幕間Ⅵ 【後編】遥かなる晩春

 森の中をひたすらに追いかける。


 脚は重く、ぬめるような空気の重圧の中、白いローブの背中を追いかける。

 無音の世界の中、突如、見えない壁に阻まれ、足止めを食らう。


 森の出口に立った白い背中が、くるりとこちらに振り返り、初めて出逢った時の可憐な笑顔を見せよった。

 背にした森の外の世界は、白い光に塗り尽くされ、見る事が出来ん。


 そこにいくつもの人影が、光の向こうから現れるのが見えた。

 ドワーフの男、人間の家族、獣人の子供にエルフの老婆……。


─── そのどれもが、かつて先に逝ってしまった者達じゃと、懐かしさと共に背筋が凍りついた


 彼らは森の入口に立ち止まり、ニコニコとこちらを見ている。

 そして、白いローブは彼らの方へと踏み出し、その輪に入ると再びこちらへ微笑みかけた。


 『』その声が出ない。

 『』その声も虚しく喉でかすれて消えた。

 その姿が薄れて、ただの暗い森の中へと、景色は戻ってしまった。

 愛する人の姿は、もうそこには無かった……。


「─── セラフィナッ‼︎」


 突き出した手の先に、岩肌の天井がある。

 朝の白い光が、洞の中を柔らかく映し出していた。


「はい、ここにおりますよ。お目覚めですねガイセリック」


 跳ね起きて声のした方を見れば、相変わらず仮面をつけたままの、セラフィナが何かを煎じているところだった。


(……悪い夢じゃったか……)


