185


 聖域まで歩いてきたシンシナティ卿は剣を振っていた俺を見て、率直に言った。

「剣に迷いが見えますなぁ」

 言われた言葉に俺は口角を歪に曲げるしかできない。そうだと思っていたが、やはりそうか。

「やはりわかるか?」

 もう一度、片手に握った剣を振るってみせる。剣聖たるシンシナティ卿は俺の全身の動きを見て、ふむ、と頷いた。

「綺麗ですが、それだけですな。以前のセントラル卿にあった勢いが欠けております」

「綺麗か。初めて言われたぞ。それは」

「初めて言いましたからな」

 そうではない。

 ダンジョンに潜る前は三流だの未熟だの爺にさんざんに罵られ、ダンジョンに潜ったあとに神殿騎士や大陸の騎士たちと鍛錬をしたときは見事と言われた。凄まじいとも。だがこのように綺麗と感心されることは初めてだった。

 そういえば、以前凄まじいと言ったのは目の前の剣聖だったか。

「迷い。迷いか。まだ四騎士を殺した経験が適応できてないのか? この身体の重さもか?」

 剣をもう一振りして、やはり身体に奇妙な重さがあることを確認する。

 これはもう、身体と魂を休めるためにも、地上で少し休息をとる必要があるかもしれない。

 そんな風に考える俺に、シンシナティ卿は「それは違いますぞ」と、のんびりと告げた。


 ――わかるのか?


 言葉は発さずとも顔でわかるのか、俺の視線にシンシナティ卿は聖域に敷かれた敷布を指さした。

「そうですな。ひとまず座って話しましょう。これでも戦闘あとですのでね。はは、いやぁ老体でデーモンを相手にするのはなかなか堪えますなぁ」

 そう言いながらもこの剣聖は汗一つ掻いていない。さすが大陸人の枠を越えた凄まじい男だ。この辺境に適応している。

 シンシナティ卿は鎧を外しながら背負っていた鎧櫃をおろし、中から薬缶やかんと水の入った革袋、炭と火打ち石を取り出した。

「セントラル卿、まずは茶でもどうですかな?」

「……ありがたくいただこう」

 俺はシンシナティ卿の用意した炭を敷布からある程度離れた地面に並べつつも、お互いの近況を語り合う。

「今日、私は肉切り包丁を手にしたデーモンと戦いました。なかなか強く苦戦しましたが探索は順調といったところです。セントラル卿はどうでしたか?」

「地底湖まで探索した。そこで四騎士の伝承を模した強力なデーモンのボスを殺した」

 シンシナティ卿は馬鹿ではない。このダンジョンを探索していればエリザに関わるダンジョンであることはわかるだろう。

 ゆえに敵についてははぐらかさずに口にする。

 地底湖、と老剣士が驚いたように目を見開く。

「そんなところもあるのですな。それに四騎士! さすがセントラル卿ですなぁ。はっはっは」

「俺はシンシナティ卿の順応の早さに驚くよ」

「そうですかな。そうだといいのですが」

 とはいえ不思議でもない。大陸人だがこの人物は王族の傍系だ。加えて辺境で得た武神の加護で力もつけている。

 がはは、わはは、としばらく近況を話しているとお湯が沸く。ティーポットを鎧櫃から取り出したシンシナティ卿は「茶は妻の趣味でしてね。大陸では私もこうやって練習させられたものです」と茶葉をポットに入れていく。

