第606話

「キス、しちゃいなよ♪」


 お姉さんに言われて、視線が思わず紅葉くれはの唇へと吸い込まれる。

 あえて意識しないようにして、考えてしまいそうな頭を必死に逸らしていたと言うのに、まさかここで不意打ちが来るとは思っていなかった。

 それは僕だって彼女のことが好きなわけで、今となっては普通の男子高校生と何ら変わりない。

 ハグや手繋ぎは随分と前にクリアしてしまっているけれど、キスは夏祭りのあの一回切り。

 別に不満があるわけでもないし、欲求が抑えられないなんてこともない。どこぞのアニメみたいにキスしなきゃ死ぬような病気でもなければ、入れ替わりにキスが必要なわけでもない。

 だからきっとしなくていいのだ。キスなんて一生しなくても問題なんて無いはず……だと言うのに。


「そんなにまじまじ見つめちゃって、もしかしてくーちゃんのこと好きになっちゃった?」


 そう言われるまで、自分の視線が逸らしたくても逸らせないことに気が付かなかった。

 考えてみれば紅葉はずっと僕に無防備な瞬間を晒し続けている。自分でなければ既に何かあってもおかしくないというのに。


「……はい、僕は紅葉が好きですよ」


 僕の答えにお姉さんは一瞬驚いた顔をして、それでもやっぱりとでも言うように微笑んだ。

 紅葉が無防備な姿を晒していることに対して、『自分でなければ』なんて言うのはきっと間違っている。

 彼女はこうして無防備になっているわけで、それはつまるところの、自分を信頼してくれているからの一言に限ると思う。

 普段紅葉が向けてくれている感情を加味した結果、僕はそう信じられると判断するよ。少し自己肯定感とやらが高めかもしれないけれど。


「好きですけど、キスは出来ません。僕にはまだ覚悟が足りてないみたいなので」

「……どうしてそう思うのかな?」

「紅葉に振られちゃったんですよ。だから、もしキスをするとしたら、認めてもらえる男になってからですかね」

「そっか、理由があるなら私も強制したりは出来ないなぁ」


 僕は引き下がってくれたお姉さんにお礼を伝えると、チラッと時計をを見てから紅葉に背中を向ける。

 そろそろカナも帰る頃だろうから、僕もそろそろ部屋に戻ろうと思ったのだ。

 あまりに帰りが遅いと、それこそ奈々ななに気を遣ったことがバレかねないからね。


「今のやり取り、紅葉には内緒にしてください。まだ覚悟出来てないって知られたら、きっと怒られちゃうので」

「わかった、私からは伝えないでおくね」


 頷いてくれたお姉さんの横を通り、僕はそっと部屋を出る。起きた時にそばに居てあげたいという気持ちはもちろんある。

 けれど、そうしてしまったら自分に対しても釘を刺した『覚悟が足りない』という言葉が、意味を失ってしまうような気がしたから。

 簡単に言えばのだ。紅葉のためだとか、まだその時じゃないとか、かき集められるだけの言い訳を残して。

 そんな僕は知らない。立ち去った後の部屋の中で、「……伝える必要ないもんね、くーちゃん?」とお姉さんが呟いたことを。

 そしてその言葉の数秒後、「気付いてたのね」と紅葉が起き上がったことも。


「別に怒ったりしないってのに、瑛斗えいとは臆病ね。私は準備出来てるのに」

「その割にくーちゃんも、キスって言われた時におててギュッてしてた気がするけど?」

「うっ……」

「本当は強がってるんじゃない?」

「……あ、当たり前でしょ?! いつまで経っても、準備なんか出来るわけないわ!」


 顔を真っ赤にしながら自分の唇に触れた彼女が、その後一人になった時、密かに思い出しながらうずくまったことはまた別のお話。

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