 良かった、そう思ってセラフィナを見ると、薄ぼんやりと彼女の姿が光ったように見えた。


「何じゃ、今お前さんが光ったような……。

─── いや、それは何じゃ? 妙ちきりんな臭いがしておるが……」


「……クラウベ草の根。魔力の巡りを良くする働きがあるのです。

近くに生えていたので、煮出してみようかと」


「歩き回って大丈夫なんか?」


 問い掛けると、ピクリと体を動かして、こちらに体を向ける。

 仮面で顔は見えんが、首のシワ、丸まった小さな背、せさらばえた腕……セラフィナに起きた変貌は夢では無かったのかと胸が痛む。


「─── ええ、貴方のおかげですガイセリック」


 表情は分からんが、ただ崖で呻くように死を願ったあの仄暗い音は、薄れていたように思う。

 そのままぼんやりと見ていたら、魔術で創り出したのか、石で出来た歪な器を寄越した。


「出来ました。さあ、温かい内に」


「お、おお、済まんの。……ずずっ……ウゲッ」


 何と例えればよいのか、あれじゃ、草の根っこに生ゴミの臭いと、酸っぱいリンゴの汁を混ぜたような……。

 時折えづきながら飲み干すと、なるほど体がポカポカして、魔力が循環するのが分かる。

 そうして腹が温まると、ようやく頭も冴えてきおった。


「─── これからどうするつもりじゃ」


「………………分かりません」


 そう力無く首を振って答えた。

 どうやらショックな事がいくつも押し寄せて、何も考えられないまま、気がついたら歩き続けておったらしい。

 放浪の旅はよくしたもんじゃが、その気持ちは少しだけ分かる気がした。


─── 自死すら出来ぬ心の衰弱は、時にここではない何処かへと、闇雲に歩かせる事がある


 そもそも守護神ともなれば、自ら死を選ぶ事は許されん。

 事故か、忘れ去られた時に死ぬるだけ。


 コイツはそんな所まで追い詰められていたのかと、目の前が暗くなる程に、動揺している自分に気がついた。

 ぽつりぽつりとここに至るまでの事を、セラフィナは話してくれたが、どれもどうしようもない事でしかなく思えた。


「儂の所に来るか? ドワーフばかりじゃが、気の良い奴らじゃて、お前さんも─── 」


「この地を去ろうと思います。

この地には余りに多くの思い出があり過ぎて……。

─── それに、私を信じてくださった人々に顔向けができませんから……」


 それもそうか……信心を取り戻すにも、此奴の心は純潔に過ぎる。

 力を失った今は多少の嘘、見せかけでも装えば、人の心は掴めるじゃろうが、此奴はそれを良しとはせん。


「分かった。

─── ならば、お前さんの居場所が見つかるまで、儂がついて行ってやる」


「…………い、いけません! 貴方はドワーフ族の頭領で守護神なのです、私の事など……!」


「……お前さん、長旅をするのに、必要な物は何か分かっとるんか?」


「えっ!? ……い、いいえ」


「お前さん、金を持っておるのか? いや、そもそも金を払って何か買った事はあるんか?」


「…………いいえ。き、聞いた事はあります」


「詐欺師と言う職業は知っておるか?」


「と、鳥を飼う方です……よね?」


「そりゃサギじゃぁ……。サギ飼って何するっちゅうんじゃぁ……」


「「………………」」


 こりゃあ、イカン……。

 元々、精霊族で平和脳な此奴に、切った張ったの人間界隈を、まともに歩けるとは思えん。

 ほれ見い、仮面着けてても、ずこーんと落ち込んでるのがバレバレじゃて。

 こんな分かりやすい女を、ひとり旅なんぞさせてられるか!


「─── ええい! いいからお前さんは、ちょっくらここで待っておれ!」


「あっ、どこへ行くのです? まだ寝てないと危険ですよ⁉︎」


「元より魔力になんぞ頼っておらんわ、とにかくお前さんはここで指でもくわえてまっておるんじゃぞ、いいな!」


「─── 指……ですか。 パクッ」


 字義じぎ通り過ぎんじゃろがッ‼︎

 突っ込むヒマすら惜しゅうて、儂はほらの外へ駆け出した。



─── 数刻後



「いよぉしッ! 待たせたのう!」


「……はら、おはえひなふぁい」


「指はもうエエ……それよりまず何処へ向かうかじゃ」


 小首を傾げて、指を口から出したが、あの仮面一体どうなっとるんじゃ?