 このあたりの洗練された所作こそが、この男が生粋の貴族で、俺がただの農民であることの差なんだろう。

 俺の荷物の中にそんな余分はない。せいぜいが神秘の回復を助ける香炉ぐらいのものだ。

「俺と違って卿は鎧櫃を背負っている。そんな道具は無駄だと思わないのか?」

「いえいえ、これもまた私の聖衣のようなものですのでね」

 オルランド・セイント・シンシナティ。この人物は、まるで苔の生えた巨石のような印象だった。

 泰然としている。自然のままにある。

 その剣も、その姿も、万民が認める剣聖としてのあり方を体現している。

「セントラル卿、どうぞ。それとこちらは妻が作った焼き菓子です」

 小麦粉を焼き固めたものだろうか? 干した果物の乗った板状の菓子をシンシナティ卿に手渡され口にする。

「甘い……」

「砂糖と卵、それと牧畜で取れるようになったらしい牛の乳を使っておるらしいですからな」

 高価そうなティーカップを渡される。琥珀色の液体で満たされたそれに口をつけた。

「茶もうまい」

「そうですか。卿の口にあってよかった」

 頬をほころばせながら、シンシナティ卿も焼き菓子をさくさくと口にする。

「それでですな。その剣の迷い」

 俺は焼き菓子を食べる手を止め、そう口にしたシンシナティ卿を見た。

 穏やかな表情だ。まるで俺を育てた爺のような、若い人間をみる老成した達人の目。

 そして、言葉の続きを、なんでもないように彼は言う。

「それは多数の運命や思惑、立場が絡まったからでしょう」

「……そう、思うか?」

「老人の昔話で申し訳ありませんがね。私も、若い時分にはよくありました。聖剣の担い手、剣聖の称号、聖騎士の第一位という立場に縛られ、動けなくなる時が」

 その言葉は、老人の昔話と切り捨てるには、あまりにも俺の状況と一致していた。

 神殿騎士としての立場、領主としての立場を半分以上放棄してオーキッドに押し付けている事実、辺境人の義務、デーモンの脅威、オーキッドと子どもたち、聖女様方の期待、月神とのゲッシュ。俺を縛るものはたくさんある。

(そうだ。昔の俺なら、あの猫を躊躇なく殺していただろう……)

 ダンジョン探索に不利になる? 恩がある? 聖女様が気をつけろと言ったのだから殺すと、殺したからどうしたと胸を張っただろう。

 だが今はそれができていない。事実を確かめようとしている。その上で判断しようとしている。

「何もしなかった結果として、私は大陸での科学の蔓延を招きました。火薬の発達、製鉄の進歩、大量生産技術の開発……勝てる・・・軍を作るのならばそれでよかったのかもしれません。ですが、その結果として私は騎士の立場を貶め、戦争を大規模にし……騎士が持っていた武の概念を形骸へと落とし……最後にはゼウレから大陸人が見放される一因となった……それこそが私の……」

 いえ、繰り言ですね、よしましょうとシンシナティ卿は言葉を切り、紅茶に口をつけ、そうしてから改めて口を開いた。

「つまり私が言いたいのは、セントラル卿には心のままに行動して欲しいということです。私は大陸で卿の剣に希望を見ました。この世に存在する権威を破壊する圧倒的な暴力。その姿は、私が若いころに夢想した武のあり方そのものでした」

 それを見てしまったから私はここにいるのだと、シンシナティ卿は言う。

「こうして老いてしまった私に圧倒的な暴力への渇望はありませんが、それでも、私も心のままに振る舞いたい」

 だからこうしてこれを持ってきているのです、と茶菓子と茶を手にして剣聖は笑う。

「心のままに、か」

 俺も笑う。

 そうだな。心のままに。

 最初はそうしていたのに、俺はどうしてそれを忘れていたんだろう。


                ◇◆◇◆◇


 決めれば行動は早かった。

 俺たちは茶を飲み干すと火や薬缶、ポットやカップを手早く片付ける。

 妻に会いに行くと地上へスクロールで転移するシンシナティ卿を見送った俺は、シンシナティ卿に残りはどうぞ、ともらった焼き菓子を口に放り込んでぼりぼりと噛み砕くと袋から取り出したワインを一息に飲み干した。

