第四話 拒絶

 無音の暗闇の中に、ぼんやりと小さな灯りが、鼓動を打つように光を揺らしている。

 アルフォンスはただ、夢うつつのおぼろげな意識で、それを見つめていた。


 限りなく浅い思考力の中、その事に気がつけたのは、奇跡と言っても過言ではない程に曖昧な世界だった。


─── あの光は弱く小さいのではなく、この闇が限りなく遠く深く、それが遥か彼方にまたたいているのだ……と


(これは……世界。世界と世界の間の、ただただ遠い闇なんだ……)


 その思考が発端となって、アルフォンスは自分の意識がある事に、ようやく気がついた。


(俺は……俺はあの光を……知ってる……)


 まるでその意識に呼応するかのように、光は大きさと輝きを増し、光のチラつきをより鮮明にした。


(……あの揺れは……音……? 何か……音を出している……のか……?)


 その瞬間、光が突如膨張し、暗闇を真白に塗り潰した。

 同時に首の周りに、強い熱を感じて、アルフォンスは顔をしかめる。



─── ……ゲテ……


─── マダ……アナタ……ハ……


─── カナワナ……イ



 激しい耳鳴り、首周りを焼く熱感。

 しかし、アルフォンスはその声を、しかと耳にした。




 ※ 




─── …………くん! ……アルくんッ⁉︎


 夢から醒める瞬間のように、視界の光景と画質が、瞬時に切り替わった。

 『……え?』と目を瞬かせるアルフォンスにすがりつき、ソフィアが不安な顔で見上げている。


「アルくん? どうしたんですか、急に呆然として……」


「今……のは、夢か─── 熱ッ‼︎」


 鎖骨の辺りを押さえ、身を屈める彼の上着に、みるみる焦げが広がる。


「そ、それはッ⁉︎ 守護印がまた反応してるんですね⁉︎」


「……あ、ああ。今、多分俺はラミリアに呼び出されて……」


「アルくんの気配が隠蔽いんぺいされてますよ⁉︎

あの、また何を企んで……‼︎」


 ソフィアが盛大な舌打ちをした瞬間。

 強烈な圧迫感が辺りを襲った ─── 。


「「「─── ッ⁉︎」」」


 その時、その場にいたアルフォンスとその婚約者達、そしてロジオンが同方向に振り返る。


─── 【着葬クラッド】ッ‼︎


 突如として、禍々しい姿に変化したアルフォンスに、会議場にいたギルド職員達は、怯えて固まっている。


「─── オニイチャ、この気配……ヤバイ」


「……職員達はここから絶対に動くなッ!」


 あの速度では、今から逃げようとしても間に合いはしない。

 かえって外に出る方が、彼らの場合は危険だと、アルフォンスは見越していた。


 その言葉に従うまでもなく、突如魔力と闘気を噴き上げた彼の覇気に、実力の無い者達は硬直していた。


「……アルくん。ラミリア様は……何と?」


「─── 逃げろってさ。今の俺じゃあ、敵わないらしい」


 その言葉に、ソフィアの目が見開かれる。

 彼女は『光の神ラミリア』を知っているのだ。


 ……如何に傲慢ごうまんで、自分勝手な上司とは言え、ラミリアは嘘をつかない。


 まして、何のお膳立てもない状態で、アルフォンスに直接声を届けるなど、冗談やたわむれで出来る事ではない。

 光の神であれ、越権行為は適用されるのだ。


 ─── 『天界に在る者は、是、人界に直接手を貸してはならない』

光の神ラミリアが今、その存在を賭けてでも、危機を伝えようとしている!


「そ、それだけのリスクを押してでも、伝えなければならない危機……ってことは……!

アルくんの気配を、わざわざ隠蔽いんぺいしなくちゃならない相手なんて、ひとりしか……!」


  ソフィアが驚愕の声を漏らした時、アルフォンスの顔の前に、黒い霧の渦が現れた。

 そこから聞き覚えのある声が発せられる。


─── あ、アル! たいへん、ヤバイのがくるよッ‼︎


「ミィルか⁉︎ 今お前は何処に……スタルジャはどうしてる……ッ⁉︎」


─── 防壁、昨日ふたりで来てたとこ! スタは、ここにいたみんなをにがして、ここでアレを食い止めようとしてる!