 それに酷く不安そうに見える。


「ど、どうした? やっぱり旅は不安か……?」


「ゆ、指がシワシワに……更に老いが進んでいるのですね……うぅ」


「─── ふ、ふやけただけじゃあッ!」


「それに……さっきから、お腹が変なのです。魔力を失って病魔に侵されたのでしょうか……」


「は、腹が痛むのか? 確かこっちの袋に薬が……」


「さっきから変な音がして、鈍痛があるのです」



─── グギュ〜グルルル……




「─── それが『』って事じゃぞ」


「まあ! これがですか……初めてです!」


 初めての経験でビックリ☆ ……みたいな空気がグイグイ来とるな。

 ああ、コイツ、本当にひとりにしといたらダメなヤツじゃあ……。


「まずは食事からじゃな、ちと待っておれ」


「あ、はい。あの……私もお手伝いしますから、教えて下さい……」


「んじゃあ、簡単な事から進めて行こうかの」


 そうして、儂とトンチンカンな精霊神との、長旅が始まる事になったのじゃった。




 ※ ※ ※




─── 数ヶ月後


「ほれ、こっちは出来たぞ。今日はますとキノコのシチューじゃ。美味そうじゃろ、わははは‼︎」


「まあ、美味しそうですね♪ こちらも平パンが焼けたところです。お食事にしましょう」


 いくつかの人里を訪れ、儂らは南に向かって旅をしておった。

 未だセラフィナの奴は、人間を眼にするのが辛いようで、野宿が中心じゃった。

 儂も元々、旅には慣れておるし、人間と関わると厄介ごとが多いからいいが……。


 人里と森の中とで、此奴のテンションが全く違うのは、気掛かりのままじゃ。


 楽しい事があった時、仮面の下で笑っているのが、最近分かるようになって来た。

 特に食事時は、楽しそうにしている事が多い。


「うむ、魚はだいぶ慣れて来たみたいじゃな。わははは‼︎」


「はい。貴方のお陰ですガイセリック。命を頂くと言うのは、素敵な事なのですね」


 精霊に近い儂らは、べつに食事をせんでも生きては行ける。

 ただ、体を動かす事の多い旅じゃと、やっぱり食い物を入れんと、足腰の踏ん張りが利かないもんじゃ。


 最初、此奴は固形物は受け付けず、植物を柔らかく煮た物しか食べられんかった。

 精神的なものか、それとも不慣れなせいか、味覚もほとんど無かったようじゃった。


 旅立ちの時期が春まだ浅い時期で、食べられる植物は少なく、しばらくは山菜料理漬けの毎日。

 肉を食いたきゃ狩りでもすればええが、儂もセラフィナに合わせて、山菜ばかりを口にしておった。


─── じゃが、実は儂ったら、大の野菜嫌い……


 特に山菜はエグ味だの臭いだの、野菜に増して主張が強くて、儂にはハードな課題じゃった。

 しかし、儂だって伊達に長く紳士をしとるわけじゃあない、そこは涼しい顔で食って見せたわい。


 セラフィナの奴も落ち込んだままじゃったし、食生活のストレスで儂も沈みかけたが、無理矢理に笑い飛ばすようにしとった。

 そんな事で何とか乗り越えられたから、精神というのは不思議なものじゃて。


─── 以来、何かと笑い声を言葉の最後に織り交ぜて、セラフィナと話すよう心掛けて来た


 それにつられてか、少しずつ此奴も声が出るようになって来たから、良しとしよう。

 そうして、笑いが出るようになってからは、少しずつじゃが、此奴の動きにもハリが出て来おったし、 病は気からとか言うからのう。


 美味いもんを食って、幸せを感じられるようになれば元気も出るもんじゃ。

 食いもんの力は凄いもんじゃと、少し胸を撫で下ろせるようになった。


 此奴が本当の力を取り戻すのは、人々の心であって儂ではない、それが分かっておるから尚更、自分は無力じゃとも思う……。


 何にも出来んのが歯痒いが、いつか此奴が人々と暮らせるようになった時のために、儂に出来る事は何だってしてやりたい。

 そう思えるようになっておった─── 。




 ※ ※ ※




 旅に出るまで、私はガイセリックを誤解していたのかも知れません。


 初めてお会いした時、ぶっきら棒でガサツで、怖い方だと思っていました。

 でも、何かしらご近所のよしみで様子を見に来てくれて、本当は良い人なのかも知れないと思うようにはなっていたのです。


 何度も顔を合わせるうちに、彼が実は饒舌な人だと分かって、いつしか笑い合えるように。


 時折、私の事を『べっぴんさん』だとか『嫁に来い』だとか、そう言う冗談を言うのはやっぱり苦手でしたが……。

