第五話 しつこい臭み

 雲の切れ間の向こうから、主神マールダーの指し示した指先の光に導かれ、空を埋め尽くさんばかりの天使達が地へと降りて行く。

 指し示された大地には、金髪に青い瞳の人々が、怯え逃げ惑う姿があった─── 。


 ふと目覚めると、今まさに天使が迫り来るようなその天井画に心奪われ、しばらくそうして眺めていた。

 天井画の枠はフィンベルト様式特有の、有機的な曲線に囲まれていて、まるで貝の底から天を見上げているようにも感じられる。


 ささやかな風が、頰を冷たく撫でるのに気がつき、窓際に目をやる。

 テラスへと続く扉が、少しだけ開いているのか、カーテンが微かに揺れていた。


─── そこでようやく寝ぼけた俺の頭は、ツェペアトロフ家の一室で、寝ていた事を思い出した


 ようやく醒めた頭を持ち上げて、部屋の中を見渡せば、ソフィアとティフォの寝息がさざ波のように聞こえていた。

 メルキアの夜はひどく静かで、耳の奥がざわざわと、己の体内の音を拾ってしまう。

 だからこそ、彼女達の寝息が心地よく、安心させる効果があった。


 ……ただ、同時にその変化にも気がついた。


─── スタルジャの姿がない


 めくれ上がった毛布が、寝ていた形そのままで、寝具から出て間もないのだと分かる。


 白いレースカーテンの向こうには、窓ガラス越しに、月のシルエットがくっきりと浮かんでいた。

 何となく、その光に誘われて起き上がり、扉を静かに開けてテラスへと出てみる事にした。


 ティフォと一緒に寝ていたベヒーモスだけが、頭を上げてこちらを見たが、大きな欠伸をひとつ、またティフォの傍に頭を埋めた。

 そのなんて事のない仕草で、これが夢ではないと、ぼんやり思う。


 テラスから見下ろすレジェレヴィアの街は、すでに眠りについていて、遠くの門と通りに篝火かがりびが揺れている他は、街灯の弱々しい光が点々と続いているだけ。

 日中はずっと曇天だったのが、今は嘘のように藍色の空が広がっているものの、かえって樹々の緑を暗い色に変えて物寂しくさせている。

 少しだけ掛かった霧が、それらの輪郭を滲ませて、幻想的な雰囲気を作り出していた。


「─── あれ……アル? 眠れないの……?」


「いや、何となく起きただけだ。スタルジャは、寝てなかったのか」


「…………うん、ちょっと考え事をね……」


 そう言って見せた笑顔は、藍色の夜空を背に月明かりに照らされて、そこはかとなく寂しそうに思えた。

 俺はスタルジャの隣に立ち、彼女と同じようにテラスの柵に腕を乗せて、街を見下ろしてみる。

 遠く南に俺達の越えてきた、シリルとの境の山脈が、黒いシルエットをのぞかせていた。


「─── 月が綺麗だな……」


「……うん、少しぼやけて見えるけど、やっぱり綺麗だね……月はどこで見ても」


 そう言って彼女は、ショールの間から手を出して、耳に髪をかきあげた。

 緑掛かった明るいブラウンの髪が、月明かりに照らされて、金色に見えていた。

 そのわずかな違いが、いつもより儚く感じさせているようにも思える。


「体の調子は大丈夫か? あれだけの変化があったんだ、精神だって疲れただろ」


 くしゃみひとつでミィルが飛び出し、スタルジャのダークエルフ化があっけなく解けた。

 しかし、本人はその後しばらく、ぼんやりとしている様子が見られた。


 本人は大丈夫だと言い張っていたが、どこか顔色も悪く、何かを隠しているような気がしてもいた。


「精神……うん、大丈夫……。

─── いや、私……。ううん、何でもない」


 彼女は戸惑うように呟いて下唇を噛み、涙を堪えるような顔で、手すりの下の足元を見ている。


 ダーフエルフは、エルフの純粋な精神が闇に染まった時に堕ちると言われているが、その根本にあるのは恨みや心の傷だ。

 堕ちたエルフ達はその後、どうなったのかは聞いた事がないし、ダークエルフ化自体が極稀なケースだと聞いている。


 スタルジャの場合は俺の影響を受けたミィルを媒体として変化したものだろう。

 ダークエルフ化した経緯も特異なら、その戻り方もまた異なものである事は間違いない。


 どんな思いが鍵となったかは、察しがつくものの、本人が口をつぐむ以上、今は掘り下げる気にはなれなかった。


─── ス……ッ


 スタルジャから離れて後ろに下がった。

 彼女は俺が遠ざかった瞬間、うつむいたままこちらは見ずに、哀しむような安堵するような表情で目を閉じた。

 しばらくの間を置いて、そのまま去らない俺を不思議そうな表情で、うつむいていた顔を見上げる。


「─── えっ……アル……?」


「ほら、パートナーが受け入れる姿勢で迎えたら、一歩踏み出して手を取るんだろ?

