我はすっごく多いと思うよ……』


 元々真面目で、習慣を限定する種族だからな。

 スタルジャの人生はその点、ゆさぶられたり、劇的な変化に満ちていた事だろう。

 ……そりゃあ、自我を切り替える数も必要だっただろうなぁ。


『それとね、アマーリエのおかげで、魔力が使えるように体と繋げてもらってるけど……。

たぶん、ニセの自我を解放していくには、かなりの魔力が奪われるとおもう』


 本来、自我を労い認めて、古い自我を消して行くのは本人の仕事。

 そこに深く関わって、他人が助けるには、強いエネルギーが必要なんだそうだ。


「易々と人の心の深層に、本当なら関わるべきじゃあないって事か。

過去の自分を受け入れられるように、本人を認めてあげなきゃいけないんだろうな」


 ソフィアの言っていた通りだな。

 スタルジャ自身が自分を認められるよう、周りが彼女を認め、彼女自身が自己評価できるようにしてあげるしかない。


『……でも、それで何とかなる時じゃあないからね。スタにとって強い光なのはアルフォンスなんだ。

荒療治でも過干渉でもかまわない。今スタを助けるために、アルフォンスが深くかかわらなきゃね。

それができるように、あたしも調整がんばるからさ☆』


「ああ。頼りにしてるよミィル。

ここまでこれたのもミィルのお陰だ。あの時、出逢えたのがお前で良かったよ。

もうしばらく力を貸してくれ」


 ミィルは目を丸くして、しばらく俺の目をジッと見つめた後、俺の胸元に背中を預けるように寄りかかった。


『うん。あたしも、この世で出逢えたのが、アルフォンスたちでよかったよ』


 指でミィルの頭を撫でる。

 顔は向こう側だから見えないが、んふふと笑う声は聞こえた。


 ようやく、スタルジャを助けに来れた。

 多くの人の助けが、色んな形で結びついて、ここまで来れたのだと胸が熱くなる。


「寝坊ですっぽかされるのは御免だからな。

─── スタルジャは絶対に連れて帰る」


 そうつぶやいた時、足下がにわかに明るくなった。

 黄金色に輝く、もやもやとした境界が迫る。


 そうして、俺達はスタルジャの精神世界の深層へと辿り着いた ─── 。




 ※ ※ ※




 黄金色のそよぐ光。

 豊穣な麦穂の海原にいるような、そんな穏やかで清々しい輝きを通り過ぎると、世界は薄暗い橙色の光の世界へと変わる。


 靴底が硬い地面の感覚を伝え、膝に重力がのし掛かると、ギシっと乾いた木材の軋む音がした。

 板張りの床、ゆらめく暖炉の微かな光、そして鼻をくすぐる煮詰めたベリーのような甘酸っぱい香り。


 うっすらと開けたまぶた、鼻と耳、肌で感じる、誰か他人の家の空気が押し寄せた。


「 ─── アルッ⁉︎」


 徐々に覚醒して行く意識を、その声がこじ開けて、否応無く俺の胸は鼓動を高めた。

 暖炉の光を背に受けて、黄金色に輝く輪郭、それでも分かるやや茶色がかった若草色の髪。


 それは俺の名を短く叫んで、胸に飛び込み、確かな重量と温もりを伝えながら、細い腕で俺を抱擁ほうようした。



「……スタル……ジャ……」


「うぅ……ひぐっ、ぐすん。……ある、アルぅ……」



 明るいブラウンの瞳が、涙に揺れながら俺を見つめた。

 くりっと大きな瞳、整っていて意思が強そうでありながら、優しげにカーブを描く眉。

 エルフ特有の透き通った白い肌より、血色がよく薄暗い紅のさした柔らかそうな頰。


 その唇が歓喜に震えながら、必死に声を絞り出そうとわなわなと震える。


「……あい……会いたかったぁ……!