 殿方とまともにお話しした事がない私には、彼との距離感が分からず、どちらかと言えば苦手だったのかも知れません。


 『崇められる身ならばそれなりの体面は必要だ』なんて、人間達が私の神殿を建てて下さった時、彼はそう言って止めるのも聞かずに色々こさえてくれました。


─── 出来上がったのを見た時は、物を作り上げる事の素晴らしさに、心底感動したものです


 あまりに嬉しくて、胸の高鳴りが治らず、何故か彼を見る度に苦しくなった程でした。

 それでまた少し苦手になってしまって、冷たくしてしまった事もありましたが、彼はいつも変わらず私の様子を見に来て下さったのです。


─── あの時も彼が私の神殿に訪れて、異変に気がついてくれなければ、私は今頃この世に居なかったでしょう


 彼が身を呈してまで、崖から私を救って下さった時、嬉しくて申し訳なくて哀しくて……。

 でも、混乱の最中にあった私は、情けなくもその感謝の気持ちを、素直に言葉に出来ませんでした……。

 『どうして死なせてくれなかった』などと、助けていただいた彼には、どれ程身勝手で愚かな言葉に聞こえたでしょうか。


 そんなどうしようもない私に、彼は旅を通じて本当にたくさんの事を教えてくれました。


 ご飯が美味しくて幸せな事、笑いが魂に力を与えてくれる事、寒い夜の暖かい過ごし方、自然の中に暮らす人々の知恵……。

 それは神殿の中では知り得ない、生きている事の素晴らしさでもあったのです。


「うむ、魚はだいぶ慣れて来たみたいじゃな。わははは‼︎」


「ふふふ、貴方のお陰ですガイセリック。命を頂くと言うのは、素敵な事なのですね」


─── それに貴方だって、お野菜を美味しそうに食べられるようになりましたね


 彼が無理をして私と同じ物を食べてくれているのは、初めから分かっていました。

 だって、小さく『ゥオェッ』ってよくえずいて、涙目になっておりましたもの……。


 最初はそこまでしてくれる彼の好意を、どうすれば良いのか、分からずにいました。


 何度か好きな物を食べて欲しいとお願いしましたけど、彼は『同じ物を一緒に食う方が美味いに決まってる』と断固として応じませんでした。

 でも、段々と楽しそうに食べるようになって、私まで食事が楽しくなって来た時、彼の言葉が本当だったのだと心から理解できました。


 彼は何の恩返しも出来ない、無力な私に合わせて、のんびり辛抱強く隣に居てくれる……。

 だから私も彼の好きな物を、たくさん好きになりたいと思うようになってしまいました。


─── それに気がついた時、私の魔力が日を追う毎に回復して行った


 『精霊神は人の想いで、そこに在る』

 そう昔から言われていますが、その想いとは決して人の数ではなく、精霊神と人とがお互いに『在って欲しい』と想い合う事が肝要なのですね。


 彼が私を守って下さる時、いつもその想いの力が私に流れ込んで来ました。

 そして、そんな彼を私が強く想った時、何故か私の中の力が膨れ上がる。


 その感謝を彼に伝えるのは、何故か恥ずかしくて怖くて……言えない自分が情けないと思ってしまって胸が痛い……。


 この想いは一体何なのでしょうか?

 恩人である彼に、生きる力をくれた彼に、私は何故……彼にいて欲しいと伝える事が怖いのか。


「─── おっと、そうじゃった。こんなもんを造ってみたんじゃ」


「へ? えっ、あ、はい……何でしょう⁉︎」


 変な事を考えていたからか、顔が焼ける程熱くなってしまいました。

 この時ばかりは、仮面に隠されていて、良かったと思います。


「指輪……ですか?」


「ああ、そうじゃ。それはのう、周囲のマナに働き掛けて、お前さんの魔力の回復を促す術式が入っておる。

─── これで人なんぞの関わりに怯えんでもいい、人里に入っても人を気にする必要はない」


「─── え……?」


「お前さんが、求められる存在であろうとする必要が無くなったって事じゃ」


「─── あ、ありがとうございます! 最近夜に何かしているとは思ってましたが……。

ああ、嬉しい……」


「ん、んん! ま、まあアレじゃ、これは魔除けにもなる御守りみたいなもんじゃて、どれ手を貸してみい」


 そう言って、彼は私の手を取ると、よく磨かれた銀の指輪を着けてくれました。

 ふと、どうして私の指のサイズが分かったのかと聞けば『そんなもん見れば分かる』と、顔を真っ赤にしてシチューをすする。


 指輪の効果が早速出て来たのでしょうか?