いつだったか約束したじゃないか『またダンスを教えて欲しい』ってさ」


 呆気に取られて見開いた目が、小さく震えて涙が滲み、彼女はそれを隠すように深く瞬きをした後、微笑みを浮かべて手を差し出した。

 横から差し込む月の光が、彼女の表情を隠して、輝く髪と微かに歪む微笑みの口元だけが伺える。


─── それでいい

全てが出し合えなくても、あるがままでいられるように、支え合う気持ちがあるなら……


 スッと前に一歩出て、彼女を迎え手を取り、背中を支えるようにホールドする。

 気持ち、いつもより抱き上げ気味に、動きはゆっくりと誘うように。

 小さく囁いてカウントを取りながら、テラスでふたり、風ひとつない静寂の中を裸足で踊る。


「いち、にい、さん……しい。

─── 上手いじゃないかスタルジャ……」


「ふふふ……だめ、まだ話す余裕ない」


 そう言って、言葉を発して小さく吹き出した瞬間、彼女が出足を間違えるのを、こちらの体重移動でカバーする。

 逆にテンポを見失った戸惑いと、崩れたバランスを大きなポージングに変え、すぐに元のステップに戻した。


「はぁ……またアルに助けられちゃった」


「いや、スタルジャの足腰がしっかりしてるから、こっちも動けたんだ。

まだ始めたばかりだろ、お互いこうやって楽しんでるうちに、支え合い方を見つけていけばいい」


 もちろん音楽なんて無いけど、何となくテンポに合わせて体を動かす内に、息が弾んで笑い合える瞬間も出て来た。

 そうして彼女の表情にも、弾むような明るさが見えるようにらなった頃、テンポを落として静かに身を寄せ合った。


「……ごめんね、アル。今は自分に起きた事を、上手く説明出来そうになくて……。でも、いつかちゃんと話すね」


「ん、分かった、待ってる。ただ、それまでに元気が無くなる事があったら、俺の見える所で落ち込んでくれ。何度でも出来る限り、支えるつもりだから」


 ゆっくり揺れるように動いていた彼女がピタリと止まり、肩を震わせてくすくす笑った。


「へへへ……近くで悩んでもいいんだぁ。あ、でもちょっとSっぽくない? 俺の前で凹めって……くすくす」


「恋愛弱者だからな、苦手なんだよ、察して動くとか。ハラハラしそうだしな……。

ロマンが無いかもしれないけど、逆の立場でも察して動かれるより、ちゃんと確かめ合ってから進んでいきたい」


 思わず自分の弱点を晒してしまったけど、彼女になら構わないし、今は少しでも気楽になってくれたら良い。


 俺の顔を見上げて、今度は月の光をしっかりと受けた彼女は、咲き誇るように微笑んでいる。

 そうして笑い合った後、彼女は俺の胸に額をつけ、小さく『うん』と呟いた─── 。


 少し霧掛かった月の夜は、世界の輪郭を少しだけぼやかせて、優しい光に包まれているようにも思えた。




 ※ ※ ※




─── 数日後の朝


 屋敷を去ろうとする度に、フロレンス卿が寂しがって止めるので、結局しばらくご厄介になってしまった。

 連日、この国の名物料理と、年代物のケルブォグをご馳走になり、お土産までたんまりもらってしまった。


 それでも、今日はいよいよ旅に戻る日となった。


 シモンの消息が確かである事、幸せにやっている事を知り、両親はもちろん家中の者達にとってはこれ以上無い朗報となったようだ。


 プリシラはあれ以降、俺達の前に顔を出す事は無かったが、屋敷を出る時には窓辺で小さく会釈をしていた。

 プリシラを何度となく文字通り蒸発させてしまった手前、ご両親には後ろめたさがあったが、ふたりとも『人生経験人生経験』と気楽に流していたのには戸惑った。


 まあ、とにかく歓迎を受けた数日間だったのは間違いない。


─── フロレンスおぢさんが、何故か俺と風呂に入りたがるのは閉口したが……


