第二話 光

 ケファンの森の結界の外、キュルキセル大森林の境界に、セオドアとアースラが待っていた。


─── 無事『』は受け取ったみてぇだな


 セオドアの言葉に、どしりと腹の奥が重くなる。

 もう彼らを疑いの目で見る気は無いが、彼らが何を知っているのか、それは問題だ。


 遅れて五人娘が追いつき、セオドア夫妻を目にするなり、歓声を上げた。


「やったじゃねぇか親父どの、自分の事のように嬉しいぜ……!」


 セオドアはわずかに震え、涙ぐんでさえいる。

 スタルジャ達がアースラを囲んで、楽しげな会話を始める中、俺はセオドアに尋ねた。


「─── 答え合わせ、してくれるんだろ?

セオドアとアースラ。お前達は一体何者なんだ……」


 その問いに彼は寂しそうに眉を下げ、俺の目を真っ直ぐに見つめる。


「あんだよ……まだ分からねえのかよ……」


 ……いや、何となく目星はついている。

 ふたりと初めて共闘した夜に聞いた会話は、意味が分かっている今なら、補完できる。



─── この時期に、この場所にいるのは偶然とは思えませんわね。貴方に勝てて……?


─── まだ、時期じゃねえ

今はまだ完全に力を取り戻してねえだろうし、あんな中途半端じゃあ、やり合うのも面白くねえ



 そして、彼らは俺がケファンの森に来る事も、クヌルギアの鍵の事も知っていた。


「─── 魔公将……だろ?」


「へへ、親父どのも人が悪ィぜ。分かってて聞いたのかよ」


 魔公将……歴代魔王に仕える、精霊に近い存在。

 魔界の泉から生まれ、魔王がそれを滅ぼし、再生させる事で主従を結ぶ。

 魔族とは厳密には異なるが、限りなく魔族に近く強力な者。

 

 そう父さんからは聞いている。


「いや、今確信しただけだ。それに、なぜお前達が人界にいるのか、それすらも分からない」


 何故、スライムの王オルタナスは、ハリード自治領にいたのか。

 何故、霧の女王エスキュラは、バグナス領に居て、自死を選んだのか。

 何故、パルスルは俺との闘いに、ああも意味を見出そうとしていたのか─── 。


「俺達、魔公将ってのぁ、魔王に殺されて、初めて魂で契約すンだ。

普通は魔王が死んだ時、俺たちは力を失って泉に戻される契約になってる。

─── 記憶は代々薄っすらと残ってんだけどな、それだって魔王サマの思い通りに作り変えられる。

契約されるまで、なんも出来ねえ木偶デクなんだ」


 精霊使役、いや、ゴーレムに近いのか。

 殺されたら契約して、もう一度泉で生まれ変わる……それで『』って呼んでたのか。


「先代の親父どのは変わりもんでよ、そんな俺らを不憫ふびんに思ったんだろうな……。

なっかなか契約しようとしねえどころか、俺達を普通の子供みてえに育てようとしたんだ。

……最後の最後でちゃんと契約したけどな、あン時も『すまねえ』って何度も謝ってくれたんだよ」


 父さんの記憶の中で、そんな事言ってた気がする。

 そして、パルスルが言っていた、初めて家族同然だと言える幸せをもらったってのは、そう言う事だったのか ─── 。


「オルタナスとエスキュラのふたりなんざ、親父どのに心酔しちまってなぁ、張り切りまくって空回りしてたぜ。

ハンネスの坊や相手に、演技しろってのも、変な命令するよなって楽しんでた。

パルスルだって珍しく言う事聞くもんだからよ、皆んな親父どのが好きなんだなって笑ってたんだぜ?