会いたかったよ、アルぅ……‼︎」


「ああ。俺もだ」


 再び俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくる彼女の肩を抱き、その頭越しに見るテーブルには、今まさに食事をしようと整えられた様子が見える。


 と、首筋にふわりと風がさわり、耳元にミィルが現れた。


『……アルフォンス』


「ああ。分かってるミィル……。

─── スタルジャ」


 『はい』と鼻声で返事をした彼女の顔は、涙に濡れながらも、喜びに輝いていた。

 その両肩に手を置いたまま、俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめる。


「 ───


「…………えっ‼︎」


「お前はスタルジャの過去だ、本当のお前じゃない」


 一気に彼女の顔色が蒼白になり、充血した目を見開いた。


「そ……そんな……! 何を言うの……?」


 掴んだ肩を引き寄せて、彼女をもう一度胸に抱く。

 カタカタと震える体から、体温が消えて行く。


「君は今のスタルジャじゃあない。

悲しみと孤独を抱いて、別れた心の片鱗。

─── ありがとう。君が辛い役目を引き受けてくれたから、幸せな未来に繋がるんだ」


「…………うぅ、あ、うぅ……っ!」


「苦しむのはここまででいい。さあ、還るんだ、今の君の中へ。共に進もう。

─── もう、ひとりで抱えなくていい」


 腕の中で、スッと重量感が消えて、泡のように彼女の姿が崩れて行く。

 最期に見せた表情は、諦めの絶望か、虚脱か、ただ力無くまぶたが薄っすらと開いていた。


 白い霧となって漂い、小さな青白い光となると、それはゆっくりと上に昇り出す。


「 ─── う……、ぐ……っ⁉︎」


 直後、俺の体から魔力がぐんと削り取られた。

 人の深層に関わる代償。

 魔力は魂の生産する力、生命エネルギーそのものと言ってもいい。


 アマーリエとミィルが言っていた『魔力が必要になる』とは、この事か。


『…………大丈夫? アルフォンス……』


「ああ、大丈夫だ。

しかし、これは心に来るな。本当の自我じゃあないとはいえ、スタルジャそのものだ。

それを否定するのは、胸が痛い……」


『うん。本当は本人がする事だからね。

…………絶対にまちがえちゃダメだよ? 本人を否定しちゃったらさ……』


「分かってる。今のでよく分かった。

俺は絶対にスタルジャを間違えないさ。

─── ただ、支払う魔力の量はとんでもないな……この体にある魔力量で賄えるものかどうか」


 アマーリエのお陰で、この体は現実の俺と繋がっているらしい。

 魔力や闘気なんかも使えるようにはなってはいるが、いかんせん量が少なくて、心許ない。


『うん……隣で見てて思ったよ。ちょっとエグ過ぎな量がだったよね……。

少しずつは回復するみたいだけど、ムリはダメだよ? こっちで死んだら、現実でも……』


「分かってる。心配するな。

少しずつ、ひとつひとつ、スタルジャを解放してやれば ─── 」


 その時、風景が揺れて、世界が白っぽく変化し始めた。

 夢が切り替わるような、ムッとした独特な圧迫感を覚えて眩暈めまいがする。


「「「アル ─── ‼︎」」」


『 ─── ッ⁉︎ こ、こんな……数……‼︎』


 明け方のような薄暗い草原の真ん中で、俺は白い影に囲まれていた。


 見渡す限りの、スタルジャの自我達。

 白いリネンのワンピースを着た彼女達は、その誰もが悲痛な表情で俺を見つめている。


「ミィル。心配いらない。

俺が絶対にスタルジャを連れて帰る ─── 」




 ※ 




 自我って何だろう?

 今考えているこの意識が自我なのだろうか。


 ミィルは『苦痛を抱き止めて、隔離する防御策』だと言った。


 確かにそうなのだろう。

 スタルジャの古い自我達を抱きしめて、代償となる魔力を奪われる度に、その悲痛な想いや、不安感が俺の中を通り過ぎて行く。


 そのどれもが、ひとりで抱えるには、余りにも大きなショックを秘めている。

 今、俺がしている事は、本当のスタルジャの自我を軽くする為に、整理をつけているようなものだ。

 ……ヘマをすれば、本当の彼女を永久に失いかね無い、酷く重くて思い上がりとも取れる干渉。


 本来なら、これらの自我とは、今の自分と比べて自分の成長を感じ、自分を肯定するための比較対象なのかもしれないな。

 だから、こうして別れて残っているのだと、そんな事も感じていた。


─── それを俺が消して行くのだから、責任は重大どころの騒ぎじゃあない


 これらが全て消えた時、果たしてスタルジャは前のままのスタルジャでいられるのだろうか?