 そうして酒臭い息を吐きながら、腹の底からの怒りと共にこの場の全てに届けとばかりの大声で叫ぶ。

「おらァ!! 猫!! 出てこい! 猫! 糞猫! ミー=ア=キャァァァァァットォオオオオオオオ!!!!」

 全力での大声にびりびりと周囲の空気が震える。猫は出てこない。叫ぶ。叫ぶ。鍛冶屋の方向から「うるせえええええええええええ」という怒鳴り声が聞こえてくる。「爺さん、すまああああああああああん」謝る。

 そうしてから「糞猫でてこぉおおおおおおおい!!!」と俺は大声で叫び続けた。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、クソ、出てこねぇな」

 途中で爺さんと乱闘になったためにできた傷を奇跡で治療しながら俺は聖域に座り込む。

 爺さんはうるさくてやってられるか、今日は飲んでくるとスクロールで地上に戻ってしまった。

 槌の音の聞こえない聖域は本当に静かなものだった。


 ――まるでそれは、ここに最初に来たときのような。


 ヒカリゴケの薄っすらとした柔らかな光だけが光源の聖域前広場。音はなく、かすかに瘴気が漂うのみのこの場。

 誰も、何もいない。猫は出てこない。

「ちッ、少し休んだら出てくるまで叫んで――」

「それは迷惑にゃ」

 声に振り向けば、銀色の毛並みの猫が聖域の傍にいた。

 ダンジョン猫は呆れたような視線を俺に向けてくる。

 この距離感、気配は、俺が手を伸ばせばひょいっとどこまでも逃げてしまいそうな雰囲気だ。

「それで、なんにゃ? みゃーも暇じゃないにゃ」

「はッ、暇だろお前」

「そんなことないにゃ。客が最近は多いにゃ。忙しいにゃ」

 ふん、と俺は猫に向けて鼻で笑ってやる。猫は俺からつんと顔を逸らしてぺしぺしと不機嫌そうに地面をしっぽで叩いた。

「俺はな」

 にゃあ、と猫が俺の言葉に警戒した様子を見せる。逃げようとする気配。少しの恐怖がその仕草には見える。

 苦笑した。そんなに警戒するなよな。

「お前を許すよ」

 こいつが何をしたかはしらねぇが、聖女様から逃げてるあたり、ろくでもねぇことをしたんだろう。

 それもこのダンジョンに隠された秘密を考えるに、おぞましく、けして誰も許せない何かなのかもしれない。

 だが俺は言った。言うしかなかった。きっと間違えていると確信しながらも、心のままに振る舞うことにしたのだ。

「キース?」

「お前は俺を助けた。今も助けてくれている。そして俺は侠者だ」

 にゃ、と猫は、何か信じられないものでも見たかのように俺を見ていた。

 ふ、と俺は微かに口角を釣り上げた。この猫のこんな姿が見れただけでも許した価値はあった。

「ミー=ア=キャット。お前の行為に俺は報いよう。恩には宝を。仇には刃を。お前が例え誰も許せぬ悪行を為していたとしても、俺だけはお前を許し、お前を命を賭して守ろう」

「みゃ、みゃぁ……き、キース?」

 何を言っていいのかわからないのか、情けなく鳴く猫の背に俺は手を乗せた。

 逃げる気配はない。怯えつつも、信じていいのかわからない視線を猫は俺に向けてくる。

 撫でる。デーモンには存在しない生者の温かさ、小さな心臓の鼓動が手に伝わってくる。

「お前はこんな地下に長い間一人きりだった。だったら一人ぐらいはお前を許す奴がいてもいい。それが俺であればなお良しだ」

「み、みゃーは、猫じゃなくて……にゃあぁぁ」

 顔をうつむけ、情けない声で鳴くしかない猫を撫でながら俺はどこか心が、身体が軽くなる感覚を覚えていた。

 そうだ、後悔や心残りは武を鈍らせる。

 心の曇りは晴れた。我が刃は研ぎ澄まされる。ゆえに。

(結果がどうであろうと、この決断を俺は後悔しない)


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