「ば……馬鹿ッ、スタルジャが勝てる相手じゃないッ! 早く逃げろッ!」


─── そういったんだよーッ! だけど、スタは『アルをにがすんだ』って……ただにげても、おいつかれちゃうだろうって!


 アルフォンスは転位魔術を発動して、その場から姿を消した。


 それを見て、ソフィアは会議場の扉を蹴破り、防壁の方向へと走り出す。

 ティフォは近くの闇に溶け込んで、直接アルフォンスを求め、姿を消した。


 エリン、ユニ、そしてロジオンがその後を追って、会議場から飛び出して行く。


 この場に居合わせた者達の中で、防壁の近くの転位魔術の座標を、正確に得ている者はアルフォンス以外になかった。


─── これ程の気配、それを放つ存在の驚異的な力を、スタルジャが分からぬはずがない


 彼女はソレに勝てない、いや、ここに居る誰もが勝てないかも知れない─── 。


 だからこそ、彼女は命を投げ打ってでも、アルフォンス達を逃す事を望んだのだ。

 彼女ならそうするだろうと、彼女を知るアルフォンスの婚約者達は、分かっていた。


─── そして、アルフォンスがそれを許さない事も、分かっていたのだった




 ※ 




 フィヨル港の街北端の防壁、その片隅にとある一点を中心に、黄緑色の光で描かれた幾何学模様のドームが街を覆うように展開された。


 強固な結界の膨張が大気を震わせて、空の至る所に青白い電光を走らせると、海峡の荒波すら押し退けて波音を立てた。

 地響きにも似た、重苦しい魔力の圧力の中、術式を完成させた緑髪のエルフはキッと沖をにらみつける。


 その背後で、青白い魔術の反応光が瞬くと、彼女は驚きの表情を浮かべて振り返った。

 直ぐに光の中から現れた、人影を見て哀しげにうつむく─── 。


「─── スタルジャッ‼︎」


「…………どうしてアルが来ちゃうの! 今のうちに、できるだけ遠くに逃げてッ! 早くッ‼︎」


 叫ぶスタルジャの言葉に反して、アルフォンスは彼女に駆け寄り、その体を抱き締めた。


「これだけの力を持つ相手だ、逃げても間に合わないし、転位魔術を使っても追跡されるだろうさ」


「でも……でも……! 私が時間稼ぎしていれば、あなたは助かるかも……知れない……!」


「それじゃあ、意味がないんだよ。スタルジャが近くにいないとさ」


 声を出すと鼻につんとした刺激が込み上げて、泣き出してしまいそうな気配を、彼女はグッと息を止めてこらえた。


─── そうだった、この人はそう言う人だった


 彼女はそう思い直し、束の間の温もりを少しでも強く感じるために、自分を抱く男の胸に顔を埋めた。

 そうして数回深く呼吸をしてから、アルフォンスの腕を離れて、暗い空を再び睨みつける。


 もう気配は目前まで迫って来ていた。

 アルフォンスは、夜切をその手に喚び出して握り、スタルジャは周囲に精霊の光球を無数に浮かべる。


「へへへ、そうだね……これは逃げられそうにないね」


「ああ、でも約束は約束だろ」


「約束?」


─── ……パッ……キイィィ……ン


 張られていた結界が、空に無数のヒビを走らせて、黄緑色の光を走らせて砕け散った。

 大質量の結界が失われ、街には寄り戻る大気に押されて、強風が吹き荒れる。


 アルフォンスは夜切を抜いて、ゆっくりと構え、その出現に備えた。

 上空にぽつんと浮かぶ人影に、アルフォンスは持てる全ての闘気と魔力を、怒涛の如く立ち昇らせる。


 人影はその圧倒的なアルフォンスの魔力にも、顔色ひとつ変えず、静かに降下して目前の宙に留まった。


─── 腰元まで伸びた白髪、胸元まで下がる白髭、深いシワの刻まれた顔に光る鋭い眼


 前合わせの簡素な服は、細く繊細な体に見せるも、その下の肉体が持つ闘気は最早人とは思えぬ程だ。


(……何だこの爺さんは……人間……なのか?)