 もちろん俺の貞操の危機がどうこうではなく、息子同然の扱いをしようとしてくれた結果らしい。

 実際、背中を流し合った時は、何か感慨深いものもあったから、俺自身も父親みたいな人に会えて嬉しくもある。


 やっぱりここでもティフォは孫みたいに愛でられて、何かしらお菓子をもらったり、撫で回されていたようだ。

 ソフィアとスタルジャも夫人にすこぶる気に入られたようで、芝居に連れて行ってもらったりしていたくらいだった。


─── そんなこんなで数日、シモンの実家で羽を伸ばしていた


 おぢさん達はもっといて欲しかったみたいだが、俺達には俺達の旅がある。

 すっかり打ち解けた所で、お別れする事にした。


 俺達が街を出る時には、おぢさんのはからいで、北門の近くの人の住む区画へと馬車で送ってもらった。

 石のフンコロガシが点在している黒札民の区画を通り過ぎ、空を舞う馬車はひとっ飛びで、北門へと抜ける大通りに到着。

 貴族真祖の登場に、人々はざわめいた。


「いやあ、最初は勘違いして『息子よ』なんて言ってしまったけど、本当に息子が帰って来たみたいで楽しかったよ!

もういっその事、うちの息子にならないかなぁ、アルフォンス君」


「ホホホ、ダメよアナタ。シモンもプリシラも焼きもちを焼いてしまうわ、こんな立派な子が息子になったら。

─── 義理の息子……になるって方法もあるのだけれど」


 ツェペアトロフ夫妻の、妙に歯切れの良い高笑いが通りに響いた。

 終始マイペースで、どこまで冗談なのか、分かりにくい人達だ……。


 出発の日を告げた時なんか、おぢさんの子供顔負けな地団駄を見られたし、ここまでカラカラ笑っているのをみると、何か裏があるのではと勘ぐってしまう。


「いやぁ、しかし本当に楽しい日々だったよ。

旅の帰りには是非ともまたよって欲しいな」


 そう言っておぢさんは俺の両肩に触れ、うんうんとうなずいて目を細めていた。

 凄くフランクなんだけど、やっぱり高位のヴァンパイアだけあって、浮世離れした美しさがある。


「……と、そうだった。ここからキュルキセル地方に向かうのなら、ローゼン平原を通る事になるだろうけど、もし困った事があったら私の名前を出しなさい」


「ローゼン平原……。ああ、奇岩の名所でしたね」


「んー、まあ平原は広いから、出くわす事もないだろうけどね、私達ヴァンパイアの祖先みたいな人が住んでるんだよ」


 流石はソフィア、S級冒険者として世界中を周ってただけあって、この辺の事も知っているみたいだ。

 どうもこの先の平原には、風変わりな土地があって、そこには古くから生きるヴァンパイアがいるらしい。


「どういうわけか、あの方だけは人間化をしないみたいでね。

人との関わりを嫌って、ひとり仙人のような暮らしをしているんだ」


「ひとりだけ、ずっとヴァンパイアとして生きてらっしゃるのですか……?」


「うん……。まあ、会う事は無いとは思うし、もし会ったら、私の友人だと言えばはしないとは思うんだけど……ね」


 何とも歯切れの悪い態度でモゴモゴしているおぢさんの横で、夫人まで不安そうな表情をしている。

 『変な事』てのが気にはなるが、まあ何とかなるだろう。

 平原は広いから、おぢさんの言うように出くわす事もまずないだろうし。


「あれ? どうしたんだティフォ」


「ん? んーん、なんでもない」


 ツェペアトロフ邸がある辺りだろうか、ティフォが遠く離れた高台の方角を見ていた。

 何でもないと言う割には、魔獣の多い森を警戒している時のような、鋭い気のようなものを醸し出していたのだが……。


 まあ、本人がそう言うのだから何でもないのだろう。

 もう一度、ツェペアトロフ夫妻と、使用人の人々に礼を言って俺たちはシモンの故郷レジェレヴィアを後にしたのだった。




 ※ 




─── チッ、何なのだあの小娘は!