 彼に指輪を着けて頂いた手が、ジンジンとするような、そして体まで温かくなったような気がししてボーッとしてしまう……。

 それからは指輪を見る度に、私の魔力が少しずつ回復して行くのを感じるようになりました。




 ※ ※ ※




 あれからもう何度、春を迎えたじゃろうか。


 人は妙に一年という時間の単位を気にするが、穴ぐらで延々と仕事する儂らドワーフにとっては、完成までにかかった時間の目安くらいなもんじゃ。

 それでももう、人間の赤子が家族を作るくらいの時間を、旅して来たろうか。

 手頃な場所を見つけて、滞在してもみたが、どれもセラフィナの安住の地とは言い難かった。


 時に傷つき、再び弱り果てる此奴を、どうにかして幸せに過ごさせてやりたい。

 そう思っていはしたが、こうしてただ旅を続けるのも悪くはないと思うようになった。


「ガイセリック! 向こうに煙が見えますよ!

誰か住んでるみたいです♪」


 早く早くと弾むように進んでは、こっちに手招きをする。

 数年前から背筋も真っ直ぐに伸びて、老いさらばえた悲壮感は身を潜めた。


 ……相変わらず仮面は取れとらんから、実際のところ、どうかは分からんが。




 ※ ※ ※




─── 失敗でした……


 やはり人となど、私はもう関わってはいけないのですね。

 いいえ、最初から人に関わってはならない、疫病神だったのではないでしょうか……。

 誰かが住んでいると思い、たどった煙は生活の物ではなかった。


─── 積み上げられた遺体を燃やす魔術の炎


 疫病にほとんどの村人が果て、数人の生存者が、交代で炎の魔術をかけている。

 その虚ろな瞳に、彼らの大切な人であったであろう、人々の燃え盛る炎が映っていました。


 遠巻きに呆然と眺めていたら、ガイセリックは私の手を引き、立ち去ろうとします。

 その彼の行為で気がついてしまった……。


─── 村の片隅に、破壊し尽くされた、私を祀る祠がある事に……


 精霊を通して、私の脳裏にこの村の悲劇と、精霊信仰を捨てるまでの情景が流れ込んで来たのです。

 心の底から求める救済、血の涙を流して訴える家族、事切れた幼子、母の亡骸を抱き締める息子の姿……。

 そして爆発した感情は、応えぬ神に向けて、一気に放出された。


─── 朝の神などまやかしだ、癒神などペテンだ


 家族を、愛する者を返せと、怒りの矛先は破壊へと向けられる。


 誰かを助けて得られる心……?

