太陽の章

第十三夜 フェーン現象

 日の出の時刻ごろまでには台風は完全に茨城県北部沖に抜けて、あれだけ強かった風も時折木の梢をザワつかせる程度までに収まっていた。


 赤笹川は、河川敷いっぱいまで川幅を広げたらしい。まだ濁った濁流は治っていなかったが、越水や堤防の決壊は免れたようで、晴矢たちは胸をなでおろした。


 赤笹川が決壊すると富士坂の繁華街は水浸しとなってただろう。治水橋は未だに通行止だ。


 晴矢と香織は結局家には帰れず、着替えもできなかった。


「えー、このまま授業うけるのやだよー」

 沢崎とあんな事があった事を知らないのは仕方ないけど、香織の少し緊張感のない発言に、晴矢はちょっと苛立った。


「晴矢の体操着着てるとか、なんて説明すればいいの?」


「あたしたち付き合ってますとか言えばいいんじゃね?」

 晴矢は投げやりになって適当に答えた。


「ねえ晴矢、あんたバカなの?」

 案の定のセリフだ。

(お前、夜中に抱きついて来やがったくせに)

 晴矢は苛立っている自分と、昨日抱いた香織に対する感情を消化できずにいた。


 香織の心配は杞憂に終わった。


 学校の西側の通学路は小さな土砂崩れによって通行止め、治水橋も水量が多く、未だに通行止めは解除されていなかったため、早々に自宅待機が決まった。香織の心配は杞憂に終わったわけだ。


 治水橋を通らないルートで、なんとか帰れるらしいと太刀川センセイから連絡が来た。沢崎経由だ。


 あんな事があっても、大人は平然としていやがる。


 晴矢は香織と沢崎に一応礼を言って、自転車に乗って水田の間の農道を走った。


 ピーカンに晴れた上に、フェーン現象で十一月も終わろうとしているのに、いや、今日から十二月じゃないか。とにかく暑い。


 武蔵山市は四方を千メートル級の山に囲まれているため、台風が去った後気温が高くなることが多かった。


 水田はすっかり水が入って、まるで田植え直前のように見えた。


 治水橋には警察車両が出ていて、市民がムリして渡らないように見張っていた。晴矢と香織は仕方なく左に曲がり、少々キツイ勾配の坂を立ち漕ぎで登った。


 でも、途中でやめた。

 この坂、キツいってもんじゃない。


「晴矢こんな坂も登れないの?」

「ばか、お前だって降りて押してるじゃん」

「ダメだよ男子がそんな事じゃ」

 香織は晴矢をからかうのが余程楽しいらしい。


「弱虫ペダルみたいに唄いながら漕いだら?」

「イヤだよ。ヒーメヒメとか。冗談言うな」

「知ってんじゃん晴矢」

「そりゃ知ってるけどよ」

 晴矢は巻島先輩が好きなの、と言いかけてやめた。


 山越えの迂回路が終わると、もうすぐ富士坂三丁目は近い。峠を過ぎれば下り坂だ。


 しかしこの突然の陽気と山越えですっかり晴矢も香織も汗だくになっていた。

 下り坂で風を受けて走ると汗が引いてくる。

 凄く気持ちがいい。


「鼻歌とか出ちゃうよね」

 香織は何かピアノの曲を鼻で歌っていた。


「お前さあ、沢崎さんの奥さんにピアノ習ってたんだろ?」

 香織は少しビックリした顔をしたが直ぐに、


「うん。そうだよ。ひとみ先生。とても優しくてピアノが上手だった」

「なあ、お前、」

 と言いかけて、晴矢は躊躇した。


「なによ。途中でやめて気持ち悪い。全部言いなさいよ」

「いや、大した事じゃないんだ」

「大した事ないなら言いなさいよ」

「いや、ホント大した事じゃないから」

 晴矢は香織が沢崎に呼び出されたか否かを聞きたかったのだが、沢崎の妻の事をいまだに慕っているのが分かるから聞くのを躊躇った。


「お前、沢崎アイツに呼び出されたんだろ?」

「えっ、」

 香織は眉毛をハの字に曲げた表情をした。


 なんでお前はそんな表情をする?

 なぜ答えを躊躇うんだ?

 晴矢は戸惑った。


 少しの沈黙の後、香織は呟いた。

「そうだよ…沢崎さんがアタシを呼んだんだ」

 晴矢は、自分の中の血が沸騰する、そんな感覚になった。

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