 漆黒の全身鎧の下、アルフォンスの背中に冷たい汗が流れ、鍛え上げられた精神が掻き乱されるのを感じていた。


「─── アルくんッ‼︎」


 光の粒子を巻き上げ、ソフィアが上空から急降下して、アルフォンスの隣に降り立つ。

 その反対側に伸びた、彼の影の中からはティフォが浮かび上がり、赤黒い触手を広げて構えた。

 数秒遅れてエリンとユニの二人も、その場に駆けつける。


 老人は風に白髪を揺らめかせながら、ただ静かに彼らを見下ろし、鋭くも光の無い瞳で凝視している。


─── 睨み合うひとりと六人


 牽制でも威嚇いかくでもなく、静かに、しかし際限なく膨れ上がる闘いの空気のみが、大気を震わせて唸りを上げていた。


「……こいつは……何なんだ……?」


 アルフォンスのつぶやきに、ソフィアは細く息を吐き、静かにそれを告げた─── 。


「─── 適合者……もうひとりの……。

いいえ、私のです」


「「「─── ッ⁉︎」」」


 明らかに動揺が走る。


「こ、こいつが……ハンネス!

何故、魔界を出られるんだ⁉︎」


 ハンネスが魔界に閉じ込められたのは、魔王の加護を与えられた体、それが持つ魔王の特性と人の身の限界にあった。


─── 魔王は魔界の膨大なマナを受け、魔界の全ての生命に分配するのが定め


 しかし、ハンネスの魔力の器は、契約者であるリディを封じられた事で、人のそれに成り下がった。

 膨大な魔界のマナの流入は、その器をむしばみ、魔界への分配をして逃さざるを得ない。


─── 逆に魔力の分配量は膨大で、魔界を離れれば魔力の枯渇を起こして、ハンネスの存在は消失。

もしくは、分配先が途切れ、膨れ上がった魔力で破裂する


 かつて、剣聖イングヴェイの目論見により、この三百年間、彼を魔界に縛り付けた現実だ。

 魔界を離れてもなお、その肉体の崩壊を防ぐには、人界の適合者として受ける、魔力の総量の拡充が必要なはずである。

 つまり─── 。


「こいつがここに居るって事は……

─── リディはすでに復活しているのか⁉︎」


「……はい。間違いありません。この馬鹿げた契約の光の大きさは、人界の適合者として完成された者の証。

私の前任者、リディは確実に─── ッ⁉︎」



─── 【 拒 絶 】



 ソフィアが言い掛けたその時、抑揚の無い声が響くと、赤黒い霧が街を覆い、世界の色を著しく失わせる。

 直後、その場に居た全員が、呼吸する事すら難儀する、重苦しい圧に苛まれた─── 。


「…………ぐっ、う……っ⁉︎

こ、これは……神威……⁉︎」


「う、動け……ない……ッ!」


 かつて霧の女王エスキュラが、不死の夜王パルスルが使った、全てを拒絶するエルネアの負の感情。

 それを遥かに凌駕する、存在そのものを許さぬような、強烈な神威に体の自由を奪われていた。


「─── あなたが……わたしの…………」


 澄み切った声が響き、ハンネスとおぼしき老人の背後に、光の渦が舞う。

 その中心から黒い塊が現れ、一瞬にして人の形を成すと、誰もが声を失った─── 。


 ソフィアと寸分違わず同じ顔、優れた芸術品のように整ったシンメトリーな造形、しかしソフィアとは似ても似つかぬ女。

 無感情に見下ろす瞳は、記憶の映像にあったソフィアと同じエメラルドではなく、この世の闇を凝縮したような漆黒。