 不幸が生む感謝など、本当に存在するものかと、私の信じた自然というものが音を立てて崩れ出す。




 ※ ※ ※




 夜道をただ歩いた。

 骸のように物言わず、虚ろに眼を開けているだけの、セラフィナを背負って。


 何をどうしたものか、とにかく人里から離れようと、無心で歩き続けるしかなかった。

 ひとつだけ救いがあるとすれば、月の明るい夜で、歩くのに事欠かなかったと言う事くらいじゃろうか……。


─── ここで……降ろして下さい……


 そう背中から消え入りそうな声が聞こえた時、軽くなってしもうたセラフィナの体が、余計に軽くなった気がした。


「─── 気がついたか。

今は降ろせん、もう少し先に行けば、休める所もあるじゃろう……」


「…………ありがとう。

ガイセリック、本当に貴方には感謝しています……。

生きる喜び、食べる楽しみ、作る感動、温かさへの感謝、望み望まれる事がどれだけ幸せか、貴方は教えてくれましたね……」


「ああ……これからもっと、いくらでも。お前さんの望む限り教えてやる。

お前さんのまだまだ知らない、幸せっちゅうもんを儂が与えてやる。だから……

─── その術を引っ込めんかセラフィナ」


 自分の魔力を分け与える術。

 儂に魔力を与えてどうする、今そんな事をすれば、此奴の存在は霧のように……。


「海は綺麗でしたね、魚も美味しかった。千星蘭の咲く丘は忘れられません。

いつだったか、村のお祭りで人の子と踊ったのは、胸が温かくなる想いでした」


「……やめんか」


「夏の沢で食べた瓜の心地よかったこと。秋の山で歩いた紅葉の吹雪には目を奪われました。冬の静けさは不思議と温かく感じて……」


「やめろと言っておるッ!」


「やっと分かったのです。それら全てが美しく見えたのは、いつも貴方がそばにいてくれたから。

貴方の優しさがあって、私がそれを欲して、満たされていたからだったのですね」


「─── セラフィナッ‼︎」


 思わず背中から降ろして、ひと周りもふた周り小さくなった肩を、両手で掴んだ。

 仮面の悲しげな眼からは、止めどなく涙が溢れて、冬の乾燥し切った土に音もなく吸い込まれていく。


─── その姿すら、目を凝らさねば見えぬ程に、薄れてしまっていた


 肩を掴む儂の手に、セラフィナはそっと手を重ね、小さく笑った。


「貴方がいてくれたから、私はただ存在する精霊神から、生きているセラフィナになれた。

……また春がやって来ますね、私と共に歩んでくれた旅の始まりも、春でした。

私と居れば、貴方まで不幸になってしまう。

─── ありがとうガイセリック、私の愛しい人……」


「馬鹿野郎ッ‼︎ 幸も不幸も、貴様が勝手に決めとるだけじゃッ!

生きとれば良い時もあれば悪い時もある、そんな物は長い生の点に過ぎん。

いくつかの点をあげつらって、不幸と思えば丸っと不幸になっちまう!

─── 儂は認めんぞ! 貴様の不幸など儂が笑い飛ばしてやるんじゃ! わははは‼︎ どうじゃ、お前も笑え! わははは‼︎」


「…………貴方のその笑い声にどれだけ救われた事でしょう。

本当に素敵な方……だから、貴方のその幸せにする力は、もっと相応しい真っ当な方へ……」


 儂に向かって祈るように合わせた手を、思わず両手で握り込んでいた。

 月明かりの下、ぼやけたセラフィナは、もう細部が見えなくなってしもうた。

 ……いや、儂の中の此奴の存在まで消えて行こうとしてやがる!


「真っ当な奴じゃと? お前以上に真っ当な女なんぞ存在せんわ!

さっきの人間どもの怒りが、お前を否定していると思ったら、とんだ勘違いじゃぞ!」


「…………かん……ちがい……?」


「ああそうじゃ、彼奴らが怒りをぶつけたのは、無力な自分達へなんじゃ!

何もしない神に向けてるようで、何も出来んかった自分を恨んだ、そうでなけりゃあ神に怒りをぶつけとる暇などなかったじゃろうに」


 そう、人の心は弱い。

 己の所為だと何処かで決めつけ、その責から逃れるために、感情を昂らせる。

 それが他人に向ければ逃れるになり、自分に向ければ自罰の逃れになる。


 結局は、原因と結果を受け止め、自分の中の恐れを見つけねば、ただ逃げた事と変わらん。


「疫病を作ったのはお前かセラフィナ! 病の治療を妨害したか! 出来る限りの努力をする者を嘲笑ったか!

─── 違う、お前は神に準ずる者。

加護を与える事は出来ても、直接人に手助けを施す事は禁じられとる。

その加護も、人の持つ運命の大きさに見合った力しか与えられんし、疫病と抗うに見合った者がおらんかっただけの事。……ただの摂理じゃ」


「…………自然の運命……もうそれに疲れてるしまったのです……私は」


「─── なら、逃げればええ。

運命が重いなら逃げたってええんじゃ」


「そ、それでは結局、私は消えて行くだけではありませんか……!

『精霊神は人の想いで、そこに在る』人の想いが無ければ生きられぬ運命なのですよ⁉︎」


 ああ、もう此奴は何て……何て……


─── 不器用な奴なんじゃ!


 思い切り抱き締めた。

 力を失って、骨と皮ばかりになった背中は、余りにも小さい。

 こんな背中に、世界の全てを癒す運命なんぞ、背負えるわけがない!