……この距離から私の視線に気がつくとは、人間の魔力感知能力の域を超えておるぞ⁉︎


 整った顔の中央に、忌々しげにシワを寄せて、窓際の少女が舌打ちをした。

 ツェペアトロフ邸の最上階に位置するここから、レジェレヴィアの北門の様子を伺っていた彼女は、そこにいた赤髪の少女に睨みつけられて後退りしていた。


「おや、プリシラ様。お客様のお見送りはよろしかったのですか?」


 たまたま通りかかった使用人に声を掛けられて、プリシラは再び体をびくりとさせる。

 彼女は慌てて手に持っていた書簡を懐に隠し、若い使用人を睨みつけた。


「今、何かを見たか……?」


 その声には明らかな殺気が含まれていて、使用人はただただ震えながら首を振った。


「い、いいえ何も目にしておりません。お嬢様がそちらにおられたので声をお掛けしただけでございます……!

な、なにかございましたか?」


 プリシラは使用人の目の奥をしばらく凝視していたが、何かを悟ったのかため息混じりに首を振り、スゥと息を吸ってから怒鳴りつけた。


「お前には関係ない!」


「も、申し訳ございませんでした……」


 忌々しげにため息をつき、窓際の令嬢はその美しさにそぐわぬ呪詛じゅそを吐きつつ、その場を足早に去って行った。

 その場に残された使用人は、小さく小首を傾げて、何故自分が怒鳴られたのか疑問に思ったが、移り気な彼女の事だからと思い直し仕事に戻った。


 赤い絨毯の敷かれた長い渡り廊下を歩きながら、プリシラは懐の書簡に手を触れていた。


 彼女の瞳の色に合った、深い海の底のような高貴な青のドレスが、赤い床の色に強調され、海底にきらめく光のように揺れている。


「……これでようやく、悲願が達成できる。ようやく、解放される……。

─── 、もう少しだけお待ち下さい

プリシラはの元へ向かいます」


 一粒だけ流れた涙が、赤い絨毯に一点染みを作り出したが、その跡に気がつく者はないだろう。

 やがて彼女の姿は音も無く消え、屋敷は静寂に包まれていった。


 彼女はその後、二度とツェペアトロフ家に戻る事は無かった ─── 。




 ※ ※ ※




─── ローゼン平原、太古の昔、氷河に削り出された石柱が点在する『奇岩平きがんだいら』とも呼ばれる、貴重な地質学的遺産


「とか言われて、メルキアの名所のひとつに数えられてますけどね。

……実際はだだっ広い岩盤の平野で、人はおろか生物が暮らすのに厳し過ぎて、なぁんもない所なんですよ」


 冒険者として世界を股にかけていた頃、ソフィアはここも一度訪れた事があるらしい。

 どうにも面倒くさい依頼だったとかで、目の前の風景を怠そうな表情で眺めながら、気の抜けた声で説明してくれた。


─── だが、俺はそれどころじゃない


 丁度、人程の高さのある石柱が、見渡す限りの平原にボコボコ立っている。

 何故かその石柱の上には、直径がその何倍もある丸っこい岩が、絶妙なバランスで乗っていた。

 人の手で乗せるのは至難の業としか言いようのない、自然が作り出した奇妙なモニュメントの群像が、視界を埋め尽くしている。


「なになに、何これ! 何で落ちないの⁉︎」


 スタルジャが早口でまくし立てながら、奇岩の方へと走り出した。

 ものすっごくはしゃぎたい時に、誰かに先を越されると、人は何故がこう言うものだ。


「あ! ズルイぞスタルジャ! おーれーもー」


 俺も駆け出すと、スタルジャは悪戯っぽい表情で振り返り、精霊術を使って加速し出した。

 負けてられるかと、肉体強化の魔術を掛けて、俺も奇岩の立ち並ぶ中へと突っ走る。


 遥か後ろの方でソフィアの『ダメですよ』みたいな声が聞こえたが、構うもんか。

 本当はソフィアだってはしゃぎたいのを、大人ぶってるに決まってるんだい!