─── だが、親父どのは死んじまった」


「…………」


「俺達は泉に引き戻されたものの、何故か力は失っちゃあいなかった。

何が起きたか知らねえが、親父どのがおっ死んじまったって事だけは、みぃんな感じ取ってたんだ。

─── 力はある、だが魂が抜けちまったみてぇに、気力が全く湧かねえんだ。

皆ンなよ、親父どのの事を嘆いてな……随分としょぼくれてた」


 結局、彼らは爺さんが居なければ、自分達では何ひとつ進められない存在なのだと、己を卑下してさえいたらしい。

 彼らはその時、爺さんの死んだ理由も分からず、そして最期を看取る事も出来なかったと、それがただただ悲しかったのだという。


「だから、次の魔王様には、最初から全力で支えていくつもりだったんだ。

……だが、いつもだったら直ぐに現れるはずの、次の魔王サマがいつまで経っても現れねえ。

それなのに魔力だけは、送られて来るじゃねえか」


「─── 魔王の世代交代失敗か」


「そう、それだ。親父どのは死んじまったってぇのに、俺達は自由。その契約は生きてたからな、自分達の契約を初めて確かめようとしたんだ。

そん時にようやっと気がついた……違うやつの名義になってる。そン時ァ、頭真っ白になったもんだ……

─── 勇者ハンネスが……魔王サマだってんだからよ」


 彼らの契約は、不完全な魔王の世代交代のせいか、勝手にハンネスへと移行されていた。

 彼らにとっては仇で、仕える事などあり得ない相手だったと言うのに。


「ハンネスと契約をした訳じゃねえから、契約は親父どのの頃と変わりはねえ。なぁんも強制力は無かったンだ。

……俺達ゃあ長え事、泉でただぼんやり存在だけしてた」


「…………」


「だが、二十年近く前か……。偶然、勇者が泉の近くまで来たんだ。

契約のせいなんだろうな、近くに来ただけで、俺達にも親父どのと、勇者に何があったのか手に取るように分かったさ。

─── ハンネスの記憶が流れて来たんだよ」


 セオドアの握る拳から、ぎりりと悲鳴が上がる。


「─── 親父どのを殺したのは、ハンネスだったんじゃねえかってな……!

でもよ、契約はそのままあいつが持ってんだ、俺達には手を出す事も出来ねえ」


「…………」

 

「だが、オルタナスとエスキュラは動き出した。やつら魔王城に忍び込んでな、親父どのの孫娘から、全部聞いて来たんだ」


「姉さんも無事って事か……」


「オルタナスとエスキュラのふたりは、アンタを探しに人界へ、パルスルも連れて行っちまった。

─── 俺ァ、どうにも親父どのの考えを思うと、復讐みてぇな事をする気にゃあなれなかったんだ……」


 あ、それはなんか分かる気がする。

 記憶映像で見た爺さんは、自分の事で復讐とか、性格的に止めるだろうなと思う。

 むしろ自分が死んだ事を自虐ネタにしそうな奔放さがあった。


「長えこと連絡も無かったが、まさか後継のアンタが、新たな勇者に選ばれてるなんざ思いもしねえよな……。

パルスルからいきなりアンタの話が舞い込んで来た時ァ、流石に混乱したぜ」


 オルタナスの最期の言葉はちゃんとは聞けていないが、エスキュラとパルスルの言葉は、それを聞けば納得だ。



─── 世界はそう、調律するのか



 本来、魔王と勇者は、対極じゃない。

 そもそも別の世界の調律者ってだけだった。


 そのふたつの存在が、ひとつになるなんて、考えつく事もなかっただろう。

 オルタナスもエスキュラもパルスルも、自分達なりに人界の適合者への処断を考えていただけだったんだ ─── 。


 ふと、隣でソフィアが暗い顔でうつむくのに気がつき、俺は彼女をたしなめた。


「ソフィが俺を選んだからじゃない、勇者とリディが使命を果たさないまま、魔王の継承が不完全だった事が問題なんだ。

─── 神の意思じゃなくて、これは運命の悪戯だよ……」


「そうだぜソフィアさんよ。元はと言えば、勇者を追い詰めた、クソみてぇな帝国が問題なンだ」


「─── あ、ありがとう……ございます」


「ソフィが俺を選んだのも、これから調律し直すのに、必要な運命だったんだよ。それが無かったら、ここまで来れてない」


 ソフィアが俺の腕に顔を埋め、声を押し殺して泣いている。


「じゃあ、初めて俺と会った時は、俺の事は魔王の後継者とも、人界の適合者だとも気がついてなかったのか?」


「へへ、正直偶然が過ぎて、全く考えもしてなかったしよ? 