「儂を癒せセラフィナ! 儂はお前が居らんと、肉しか食えん!

風呂に入らん! 酒浸り! 喧嘩っぱやい!」


「……………………」


「口も悪い! その日暮らし! 尻切れとんぼ! それからえーと、若手をイビる!」


「…………ふっ」


「すぐ物をなくす! 声と態度ばかりデカイ!

嫌いな奴にはとことん鬼畜!

腹出して寝るクセに風ひくと神に祈る!」


「ふふ……ふ、あははは……。ダメダメではありませんか……。

そんな大変な方を、今の私は救えませんよ……」


「─── 全部、お前がいてくれたから、お前がこの世に在ってくれただけで、治ったもんばかりじゃ」


 月に掛かった雲が、セラフィナに影を落とした。

 その体が、薄ぼんやりと光っているように見える。


「それにな……それになぁ……」


「……………………」



─── 儂はずっとお前のそばに在って、お前に儂のそばにずっと在って欲しいと、一生想い続けてやれる……‼︎



 つむじ風がセラフィナを中心に渦巻いた。

 眩い光を発して、その体につむじ風は吸い込まれるように吹いている。

 辺りのマナを貪欲に掻き集め、セラフィナの魔力が膨れ上がっていた。



─── ……パキィィ……ン……



 マナの暴風が辺りの樹々を揺らし、空に風が唸り声を上げる中、足下に青白い欠片が飛び散って消えた。

 月に掛かっていた雲が吹き飛ばされ、月明かりがセラフィナを照らし出すと、暴風がピタリと治った。


「私は……よぼよぼです……よ?」


 森を背に照らし出されたセラフィナは、老婆では無く、人生を勤め上げ、ようやく自由を手にした頃合いの女性の姿となっていた。


「─── 儂はドワーフ、老け顔じゃい。

ピチピチのお前さんは別嬪べっぴんじゃが、ちと緊張するからのう。

ちょうどつり合うくらいじゃろ」


「ふふふ……そうやって、いつもからかうんですから……悪い人ね……」


 からかって何ぞおらんわ!

 その言葉の代わりに、セラフィナをもう一度抱き締めた。


 ……その背中には、確かな命のハリが戻っていた。




 ※ ※ ※




 後ろ手に隠した指輪を、セラフィナは再び顔の前に掲げて、眩しげに見つめるて微笑んだ。

 照れ隠しに樹を見上げていたガイセリックは、そんなセラフィナの表情に気がついていなかった。


「─── あれから随分と経ちましたが、あの時に仰った通り、貴方の悪いクセは出ませんでしたね」


「……ん、そうじゃな、酒は浴びるように呑んでしまうがの。わははは‼︎」


「でも、溺れてはいないでしょう?

─── 私でも貴方のお役に立てたのでしょうか」


 ピクリとして、ガイセリックは彼女に振り向いた。

 そうして目が合うと、鼻の横を掻きながら、すうっと息を吸って答えた。


「おう! どえらいご利益じゃぞ!

なんたって、この儂が真っ当に生きとるからな! わははは‼︎」


「貴方だって、私に寄り添ってくださったじゃあないですか。だからそろそろ……」


 彼女の発した言葉は、彼の笑い声に掻き消されたが、つられて笑い出した。


「ねえ、ガイセリック。山菜積み、ご一緒したいわ。

私もお手伝いしますから、教えて下さい……」


「んじゃあ、簡単な事から進めて行こうかの」


 ふたりはかつての旅の道中のように、寄り添って歩き出した。


 ガイセリックの笑い声は、いつにも増して楽しげに森に響き渡っている。

 その横でセラフィナは、笑い声に掻き消されたさっきの言葉の続きを、何度も頭の中で呟いていた。



─── 『在って欲しい』から『ひとつになりたい』に変えてもいいですか?



 ラプセルの穏やかな春は、芽吹きの喜びに満ち溢れ、鳥達は祝福するようにさえずっていたのだった。

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