 走りながらべえと舌でも出そうかと思っていたら、急にスタルジャが足を止めて、石柱の上の丸い岩を注視した。


─── …………ズ……ズズ……ゴゴゴ……


「……え? 岩が動いてる……?」


 小さな地響きを立てて、石柱の上の岩がゆっくりと回り出していた。

 よく見れば俺達の周りにある、おびただしい数の石柱全てにその異変が起こっていた。


 さっきまでの楽しそうな風景が、一気に恐ろしげな物に思えてしまった。

 はしゃぎまくってた分、突然始まった異変に恐怖心が煽られる。


─── ……コォォォォー


 岩の回転が加速して、嫌に甲高い音を立て、辺りはその不気味な反響に包まれて耳鳴りがした。

 と、そこでようやく近づいて来たソフィアの声が耳に入った。


─── それ、岩なんかじゃありませんよ! 早くそこから離れて!


 え? と間抜けな声を上げる間も無く、視界が急に暗くなった。

 回転していた巨大な丸い物が、石柱の上を離れ、宙を舞って空を埋め尽くしていた。




 ※ ※ ※




 ジグの奴が血相変えて飛び込んで来た時は『ああ、またやつか』と思ったもんだ。

 牛舎の作業を止めると、確かに平原の方から地響きがわずかに感じられた。

 

 何年ぶりだったっけかな?

 なぁんも知らない観光か、通りすがりの旅人か、あそこの平原でよくおっ死ぬ。


「ほれ、オズノ。のんびりしとらんで、早よせんと死人が出るぞ!」

 

「わぁかってるって。んでも、不用意な奴が悪いんだ、自業自得だろってな」


「……阿呆、ここらで命を粗末にしたら、あのお人がどう出るか分かんねぇ。ぶっ殺されっかも知れねえんだ」


「はぁ〜、へいへい」


 一回見かけただけだけども、オレだってあの人がヤベェってのは分かる。

 けども『命を粗末にしたら、』ってのがどーにもおかしな話にしか思えねえんだよなぁ。

 牛の世話は残ってるけど、殺されちまったらそれこそ意味がねぇ、オレはジグと一緒に若い衆を連れて平原に急ぐ事にした。


 あの平原にあるけったいな岩、あのほとんどがだとは、それを知らなきゃ気がつかねえ。


─── それも、護衛付きの商隊ぐれぇじゃあ、数秒も保たねぇ厄介モンだ


 何度か冒険者ってのがズタズタにされるのも見て来たが、なんだって人間族ってのは、ここを通りたがるんだかな。

 力もタッパも上のオレたち鬼族だって、ひとりふたりじゃ歯が立たねぇってのによ。


「……ひでぇ臭いだな。こりゃもう腹わたブチまけてんじゃねぇのか?」


「─── いや、まだ抵抗してんなコリャ。硬えモンをぶっ叩く音がしてやがる。意外と頑張るな、冒険者って奴か武芸者か……。

おう、オメェら急げ! 網と縄用意して、三人一組に別れて掛かるぞ!」


「「「オウッ‼︎‼︎」」」


 石柱が邪魔で見えねえけども、結構奥の方で襲われてるのは分かる。

 ずいぶんと呑気な奴らだ、どうせ何も考えずに、物珍しさで入り込んだんだろ。

 ほれ見ろ、近づいただけで、もうオレらの方にも飛んで掛かって来やがった!


「二人で網引いて離れろ! 一人は囮だ、近づき過ぎんなよ、甲羅の端で真っ二つにされっからな!」


「掛かったぞ、引け引けぇ!」


「「「どっせぇぇぇいっ!」」」


 どっかの古い国の言葉で『エハクカトータス暴風神の亀』なんて大層な名前がついているが、何てこたぁねぇ。

 馬鹿でかい図体に、鋭い甲羅と爪で引き裂きながら突っ込んでくる、ただの厄介な魔獣だ。


 力自慢のオレら鬼族が、三人がかりで受け止めて、縄で縛り上げるぐらいでしかやりようがねえ。

 何より厄介なのは、その数だ。


─── ここにある石柱は数千とか言うが、そのほとんど全部にコイツが乗ってやがる


 コイツを知ってる奴ぁ、まずこの平原を抜けようなんざ、自殺でもない限り思わねえ。

 亀どもも頭ぁ働かねえから、すぐに飛びつくもんで、平原深くで襲われる事もない。

 だからこうして助けに来ても、大抵は入口でヒィコラしてるのを引きずり出してやるだけなんだが……。


「お、おい。中に入った馬鹿は、本当に人なんだろうな?