親父どのと一緒に、殺し屋どもと闘ってようやっと、繋がったって感じだな。

まさか道に迷った先で逢うなんざ、考えもしねえだろ普通」


 ふたりが迷子でこの地に来たのは、本当に偶然だったらしい、夫婦そろってテヘヘと舌を出してやがる。

 女騎士といい、このふたりといい、俺はなんか迷子を引き寄せる磁石でもついてんだろうか?


 ともあれ、これで魔公将達の動きはだいたい分かった、後ひとつ気になる点は───


「…………何故、エルネアを

なぶりものにしたのは……何故だ?」


「嬲りもの⁉︎ 俺はんなこたぁしてねぇよ!」


「─── え⁉︎ でも、エスキュラはそう……

それにパルスルだって、あの子の呪詛じゅそを使って私達の加護を封じ込めようと……してました!」


 ソフィアの剣幕に、セオドアは固まる。

 バツが悪そうにあご髭を掻き、しばらくモゴモゴした後、ようやく重そうな口を開いた。


「あー、エルネアはなぁ……エル・ラト教団で見つかったんだ」


「「「─── ⁉︎」」」


「オルタナスの奴が躍起になっててな、少ねえ話を辿って、南アルザスの教団施設で見つけたんだとよ。

─── そん時にはもう、まともに話せる状態なんかじゃ……なかったって話しだ」


「教団が……⁉︎ な、何故ですか!」


「真意は知らねえし、随分と前にオルタナスから聞き齧った程度だからよ、俺はよく知らねえが……。

教団がエルネアを押さえてたのは、魔王復活を阻止するって、名目だったらしいけどな。

それに、何でも部屋には、エルネアの呪詛を結晶化させる術式と、その結晶が山程転がってたってぇ話だったが……」


 へたり込むソフィアを座らせ、背中をさすっていると、セオドアは更にバツの悪そうな顔で弱々しく答えた。


「教団がそうしたのは……多分だが、ハンネスをコントロール出来なかったってえ、痛手があったからじゃねえか?

用済みになって、カルラと一緒に処刑するはずが、大暴れされたってんじゃあかなわねえだろ」


 なるほど、それなら納得が行く。

 誰が考え出したのかは知らないし、虫酸の走る凶行だが……勇者を止めるには、リディを止める必要があるだろう。


 それにもし次の勇者が現れて、それもコントロール出来ないとなれば、対策を求められる。

 度し難い程に……狡猾で非道な話だ。


「─── そ、そんな……

何故、教団がそんな事を……。どうしてエスキュラはあんな言い方を……⁉︎」


「……エスキュラが、アンタにどう言ったのかは知らねえけどよ。そンな事が出来る奴らじゃねえよ、あいつらは。

アンタにそう聞こえるように言ったンだとすれば……。調律神への不信感だろうよ。

─── 人界を守るはずの勇者はぶっ壊れちまったし、正統な魔王を選ぶはずのエルネアは、よりにもよってその勇者を選んだンだ」


「「…………」」


「神さまにゃあ、完璧を求めちまうのが、人ってもんだろ……?」


 何も言えなかった。

 魔王に心酔していた彼らの気持ちを考えれば、調律神も人間族も、そう恨まれても仕方がないのかも知れない。

 オルタナスは、ソフィアが神だとは気がついていなかったようだけど、人間への憎しみは深く感じられていた。


「オルタナスは……どうして、あんな辺境に?