─── だからこそ、俺は自我達がただ消える事を望まない


 スタルジャがいつか受け止められる日が来るように、消え行く自我ひとつひとつの想いを、出来る限り正確に憶えていこうと思った。

 全ての彼女達の迷いやゆらぎを、肯定してやろうと思った。


 彼女がこうまでして苦しんでいたのは、たったひとりで抱えて生きて来たからだ。

 ……なら、俺がそれを一緒に抱えよう。


 どの自我達も、俺にすがり、全てをかけて俺に飛び込んで来た。

 幼い頃の自我でも、明らかにこの問題とは違う想いを抱えた自我も、ことごとく俺を信じてくれていた。


─── これだけの想い、それを向けてくれている彼女に応えるのなら、彼女が彼女らしくいられるように、俺は覚悟を決めるだけだ!


「 ─── お前じゃない」


「……そんな、ひどい……」


「 ─── お前じゃない」


「どう……して……⁉︎」


「 ─── お前じゃない」


「あなたも……捨てる……の?」


「 ─── お前じゃない」


「そう……。なら、あなたが私を殺して?」


「 ─── お前じゃない」


「…………い……や……!」


 その存在を求め、隣にいて欲しいと願い、再会に胸を焦がす相手を否定する。

 正しくは『本当の自我ではない』と告げる事だとしても、自分こそが自分だと願う彼女達の辛さは計り知れない。


 どこまでも心苦しく、どこまでも不安のつきまとう対話が続く。


 否定され絶望した自我に、その存在のお陰で救いがあったのだと、存在自体を肯定する。

 どれもが古い自我でも、中身はスタルジャだ。

 どこまでも謙虚に、素直に、救われたのだと安堵する姿が、また俺の胸をちくりと突いていく ───


『 ─── アルフォンス! ちょっとアンタ消えかかってるよ⁉︎』


「ははっ、お前だってそうだろミィル。

さっきからこっそり、俺に魔力分けてくれてるだろ?

お前だって無理すんな……くっ」


 手足が言う事をきかない。

 力が抜けたっていうより、手足の概念とか存在が曖昧になっている気がする。

 意識だって、時折自分が何をしているのかすら、分からなくなりかけていた。


『ちょっ! なにすんのさアルフォンス!

は、放せ ─── 』


「お前は俺の中に入ってろミィル。

多少なり、魔力の回復も早まるだろ?」


『ばっか! それってアンタの魔力をもらってるだけでしょーが!

そんなことしたら、アンタが……!』


「この世界に居られるのは、ミィルの力のお陰なんだぞ? お前が無理して消えたら、もうチャンスは二度と来ないし、ティータニアやアネス達に申し訳ないからなぁ」


 胸に押し込もうとする俺の手を、ミィルは必死にプルプルしながら両手で抵抗している。

 ほんと、こいつは憎まれ口多いクセに、純粋で世話焼きで、妖精そのものなんだよなぁ。


「……心配すんなって、俺が消えたらスタルジャが余計に気に病むだろ?

俺は絶対にここから戻るし、スタルジャを救う。

─── お前だって絶対に連れて帰って、甘やかしまくってやるから覚悟しとけ」


『うぅ……ムリだけは許さないかんねッ!