─── そして、そこにあるはずの豊かな白金の髪は、その一本も残さず生えていない


 調律神オルネアの化身、先代の代行者にして、聖魔大戦の英雄のひとり。

 大魔導士リディ。


 彼女の言葉に、老人はピクリと反応して、ソフィアを見る。


「─── あれが、お前の後任か」


 老齢の姿にそぐわぬ、澄み切った少年のような声が、白ひげの奥から発せられた。


「そう、ハンネス。あの僧服の女が……わたしの後任。オルネアの……


「へえ。じゃあ、もしかしてその隣の黒いのが、僕の後任か─── 」


 ハンネスの視線がアルフォンスを定める。


「やあ、適合者くん。はじめまして」


 眼はそのままに、ハンネスの口元が微笑みを浮かべた直後、アルフォンスの体に衝撃が走った─── 。


 その瞬間、地面にぎ倒されたアルフォンスの体に、青白い炎と魔法陣が浮かび上がった。


「……【自動蘇生イムシュ・アネィブ】⁉︎ あ、アルく……⁉︎」

 

 黒い何かがくるくると宙を舞い、アルフォンスの傍に落ち、鈍い音を立てた。


 それは特殊魔鋼を鍛え上げた、炎槌ガイセリックの籠手こてに覆われたままの、アルフォンスの左腕だった─── 。


 直後、漆黒の鎧、その胴当に斜めの切れ込みが走り、おびただしい量の血が噴き出す。


「……なんだ。この程度で死ぬのか。虫ケラだなぁ……ガッカリだ」


「いやあああッ! アルくん!

─── 【癒しの奇跡】ッ‼︎」


 ソフィアが半狂乱で回復の奇跡を放つも、アルフォンスの傷に、全くと言っていいほど反応はなかった。


─── ボト……ッ! ボトボトボト……ッ!


 ハンネスの足元の石畳を、細切れにされたの肉片が、雨のように降り注ぐ。


「─── うっ……ぐっ!」


 ティフォが苦痛に顔を歪め小さくうめくのを、ハンネスはつまらなそうに眺め、溜息をついた。


「……今のが攻撃のつもり……? 後任もゴミなら、その取り巻きもゴミか。興醒めだなぁ。

それにしても、なんであいつ、生き返ってんの?」


「あれはおそらく【蘇生アネィブ】の変化系……。予め、掛けておけば……死んだ直後に蘇る。……術式は……そんな意味合い……だったわ」


「へえ、生意気だなぁ。でも、弱かったら意味無いよな……何度でも殺されるんだし」

 

 ハンネスの鋭い視線が、再びアルフォンスに向けられた瞬間、何かがそれをさえぎった。

 それは背中から鮮血を散らし、アルフォンスに覆い被さる。


「─── す、スタちゃんッ⁉︎」


「「「─── ⁉︎」」」


 エリン、ユニ、ティフォが、声を上げる事も叶わぬ目の前で、アルフォンスの盾となったスタルジャが吐血して倒れた─── 。


「……へえ、あれはエルフか。お前の【拒絶】の下にいて、動けるとは中々に見所があるな。

─── もう死んじゃうけど」


「何故……? 何故動けるの……矮小な人族の木っ端のくせに……!」


 身を乗り出そうとするリディを、ハンネスは睨みつけ、その動きを制した。



「おい。これはぼくが楽しんでるんだろ? お前は黙ってろよ」


「……ご、ごめんなさいハンネスッ! ゆるして、お願い……わたしを見捨てないでッ⁉︎」


 金切り声を上げ、激しく取り乱したリディが、ハンネスの腰にすがりつく。

 その胸倉を掴んで、ハンネスはリディを引き寄せ、唇を乱暴に塞いだ。


「……これでいいだろ?