実験だとか言ってたが……」


「あいつがハリードを選んだのは、あんたが現れるのを待ってたからだ。

あそこなら、バグナスからアケルへの大きなルートに面してる。

確実に強い奴が出てくりゃあ、すぐに伝わってくるし、動きやすいだろ?

─── 実験てぇのはよく分からねえが、最悪自分の手で、帝国だけでも潰す気だったんじゃねえか?」


「─── !」


 やっと合点がいった。

 魔王後継者ともなれば、必ず頭角を現して来るだろうし、バグナスにはエスキュラ、アケルにはパルスルがいる。

 中央諸国は情報網も、交通網も充実してるから、知ってからでも彼らなら間に合うだろう。


 彼らは俺の出現を待っていたんだ……。

 現れなかった時の手段も練り上げながら。


 オルタナスは最期まで俺をアルファードとも、人界の適合者だとも知らず。

 エスキュラはオルタナスを倒した存在が、新たな勇者の出現と睨み、浮上してきた。

 パルスルはオルタナスとエスキュラの死を知り、新勇者がどんな人物かを探ろうとしていた。


─── そして三人は、俺の手で殺された


 まさかアルファードが人界の適合者になっているなど、彼らは思わなかっただろうし、闘いを避ける事は不可能だった。


 今頃、泉で俺が来るのを待っているのだろうか……。

 再び立ち上がる、その光を求めて─── 。




 ※ ※ ※



 

 アルザス帝国領内に独立する、都市国家ルミエラ市国。

 エル・ラト教団総本山である。


 その教皇の座する、ルミエラ宮殿の廊下を、高位聖職者達のひそひそ声が木霊する。

 つい先日、オウレン枢機卿の捕り物劇があっただけに、騒然としていた宮殿内であったが、今は冷笑に溢れていた。


─── く……ッ、やはり戻って来るべきではなかったのか……!


 好奇と嘲笑の的にされ、女騎士は平静を装いながらも、その腹の底は煮えくり返っている。


 無断で行方をくらませたのは自分の責任であり、処罰を受ける事も覚悟はしていた彼女であっても、高位の聖職者ともあろう教皇庁の人間の下世話ぶりには閉口していた。


 彼女の苛立ちは、それだけではない。


 彼女を捜索に出たグレッグ司教と、第二師団団長セバスティアンの失踪、それらの責任の追及を彼女はされなかった。

 それそのものには、肩透かしを食らった思いであったが、同時に教団内で起きた事の一端を垣間見てしまったのだ。


 彼女は先程まで、この宮殿の一室で、枢機卿代理のデューイ司教と面談をしていた─── 。




 ※ 




「いやぁ、よくぞご無事で。ラブリン第二師団長殿─── 」


「……デューイ司教、この度の私の失態、その責は重く受け止めております……」


─── 教団に戻ってみれば、枢機卿は失脚し、今はこの帝国派の旗手デューイが枢機卿代理。

ローオーズ領の事件といい、何とも胡散臭いものだ……


 小さな部屋でテーブルを介して向かい合う、目の前の男に、女騎士はそう不快感を禁じ得なかった。


「もうご存知の事とは思いますが、ローオーズ領ホーリンズで不祥事が起きましてな。

この通り教団内は今、蜂の巣を突いたような騒ぎ……。

拙僧が代理を務めさせていただいておるものの、貴女を罪に問う気はありませんよ」


「─── 何故……です?」


「グレッグ司教の事は、大変残念ではありますが、貴女の捜索は彼の意思によるもの。

そして、貴女の失踪は、あの異端者アルフォンス・ゴールマインの追跡でしょう?