もし死んだら、死んだら……あの世でブッ殺して、妖精界で手下にしてやっから、覚悟しとけよアルフォンスーっ!』


「…………ふふ。ひっでぇ捨て台詞だなおい。

妖精かぁ、生きる楽しみがとか、ぜってぇイヤだわ……ははは。

─── さて、結構減ってきたな」


 誰に聞かせるわけでもない。

 単に自分に平気だと言い聞かせるために、あえて余裕っぽい独り言を呟いてみる。


 意外と効果あんだけどな、ダグ爺には『逆境に陥る奴ほど饒舌』とか注意されてたっけな。

 全部終わって里に帰れたら、ダグ爺には『独り言も意外とアリ』って教えてやろう。


─── 見渡す限り草原にいたスタルジャ達は、もう数える程にまで減っていた


 今までの中に、本当のスタルジャが居たらどうしよう。

 そんな弱気な感覚に陥ったのも何度かあったが、ミィルとのやり取りで少し蘇った意識は、自分の確証もはっきりとさせている。


「…………分かるんだよ俺。本当のスタルジャかどうかぐらいはさ」


 もう一度、独り言を呟く。

 その声にまた、ひとりのスタルジャが振り返り、俺に飛び込んで来た。


─── さあ、本当の彼女に辿り着くまで、あと少しだ


 何故かそれだけはハッキリと分かってる。




 ※ ※ ※




「 ─── お前じゃない」


 草原にいた最後の一人が、腕の中で光となって消えて、上へと登って行く。


 ガクンと膝から力が抜けて、草原に仰向けに倒れた。

 胸の奥底でミィルが何やらきゃーきゃー言ってるのが聞こえて来るが、まだ回復しきってないみたいだし放っておく。


「あの中には……居なかった……な」


 スタルジャの過去の痛手を全て受け止めて、分かった事がある。

 それはスタルジャが如何に『素直』だったかって事だ。


 マラルメ達白髪のエルフ達が当初そうであったように、エルフは頑固で気難しい。


 特にマラルメ達はかたくなな感じだったけど、それも仕方がない。

 元々が実直に自分と向き合ってしまうエルフの、自我を守る為の性質に、森を捨てたという負目があったからだろう。


 それに対して、ロゥトのランドエルフ達は、かなり柔軟で素直な性質の者達が多かった。

 森を捨てたエルフ一族の中から、更に髪色と魔力の低さから排斥され、環境変化を余儀なくされて生きてきたのだから。


 それは自分の弱さと向き合う、自らを省みる生活の連続だった事だろう。

 新しい事への挑戦は、その繰り返しが習慣化されていると言っても過言ではない。


 そのランドエルフの里で育ったスタルジャは、あの悲劇に巻き込まれ、更にそれを誰にも相談できない環境で人質として過ごして来た。

 彼女は謙虚ではあるが、人に相談する事を避けるような、そういう弱さは持っていない。


─── だが、おいそれと口には出せない過去の痛手を、彼女は何度も何度も背負い直しては、自分をあらゆる角度で見直して来たのだろう


 自分で何とかしようと自立しているが、だからと言って溜め込んでたわけでもない。

 単に、その機会に恵まれて来なかっただけだ。


 だから彼女は他のエルフに比べて、素直で謙虚でありながら、人に依存する生き方もしていない。

 今のスタルジャがあるのは、過去の痛手を含めて、全てが彼女を作り上げて来たんだ。


─── 本当なら、ゆっくりと時間を掛けて受け入れていったであろう心のバランスを崩したのは、紛れも無く勇者ハンネスの魔剣による精神的外傷トラウマの影響だ


 あの時、彼女は一人で迫り来る脅威の気配に立ち向かおうとしていた。

 霊的に敏感な彼女が、それが勇者だと知らずとも、自分が敵うレベルの魔力ではないと気がついていたはずだ。


─── 彼女は俺達を逃がそうとしてくれた


 最後まで俺をかばおうと、彼女は立ち上がり、深い傷を負った。

 それでこの世界に閉じ込められるのは、あんまりじゃあないか ─── ?


『 ─── アルフォンス! 何か来るよ!

……すっごいのが来るよッ‼︎』


 ミィルの声が、頭の中にキンキン響いた。


 かすむ目を凝らすと、草原全体が黒い霧に囲まれ始めたのが見える。

 地響きすら巻き起こすその霧は、今まで見て来た『思い出』や、自我が持っていた負の感情を凝縮した物だと、肌でビリビリと感じる。


─── それが一気に押し寄せて、薄暗い草原は、一瞬にして暗闇へと飲み込まれた


 それは暗闇でありながら、体温と息遣いを感じる、強い気配のようでもある。

 飲み込まれた瞬間に、再び何かが切り替わる感覚が走って、視界の風景が入れ替わった。


 冷たい夜風がすうっと通り過ぎて行く。


 何処かの高い建物のテラス、足元には重厚かつ美しい街並みが、満月の光に照らされて臨んでいる。

 遥か遠くには長い山脈が地平線を黒く覆って、その先の風景を夜空と二分して隠していた。


 これは……レジェレヴィアの街並み……?