五月蝿うるさいんだよ……お前は黙ってろ」


「…………」


 小さく震え、未だ怯え切った眼のまま、リディは命令通りに口をつぐんでいる。

 その彼女の表情を一瞥いちべつする事も無く、ハンネスはもう一度、アルフォンスの方へと向き直った。


「…………スタ……ルジャ……」


「………………あ……ア……ル」


 アルフォンスは息も絶え絶えに、己に被さったスタルジャに声を振り絞る。

 何とか彼女の体をずらして、ハンネスの留めの一撃から守ろうとしているようだ。


 しかし、彼女の細い腕が、瀕死とは思えぬ力で彼の体を抱き締め、それをさせようとはしなかった。


「……離せ。狙いは……俺だ……!」


「……ぜったい……い……や……」


 血に塗れた彼女の顔が、力無く微笑みを浮かべる。

 彼女は最期まで、自分を守り死ぬ気なのだと、その表情に悟った。


「……約束……した……だろ……?」


 約束、ハンネスが現れる直前と同じ、彼が口にした言葉に、スタルジャは不思議そうに眉を寄せた。


「…………フォカロム……で、デート……」


 彼女はその言葉に、眼を細めた。

 小さく『うん』と囁いた時、彼女の体が青白い【自動蘇生イムシュ・アネィブ】の光に包まれる。


 その白い肌が、黒ずんで褐色に染まるのに、アルフォンスは眼を見開いた。


 ソフィアが掛けた回復の奇跡にも、アルフォンスの傷は一向に癒える気配がない。

 この傷は魔剣と同じく、魂を囲うもう一つの体、幽星体アストラル・ボディごと傷つけている。

 更にはリディの【拒絶】が、あらゆる魔術を阻害し、回復の効果すらも低減させていた。


 つまり、如何に【自動蘇生イムシュ・アネィブ】しようとも、傷は癒えずに、再び死の淵に落とされる─── 。


「……ダメだ! スタ……寝る……な!

戻って……こ……い」


「……だ…………い……す…………き……」


 スタルジャの体が、青白い業火に包まれる。


 全ての魔力を使い果たしてでも、彼女を生かそうとするアルフォンスの、狂ったように連発する【自動蘇生イムシュ・アネィブ】の反応光だった。

 その青白い炎の光が、ハンネスとリディの顔を、下から青く闇夜に浮かび上がらせている。


 無感情な眼。


 心通わす様子が見られない、ふたりの共通点。

 その目に移る青白い炎の光が、突如、紅い炎の光に塗り替えられた─── 。


「─── ァアアッ‼︎」


 石畳を溶かしながら駆ける、紅蓮の焔に身を包んだ、白いスーツ。

 アルカメリア冒険者ギルド協会本部長、魔界に名を馳せた不老の男。


─── 炎帝ロジオン・サーヴァス


 かつて愛した者達への想いを、今この男が怨讐おんしゅうの業火に換えて、勇者ハンネスの前に立ちはだかった───!




 ※ ※ ※




「……くっ! このガキ……ッ」


 禍々しい黒い炎をまとった魔剣の一閃が、紅い炎をすり抜けた。


 紅蓮の炎は瞬時に人の姿に戻り、勇者の肩口を幅広の短剣で焼き貫くと、肩の一部を消炭にして散らす。

 苦痛に顔を歪める勇者、しかしその傷は、瞬く間に再生された。


「……チッ、勇者の奇跡【超再生】か、なんとも面倒臭え。てめえみてえな、お坊ちゃんには、勿体ねえ加護だよなぁッ‼︎」


 剣を振り被るロジオンの胸を、勇者の魔剣が貫くも、その姿が搔き消える。

 逆に勇者はうめき声を上げ、前によろめいた。


 搔き消えたロジオンの姿は炎の幻影、本体は背後から勇者の背中を斬りつけていたのだ。


「どうしたぁッ! てめえ、勇者なんだろうがぁッ!

魔王さんに……フォーネウス王に手を掛けた、てめえの奇跡ってやつを見せてみろッ‼︎」


 それまで魔剣を抜く事すらしなかった勇者を、ロジオンが追い詰める。


「……クソッ! その名で呼ぶなぁッ!