私には教団の未来のために、単身行動された貴女を評価こそすれ、罪を問うなど出来ませんなぁ」


 そう言って、舌舐めずりしたひげが艶やかに濡れ、エラの張った頰の中をうごめく様子が目に入る。

 その髭をひと撫でした指が、女騎士のテーブルの上の手を捕らえた。


「私はそれよりも、貴女の今後に期待させて頂きたい。

─── あと数日で次期枢機卿の選定が決まるのです、今後は更に忙しくなるでしょう

貴女には是非、私と共に教団の未来を担って欲しいと、そう思っておるのですよ……」


(……この言い方、まるで自分が枢機卿になると決まっているかのような素振り。

このタガメのような男は、己を育ててくれたオウレン枢機卿に、何の感謝もないのか?)


「グレッグ司教がここにいたら、きっと私と共に教団の支えになろうとしてくれたのでしょうが……何とも寂しいものです。

貴女も同僚のセバスティアン第二師団長を失い、さぞ心苦しいでしょうから、ここは支え合って行こうではありませんか。

─── 私にお力をお貸しくだされば、きっとそれなりのお返しも出来ますぞ……?」


 言葉だけなら、グレッグ司教の事を偲んでいるようにこそ聞こえるものの、目のギラつきまでは隠し切れていない。

 ……いや、隠す気など無いのだろう。


─── これは『こちら側に付け』という懐柔に過ぎない


(何処までが、この男の策略だったのだ……?

うう、虫唾が走る……!)


 うなじの辺りを悪寒で粟立たせながらも、女騎士は顔色ひとつ変えずに、平静を保とうとしている。

 以前の彼女なら、経典の一節でも引っ張り出して、噛み付いていたであろう。

 しかし、彼女はアルフォンスに立てた、己の誓いを選んだ。


「─── 教団は揺れるのでしょう

しかし、我々はラミリア様の使徒として、精一杯暮らしていくのみ。

教団のためとあらば、私もこの身を惜しむ気はありません」


 そう言って立ち上がると、深く頭を下げて席を立った。

 その背後で微笑むデューイ司教の口から、小さな声が漏れた。


─── 小娘が……何が出来るというのだ




 ※ 




 そして彼女は今、怒りに目の前が真っ赤に染まった状態で、宮殿内を大股で歩いていた。


(どうしてあんな男が、次期枢機卿にまで上り詰められるのだ……ッ⁉︎

あんな俗にまみれた狸どもを相手に、私はこれからどう立ち回ると言うんだ!)


 剣はもう振るまい、これからは教団内部に風を吹き込んでい行くのだと、決心した矢先から女騎士は暗礁に乗り上げた思いだった。

 人気の少ない所まで歩き、徐ろに中庭へと飛び出すと、目を閉じて精神を思考へと集中させる。


(─── いいや……落ち着け私……ッ!

感情の鎮静は、鬼の集落で散々やってきただろう? 考えろ……どうすれば、この腐り切った屋台骨に食い込んで行けるか考えろ……!

考えろ、考えろ、考えろ、考りぇりょッ!)