 シモンの実家、ツェペアトロフ家で過ごしたあの夜の風景だ。

 ならばそこには ───


─── 広いテラスの中央に、月明かりを浴びた白いシルエットが浮かび上がっていた


 それはこちらに気がつくと、口元を覆い、逡巡しゅんじゅんを見せた後、戸惑い気味に声を発した。


「 ─── あ、アル……? どうして……こんな所まで……」


「迎えに来たんだ、スタルジャを」


「……ダメ! ここは危ないの、あいつが来る……ッ! 早くここから逃げ ─── 」


 その声を搔き消すかのように、彼女の背後に黒いモヤの塊がせり上がった。

 とてつもない負の感情を振りまくそれは、渦を巻きながら肥大化し、テラスの風景を埋め尽くそうとする。


 それに気がつき、彼女は俺に向かって駆け出す。

 俺は微かに残った魔力を振り絞り、脚の筋力強化の術式を展開しながら、思いっきり地面を踏んだ。


 その勢いに驚いたのか、胸の中にいたミィルが転げ落ち、大声で叫んだ ─── 。


『アルフォンスっ! ダメ!

そいつは ─── 』


 その声を背中に、俺は目の前のスタルジャをすり抜けて、漆黒の渦へと飛び込んだ。


 触れる側から、俺の肌に黒い染みが広がり、ドス黒い感情が心を蝕み始める。

 これが……スタルジャの闇、これが彼女を苦しめて来た感情のくすみ。


 自分の生命力を魔力に変換させながら、俺は渾身の力を込めて、ありったけの声で叫ぶ ─── !


「 ─── 見つけたッ! スタルジャぁッ‼︎」


 ボウッと爆ぜる音がして、更に膨らんだ闇は、逆に中心に向かって吸い込まれて行く。

 それは夜空の闇までも吸い上げて、煌々こうこうと輝く白い大きな部屋へと世界を変えた。


「ある……アルぅっ!」


 俺の腕の中に凝縮された闇は、白い光を放って形を変え、懐かしく焦がれたあの声を発した。

 迷う事なくそれを抱きしめる。


 胸元でやや強張った彼女の肩が、俺を強く抱きしめ返す。


「迎えに来たよスタルジャ……! 待たせてごめんな」


「ふぐぅ〜っ! こんな危険なとこに……うぐっ、ひぐっ。

─── あ、ああ、ありがとう……ありがとう」


 間違えるもんか。

 謙虚で頑張り屋で、実は負けず嫌い、色んな迷いに困りながら、こんなにちゃんと笑える女は他にいない!


「 ─── チッ! 最後の最後まで邪魔するとは……ッ‼︎」


 最初にテラスに立っていたもう一人のスタルジャが、肌を褐色に染め、白い髪を振り乱しながら槍を構えて飛び込んで来る。


 俺はスタルジャを抱いたまま、片腕で槍をさばき、更に踏み込んで黒いスタルジャの懐に飛び込む ─── !


、スタルジャ! さあ、帰るぞ!」


「 ─── な……っ、なぜ……⁉︎」


 腕の中で暴れるスタルジャを、更に強く抱き締めて、白と黒ふたりとも腕の中に捕まえる。


「自我は。ミィルの存在があって、お前は初めてこの世に一度顔を出した。

─── お前もスタルジャだ、心を守るために、あえて真逆を望んで来たもう一つの心」

 