ぼくを『勇者』と汚らわしい名で呼ぶなぁッ‼︎」


 不可視の斬撃が、五月雨さみだれの如くロジオンを襲うも、炎の揺らめきの音を立てて通り過ぎた。


 【斬る】奇跡。


 アルフォンスの会得した、数少ない『オルネアの聖騎士』の加護の内のひとつ。


 すでにハンネスは、アルフォンスの知らぬ、いくつもの奇跡を行使している。

 【神雷】【神疾】【神眼】【超再生】─── 。


 しかし、炎と実体を老獪ろうかいに使い分け、ハンネスの力を最小限に抑えるロジオンに、その奇跡は届かなかった。


「あれ……が…………オルネアの聖騎士パラディン……。完全な……契約の……奇跡…………」


 ハンネスの思わぬ苦戦に、リディは動揺したのか、わずかに【拒絶】の奇跡が弱まっている。

 やや体力を取り戻したアルフォンスは、スタルジャに【自動蘇生イムシュ・アネィブ】と回復魔術を掛け続けながらつぶやいた。


 その言葉にソフィアは唇を噛み、己の不甲斐なさを、ただただ歯痒く思っていた。


(アルくんが……ちゃんと契約を得られていれば……絶対に負けないのに……!

私が、神の代行者として……未熟なばかりに、彼を危険に晒してしまった……)


「─── ソフィ……やめ……な……!」


 エリンの声に、ソフィアは悔しげに眼を閉じる。

 わずかに動く指先で、ソフィアは自らの太腿に、斬り刻む奇跡を掛け続けていた。


 その痛みで、少しでも自分を奮い立たせ、リディの呪いを凌駕するために─── 。


「……神の使う奇跡は……その想いの力……。今の私に……リディの奇跡を……打ち払う覚悟の強さが……足りない……んですッ!

恨みでも憎しみでも苦痛でも、私には今、アルくんを守るための……想いの力が……!」


「ソフィ……」


 エリンはソフィアの想いを知り、無力感にさいなままれているのが、自分だけではないと噛み締めた。

 エリンは魔力を肉体強化に注ぎ込み、全身の筋力を膨張させて、至る所から血を噴き出しながらも限界を超えんとする。


 全身を赤褐色の体毛が覆い、顔が人のそれから、豹そのものの形へと変貌した。

 密林の王者、その風格を成す、鋼の肉体が唸りを上げてリディの【拒絶】を振り払う。


─── 獣化


 セオドアの獣化と同じく、エリンは己の内に眠る獣の力を、強引に引き出したのだ。


「……ソフィ、きっとそれじゃだめ。あなたはアル様の守護神、あなたが奮い立たせるのは、あなた自身じゃ……ない。

─── アル様に対する覚悟……じゃないかしら」


 エリンは目元を優しく細めて、ソフィアに微笑みかけると、石畳の地面を踏み割って勇者へと飛び掛かる。

 その後ろに、白と黒のシルエットが、追従するように現れた。


─── 魔導人形のマドーラとフローラ

 

 三条の殺意が迫るのに気がつき、勇者はリディに向かってえた。


「何やってんだリディッ! ぼくを助けろッ‼︎」


「─── ッ‼︎ は、はいッ!」


 リディはずっと己を押し留めていた。

 この世で何よりも大きな存在、契約者ハンネスが『お前は黙ってろ』と、そう言ったのだから。


 目の前でハンネスが傷つくのを、彼女は血涙を流す思いで、激情に打ち震えて眺めるしか出来なかった。

 ……しかし、今、その禁が解かれた。



─── 【 我 が 前 に 平 伏 せ 】



 重苦しく、狂気に満ちた言霊が、赤黒い波動をもって紡がれた。

 【神の呪い】は、ロジオンとエリン、マドーラとフローラの四人はもちろん、その場にいる勇者以外全ての者達を地面へと押し潰す。


「─── ハンネス……もう良いでしょ?

このまま、全部滅ぼしてしまえば……いい」


「いや、それじゃあ天界には行けないだろ?