「クソッ、噛んだッ‼︎」


 怒りに任せて、足元にあった石を蹴飛ばす。

 白銀の鉄履に弾かれた石は、小気味好い音を立て、芝生を散らしながら渡り廊下の方へと飛び上がる。


─── ぎゃ……っ


「はわわ……っ⁉︎ い、いかんッ‼︎」


 ちょうど渡り廊下を歩いていた人物の頭に、石が直撃し、短い悲鳴を上げて倒れた。

 女騎士はサーっと顔色を青くして、その倒れた者へと駆け寄った。


「すすす、済まない! 大丈夫か─── 」


「……ぐ、う、う〜ん……」


 長い銀髪を床に寝かせ、苦悶の表情で地に伏した男。

 白い布地に、深緑の刺繍が施された法衣、首からだらし無く投げ出された、光を模したペンダント。


「は、はわわ……⁉︎」


 女騎士が取り乱すのも仕方がない、この法衣に袖を通せるのは、司教職の人物のみ。

 そして、この長い銀髪と言えば、教団派のトップと目される若き旗手─── 、


「ヴァ、ヴァレリー司教ッ⁉︎ だだだ、大丈夫でありますかッ⁉︎」


「……うん……? ああ……ど、どうも〜」


 口元で力無く笑顔を作り、ヴァレリー司教が起き上がる。

 女騎士は貴族出身の極光星騎士団とは言え、教団内では司教の方が遥かに上、その上司をノックアウトしたとあれば大問題であった。

 しかし、ヴァレリーは気にした様子もなく、女騎士にニコリと笑い、法衣の埃を払っている。


「ははは、ご心配なく、大したことはありませんよ。ははは」


「ヴァレリー司教……それはです。私はこちらに……」


「おっと、これは失礼を、ははは」


 朗らかに笑いかけてくるヴァレリー司教の額から、鮮血が流れ落ちるのを見て、女騎士は体温が数度下がった気がした。


「─── ッ⁉︎ し、失礼、ちょっと動かぬようにお願いしますッ!」


「……?」


─── 【癒光ラヒゥ】!


 女騎士の回復魔術が、淡い光を発して、ヴァレリーの傷口を塞ぐ。

 それをヴァレリーは、楽しそうにされるがままにしている。


「この魔力は……いやいや、流石のお手前ですね。ラブリン第四師団長殿♪」


「すすす、すみません! 他に痛む所はありませんか⁉︎ あわわ、法衣に血が……!」


「ははは、お気遣いなく。この法衣も、私の血も、ラミリア様の恩恵によるものですからね」 

 

「だから、それはですヴァレリー司教……(当たりどころが悪かったのかしら?)」


 ヴァレリーは『やっちゃった』と言う表情で笑うと、女騎士に向き直る。

 細くやや垂れ気味な、攻撃性のかけらもないブルーグレーの眼に、スッと鼻筋の通った端整な色白の優男。


 教皇ヴィゴールに拾われ、その養子となった後に、細やかな布教活動と人心掌握でのし上がった、天才肌のエリートである。

 その才智はズバ抜けていると言われるものの、普段はぼんやりとしたその性格から『たんぽぽ卿』と呼ばれている。


「私の蹴った石が当たってしまったの……です。

申し開きのしようがない……」


「いやいや、全ては神の思召し、無駄な事などありませんよ。

─── お陰でこうして貴女とお話しする機会が得られましたしね」


「わ、私になにか……ご用でも……?」


 ついさっき、デューイ司教に感じた嫌悪感が、咄嗟とっさに女騎士を構えさせる。

 その仕草にヴァレリーは不思議そうな顔をして、すぐに笑顔に戻った。


「あー、不躾ぶしつけな事かも知れませんが、貴女を心配していたのです。

行方知れずとお聞きしましたし……。それに、今、教団上層部が揺れていますからね……。

せっかくお戻りになられたのに、色々とご不安ではないかと」


「わ、私の事はご心配いりません。丈夫だけが取り柄ですから。

揺れ…………とは、オウレン枢機卿猊下の事ですね?

なんとも猊下らしからぬ失態だと、内心驚いています」


「─── オウレン猊下は、最近何やら焦っておられたご様子でしたからね……。

この騒動で一番利を得た者が誰か……は、考えるまでもありませんが」


「そ、それを私のような下っ端の前で、貴方が口にするのはいかがなものか……⁉︎」


 思わず尻込みする女騎士に、ヴァレリーはカラカラと笑う。


「ははは、こらくらいの事、この宮殿にある者なら、皆がそう思う事でしょう。

残念ながら、教団内での身の振り方に焦る者はいても、信仰のために焦るものは少ないのです。

…………いえ、そもそも信仰は信ずるもので、焦るものでもありませんけどね」


「─── !」


 その言葉は、今しがた途方に暮れかけていた女騎士にとって、目の覚めるものであった。


「しかし……私は信仰の鑑たる、高位聖職者の腐敗は……どうにも」


「許せないですか?

