第59話 過去の傷は意外と疼く

 あれから少しの間自分の勉強に集中していた瑛斗えいとだったが、どうにも向かいに座った彼女の様子が気になる。

 声にこそ出さないが、腕を組んで首を傾げたり、唇をツンと尖らせたり、ペンで鼻先をかいてみたり。

 どこからどう見ても、内容を理解出来ているようには見えない。

 こっそりとノートを覗いてみたが、思った通り何も進んでいなかった。

 自分の点数のための勉強もしたいが、彼は目の前で溺れている人間を見つけておきながら、用事に遅れるからと見て見ぬふりを出来る人間ではない。

 紅葉くれは麗子れいこ、ノエルたちにそうしてきたように、手を差し伸べてしまうタイプの性格をしているのだ。

 だから今回も例に漏れず、ついついお節介を焼きたくなってしまった。


萌乃花ものか、そこはこのページを参考にするんだよ」

「あ、ありがとうございます……」

「……急に声掛けたから驚かせちゃった?」

「いえ! その、まだ名前を教えてないような気がするなと思っただけですよ」

「そう言えば、確かに聞いてなかったかも」


 無意識的ではあったが、間違いなく『萌乃花』と名前を呼んだ。反応から察するにそれが彼女の名前だったのだろう。

 なら、聞いたことも無いはずの名前を何故瑛斗は呼ぶことが出来たのだろうか。

 それも以前から何度も繰り返し口にしていたと思わせるほど、馴染みのある言い方で。


「はっ?! もしかして、私の悪い噂をどこかで聞いたことがありますか?」

「いやいや、そんなことはないよ。初めましてのはずなんだけどね」

「不思議なこともあるものですね。でも、私もたまにあるんです。この人の名前はアレっぽいなと思うと、大抵当たってるんですよ」

「特殊能力的な?」

「ふふん、目覚めちゃったのかもしれません」


 なんて、そんな非科学的なことはありえないので、偶然の一言で片付けてから手元の理科の教科書に視線を落としてもらう。

 名前が分かったのはきっと、持ち物か何かに書いてあるのを見たからだろう。

 人というのは意外と無意識の中でも記憶するものなのだ。街で流れている音楽を、名前も知らないのに口ずさむことが出来るように。


「ほら、ここはちゃんと元素記号の表を覚えないと解けない範囲だよ」

「……ゲンソキゴウ」

「授業聞いてた?」

「えへへ、私のクラスって理科の授業はいつも昼休み明けなんですよね」

「寝てるってことか。なら、尚更真面目に勉強しないと赤点取って補習行きだよ」

「それはダメです! 次も赤点だったら留年させるって先生から脅しが……」

「それですやすや寝れるんだから恐ろしいよ」


 女子生徒改め萌乃花は学業の面では実に不真面目な生徒なようで、いわゆる素行は悪くないが成績は悪いというタイプだ。

 髪の色がピンクなのも、奇抜に見せたくて染めたのではなく天然の色らしい。

 自然とこの色になるのはかなり珍しい現象らしいく、今でこそ周りが受け入れてくれるが、過去には嫌な思いをしたこともあったんだとか。


「小学生ってある意味恐ろしいじゃないですか。仲間はずれがはっきりしていると言いますか」

「まあ、確かに。みんな仲間って感じには、どうしてもならなかった記憶はあるね」

「あの頃の私は、この髪色と体のせいで男の子から意地悪をされてたんです」

「体?」

「あ、その……周りよりも大きかったので……」


 そう言いながら、胸元を隠すようにして少し背を丸める萌乃花。

 意識していなかったが、確かによく見てみると女子高生にしてはかなりスタイルがいい。

 話にも成長が早い子は周りからからかわれると聞いたことがあるし、彼女もその被害者だったのだろう。

 今となっては誇れるステータスなのかもしれないが、幼い頃に受けたダメージは意外と長く傷として残るものなのだ。

 部外者であり、先程名前を知ったばかりの人間としては勉強に戻れと伝えたいところだが、それほど冷酷になるのは案外難しい。


「僕はいいと思うよ、その髪」

「……ほんとですか?」

「すごく綺麗だし、遠くからでも見つけやすそう。体のことは……一応男だから触れないでおくけど」

「男の人からそう言ってもらったの、初めてです。少し自信が持てました!」

「それは良かった」


 萌乃花は嬉しそうに笑うと、控えめな視線をこちらへ向けながら「もう少し、褒めて貰えます?」と首を傾げた。

 そんな初めましてなタイプの要求に、少し躊躇いながらも当たり障りのない褒め言葉でご機嫌を取る瑛斗であった。

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