「なぜ、なんで分かったんだテメェッ‼︎」


 やっと、黒スタルジャっぽい喋り方になったな。

 前回、襲われた時にずっと違和感があったんだ。


 レジェレヴィアで黒札ヴァンパィア達と戦ってた時とだいぶ話し方が違うし、あの曖昧な精神世界の中で唯一、わずかな葛藤を持って存在していた。

 やけに人間味があり過ぎたんだ。


「スタルジャは弱くない。だからここでも、わざわざ自分の過去の自我を集めて、真っ黒けになるまで受け入れようと頑張ってた。

─── そして、お前はそれを見て心を痛めてた。

自我は過去の一部分だ、その世界で葛藤を持ってでも、前に進もうとするのは、今を生きてる証拠だからな」


「……そ、そんな曖昧なもんで、おれたちの存在を確かめてたっていうのかよッ⁉︎」


「いいや、正直後付けだな今のは。

─── 分かる。愛する女の事くらい、見れば分かるさ」


 黒スタルジャは涙をこぼしながらも、俺をにらみつける。


「…………もうおれは……もう、傷つきたくねえんだッ! もう終わりを望んだっていいだろッ⁉︎」


 どう返せばいいのか、俺は俺がスタルジャを失いたくないからそう望む。

 終わりになんかさせたくないし、傷つかないように守って行くつもりだ。


 だが、それは俺のエゴじゃあないのか?


 情け無いが、これまでスタルジャの過去の傷に触れ続けていた今、黒スタルジャの言葉が一瞬の迷いを生んだ。


 その迷いを察知したのか、黒スタルジャは俺の腕を振り解こうと暴れ出す。

 彼女を抑えるのに意識を向けた時、もう片方の腕にいたスタルジャが離れ、黒スタルジャに手を伸ばした。


「お、おいスタルジャなにを ─── ⁉︎」


 まさかまた自分を拒絶するのではと、冷やっとした瞬間、スタルジャは黒スタルジャを抱き締めていた。


「 ─── ありがとう、

あなたがそうやって、心の奥で反発して、悲しんでくれていたから、私たちやってこれたんだね……」


「…………」


「でも、もういいよ? 私だって苦しんでも先に進める。あなただって、楽しいこととか、嬉しいことで笑っていいんだもん ─── 」


 黒スタルジャは、ただ眉間にシワを寄せて目を閉じているようだ。

 抱き締めているせいで、表情が上から見ることになって、その詳細は読み取れない。


 だが、スタルジャはそんな彼女に、更に言葉を紡いだ ─── 。


「ありがとう、私。あなたは私とひとつ。

パパやママ、死んじゃったみんなが残してくれた人生だもん。

─── ね、一緒に幸せになろう? 

それが私たちの答えだよ……」


 もう黒スタルジャは暴れようとはしなかった。

 代わりに彼女はスタルジャを抱き締め、消え入りそうな声で返した。


「……ムシが良すぎんだろ……ばーか……」


「エヘヘ、それで良いんじゃない? 少しはぜいたくいってもバチ当たらないって、ティフォちゃん言ってたよ♪」


「へっ、まあ……いいや、おれは疲れた。

あとは任せる……」


 途端に黒スタルジャの重量感が消え、スタルジャの体に重なると、その姿を消した。


「 ─── ねえアル。私、これからちょっとワガママになるかもよ……?」


「ああ」


「時々、おらーって暴力的になったりするかも……」


「ああ」


「もう大丈夫ーって見せといて、また昔を思い出して、急に泣いたりしちゃうかも……」


「ああ」


「お肉……いっぱい食べるかもよ……?」


「シリルの腸詰か? バグナスの黒袖鳥の串焼きか? 美味いとこ、結構知ってる」


「いいの? 私で……私……本当に幸せになっちゃうよ?」


「ああ、お前を幸せにしたいんだ」


 えぐぅ、って泣き出しそうな顔になった瞬間、彼女は何かを思い出したようにこらえた。

 勢い余ってか、鼻水がバビッと出て、顔を真っ赤にしている。


 夢の世界ってのは便利なもんで、イメージすれば鼻紙ぐらいだせるのな。


「私、こういうとこ抜けてるよね……?」


「ぷくく……っ、いいじゃん。そういうのも楽しいぞ?」


 そう答えると彼女はニコニコ笑って顔を赤らめた。

 そして、申し訳なさそうに、いそいそと鼻をかんで、かしこまった感じで気をつけての姿勢をとった。


「 ─── えへ。


「ああ、。スタルジャ ─── 」


 見つめ合った時、世界が白くボヤけ始めて、体が引っ張られて行くのを感じた。


 目が醒める。


 その感覚を、俺はずっと彼女の手の温もりを握り締めた、まま迎える事となった ───

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