どうしたって聖剣は必要だ。

ぼくはこの世界を、天界ごと消すんだ─── 」


 勇者の魔剣が、ロジオンのうつ伏せの背中に振り下ろされた。


 リディの呪いに支配されたロジオンの肉体は、その炎の呪いを停止させていたのだろう。

 炎化できずに、肉を斬り裂かれ、血飛沫を上げていた。


「やめ…………ろぉおおおッ‼︎」


 アルフォンスが渾身の力で立ち上がり、勇者へと魔力の波動をぶつける。

 塞がり掛けた傷口が開き、石畳を打つ血液の音と湯気が立ち込めた。


「……何故……? 契約も出来てない、ただの人間が……わたしの呪いに……抗える」


「ふん、腐っても適合者か。こりゃあ、お前の後任がカスなんだな?

あのデカブツ、ここで確実に殺した方が良さそうだ。

─── でも、その前に、ぼくと同じ適合者なら、ぼくの百万分の一でも、苦痛を味合わせてやりたいよねぇ……」


 勇者は顔を片方の手で押さえ、口元を歪めてわらうと、足元のフローラを魔剣で突き刺した。

 呪いで声すら出せぬその背中に、突き立てた刃を、何のためらいもなく搔き回す。


「…………止め……ろおぉぉッ‼︎」


 アルフォンスの魔力が、黒い暴風を起こし、リディの呪いに抗おうとする。

 しかし、その足を前に一歩進める事すら、敵わない。


「あれ? この子じゃないのかぁ。一番大事な子は誰かな?

─── こっちの黒いのかな?」


「…………殺すッ! お前は絶対、俺がこの手で殺す……ッ‼︎」


「あははは、いい声で鳴くなぁお前。それそれ、そういうのだよ……。

─── 大事な人が奪われたって、何もできやしない自分を、心の底から怨むんだよ!

こんなのが、神の与えた運命なんだろ?

お前の叫び声、涙の一粒まで供物なんだよッ‼︎」


 呪詛じゅそを撒き散らし、勇者はマドーラの背中に、魔剣を突き立て抜き刺しを繰り返す。


「……供物……だと……?」


「ああ、何だお前、まだ知らないのか?

ぼくたちの喜び、憎しみ、怒り……全ての感情はマールダーへの供物なんだよ。

そのために、ぼくたちは生かされ、何も知らずに生まれ変わり、また苦しんで死ぬのさ!

─── 苦痛に立ち向かう魂の光を、永久に捧げるために、何度だって悲劇を与えられてね」


 その言葉に、感情を揺さぶられたアルフォンスは、リディの呪いに押し潰された。


「あはははッ! 聞きたく無かった? 言っちゃった、教えちゃったよー♪

ああ……たまらないな、その表情! 

…………まるで目の前で、カルラを殺された時のぼくみたいだよ」


 勇者は魔剣を引き抜き、マドーラの隣に倒れていたエリンへと、その切っ先を向ける。


「……でも、まだまだだ。ぼくはこの世の太陽を殺されたんだ。その苦しみを三百年も、あのカビ臭い魔王城の中で、抱き締めて来たんだ。

─── さあ、次はこの獣人の女の子だ。

ぼくの苦痛の億万分の一でも、味わってみてくれよ……」


「………………ッ!」


「あはは、いー顔♪ この獣がそんなに好きかい?

そいつはやり甲斐があるよねぇ─── 」


─── ヴゥ……ンッ!


 勇者が魔剣を振りかざした時、夜空に薄紫色の閃光が走り、凄絶な速度で何かが勇者を吹き飛ばした─── 。


 すぐさま襲いかかるリディをも吹き飛ばし、その巨大な存在は、天に咆哮ほうこうを上げる。


 白い体に黒い虎縞模様、長い首を流れるように伸ばすと、鎖を擦り合わせるような強固な鱗の音が響き渡った。


 アルフォンスの手によって聖戦士となった、風の境界フィナウ・グイの守護にして、エルフに育てられし龍。

 その身に、数多のエルフの魂を宿す。


─── 神龍ディアグイン


 三百年の呪い、そして【時間停滞】の魔術から解放された巨龍が、更に強大な姿で勇者の前に立ちはだかった───

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