それも良いと思いますよ、そして、許さなくてもよいのです」


「でも、それでは……何も変えられない」


 そう言って俯く女騎士に、ヴァレリーは微笑んで、変わらぬ柔らかな口調で答える。


「相手を変えようと言うのは、それは貴女の思い通りに、と言う事になります。

そこに憤りがあるのは、貴女がそれだけ信仰に真摯だと言う事でしょう。

─── しかし、全ては人の成す事、想いは必ずしも一致する事はありません」


「それを許せ……と?」


「いいえ、許さなくてよいのです。どうせ変えられぬなら、そう言うものだとして、心を割く必要を持たなければいい。

理解は出来ても、寄り添えない者と言うものは、必ずありますからね。

─── そうして貴女は貴女のやるべき事を、こつこつと確実にこなせば、よいのではないですか?」


「……足を引く者、邪魔をする者も、あるのです……。それにやるべき事が、今の私には分からない」


 具体的に何をすればいいのか、自分がどうしたいのか、女騎士には見えていない。

 その浅さが、憤りの元にもなっているのだろう、彼女はそんな自分にも無力感を抱いていた。


「足を引かれても、邪魔をされても痛まない、簡単なものから探してみては如何でしょう?

貴女には闘う力がある、きっと小さくとも動き出せば、どうするべきか直ぐに見えるようになるでしょう。

─── 剣の道と似ているとは思いませんか?」


「─── ッ‼︎」


 ごう……と風が吹いたように、女騎士は感じていた。

 今までただ闇雲に、剣を振りかざして来た彼女にとって、その言葉の重さはどの剣よりも重く確かなものに聞こえた。


「─── で、出来るでしょうか……私に」


「ラミリア様の光は、いつも貴女と共に。

聖光伝、第三章五節『己を認めなさい』とは、今の貴女にこそ必要なお言葉かと思います」


 もう何度も見聞きした聖光伝の書、その経典の一節が、今までより遥かに近い言葉に聞こえた気がした。

 これが生きた知識になる瞬間なのだと、彼女は感動すら覚えていた。


─── 私の進むべき道に、光はあったのだ


 気がつけば、ずいぶんとこの男に弱音を吐いていた気がする。

 以前の自分であれば、それすらも考えられぬ事だったと、彼女は自分の変化に驚いていた。


「……ヴァレリー司教、貴方にとって、理想の教団とは何ですか?」


「ふーむ、難しい質問ですね、私の理想は教団の外にありますから。

強いて言えば……経典への回帰、まだ我々はその教えを理解しきれていません。

いや、きっと時代と共に、経典の聞こえ方は変わるもの。だからこそ、向き合っていける団体で無くてはならない。

─── 教団内の結束や、清廉さはその後から付いてくるもの……でしょうね」


 立て直すのなら、その存在意義を高めろと言う事か─── 。


 目の前の男は、一見『たんぽぽ卿』などと揶揄される、ふわふわとした空気そのもの。

 しかし、その実、真理を見抜いて、確固たる信念の元に動いている。


(たんぽぽか……大した事のない例えのようだが、たんぽぽは根強い、まさにこの男の事だな)


「おっと、偉そうに長々と……すみません、予定がありますので私はこの辺で─── 」


「……あ! ヴァレリー司教、そこにバケツが⁉︎」


─── がぽっ ッ⁉︎ うおっ?


 踵を返した先に置かれていたバケツに、物の見事にヴァレリーの足がはまり、長い銀髪を後光の如く煌めかせながら地面に叩きつけられた。


 脇腹を打つ『ドフゥン』という、こもった音が中庭の空間に響く。


「あわわ……し、司教! だだだ、大丈夫ですか⁉︎」


「ゲフォッ! ……ふふ、な、何のこれしき。

全ては、ラミリア様の思召し……ぐぅ」


「ひ、白目剥いた⁉︎ ああ、台無しです、台無しですよ司教───ッ‼︎ 」


 凄いけど、面倒くさい人だなと、女騎士はそう思った─── 。

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