これ以上奥はオレたちだってヤベェぞ! 猪でも突っ込んでったんじゃねぇのか⁉︎」


「……そう信じてぇもんだが、よく聞け、ありゃあ太刀音だ。闘ってる馬鹿がいるんだよ、あれだけ深くに入っちまったら、今頃囲まれまくってるだろ……潮時か」


 皆が諦めて戻ろうかと顔を見合わせた時だった、かすかに若い女の声が聞こえた。


─── ……なら、一思いに……お腹を割いて楽に……


 ジグの野郎がピクリとして、声の方に駆け込んで行きやがった。

 いや、皆んなもそうだ、ありゃあ明らかにだろう。

 女子供を見捨てたとあっちゃあ『修羅の國』の鬼族の名折れよ。


 ここで深入りすりゃあ、オレ達もまとめて挽肉にされちまうかも知れねえが、それどころじゃねぇ。

 ただ、救いとすれば、妙に亀が静かにしてるって事だ。


「─── おい、アンタら大じょう……ぶ……」


 先頭を走ってたジグの声が引きつってやがる。

 どんな地獄が転がってやがるのか、ジグの野郎に何かあったのか、オレ達は息をするのも忘れて飛び込んで……言葉を失った。


「ん、ひっくりかえせば、甲羅が鍋がわりになって、らくしょー思ったら、ドブみたいな臭いしてきた」


「だから、亀の類は臭みが強いんですってばティフォちゃん。ちゃんとお腹側から割いて、臭み抜きしてからじゃないと」


「でも、無益な殺生はダメだよティフォ。ちゃんと食べてあげないと、亀さんかわいそうだよ?」


「ん、わかった。オニイチャ、たべて?」


「……お前ら少しは手伝えよ、後から後から飛んで来て面倒くせえんだよコイツら。

─── お? よう、あんたらも平原に興奮して入り込んだクチかい。

ははは、見ての通りここらは面倒くさい亀、うじゃうじゃいるから気をつけろよ?」


 ジグの奴が地べたに四つん這いになって、あんぐり口を開けてた。


「お、おいジグ、気を抜くな! ……あ、アンタらこんな所で何やってんだ!」


 思わず声を荒げると、ガラス細工みてぇな女と、エルフの女が不思議そうにこっちを見て首を傾げてやがる。

 と、その奥にしゃがんでた、赤い髪の年端もいかない人間の娘が眠そうな顔で答えた。


「ん、観光?」


「─── な、ちょ……えぇ?」


 オレは頭が回る方じゃねえから、あんまりに頓狂とんきょうな答えに、真っ白になっちまった。


「お、おいジグ、つんのめってねぇで何か言ってやれ!」


 尻を向けて四つん這いになってたジグが、なんとも言えねえ困り顔で振り向くと、立ち上がって成りを整えた。


「─── 亀は焼くもんじゃねぇ、まずは水から煮こぼして臭みをだな……」


「そっちじゃねぇ! そういう事じゃねえ!」


 駆けつけたオレ達の誰もが、もうまともに頭ぁ働いてなかったんじゃねぇだろうか。

 と、その奥で亀どもを次から次へと当然のように殴り落としてる黒い骸骨のバケモンが、寂しそうに言いやがった。


「……なんだ、アンタらも手伝わねえのかよ、いい加減、亀にげんなりしてんだ。ちょっとでいいんだ、助けてくれねえかなぁ」


 まさか飛んでくる亀を掴んで、円盤みてえに他の亀にぶち当てて落とすなんて方法があるとは、初めて知ったし……。

 骸骨って、額にシワが入ったり、悲しそうに眼の穴が三角になるもんだったんだなぁと、オレはすごく新鮮な気持ちになっていた。

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