三階 呪巣街
145
転移した先は黒き森に設置した聖域だ。狩人のデーモンを葬った場所でもある。
戦う準備はとうに終わっている。転移したそのままに結界から出れば鼻につくのは瘴気に満ちた邪悪な臭いだ。
視界の端から端まで穢れに満ちた憎悪の森が見える。
「ここでさえ地獄のような有様だってのに……」
これから向かう先こそはさらなる地獄だ。人々の魂が悪霊化した呪われし都。
地上にいる家族を想う。
あんな心地よい場所を投げ捨てるようにして、俺はこんなどうしようもない場所に舞い戻ってきた。
――自分の意思で。
兜の上から額を抑える。
「はッ……。どうしようもねーな。所帯を持とうが、結局俺はこんなもんか?」
頭を振る。感傷は死を招く。地上の一切合切を忘れ、この先の脅威を想い、身体を進ませる。そいつが俺には必要だ。
そう。全てを振り切るように進もうとし、足を止める。
「こいつ、は?」
違和感。ほんの少しだけ足を止めるにたるものだ。
(――におい、が)
この場は邪悪と堕落に満ちたデーモン臭い瘴気の渦だ。
それでも、流石に身に着けたもののにおいぐらいは理解できる。
鎧や兜。ドワーフの爺さんから受け取ったそれは本来金属の香りのする武張ったものだ。だが、その鉄臭さが消えていた。
こうして腐れた瘴気の中でしか気づけないような。俺の嗅覚を支配しない程度に弱い香りが鎧から漂っている。
鎧に
だが、それがどうしてか心に心地よい。不快ではない香り。その
別に戦う力を底上げするものではない。筋力は変わらない。体力も変わらない。オーラの練りが力強くなるわけでもない。
ただ気分がよくなるだけのことだ。
だから、こんなつまらない気遣いをドワーフは戦士にしない。やったとしても虫除けに除虫香を焚くぐらいだ。だから、こんないい匂いのする香など焚かない。こんな女々しくもくだらないことを辺境の戦士は行わない。
だからこれをやったのは貴族である
(これは、いつだ? あの時か?)
地上にて出発前、オーキッドに装備を
(この匂い。こいつは、エルフの森の、アレか?)
聖龍蘭と呼ばれる高値で売れる花がエルフの森に自生している。100年に一度。それも満月の夜にだけ花を咲かせる貴重なものだ。
薬効も高く、俺が以前エルフどもから受け取った世界樹の霊薬の素材の1つだとかなんだとか。そのようなことを爺さんの為に金策をしていた時、聞いた覚えがあった。
結局、俺では手に入れることはできなかったが。
それも当然、こいつはエルフの森の奥地にしか自生していない上に、エルフどもに厳重に管理された希少な植物。
貧乏な貧農たる俺では触れることすら困難なものだった。
だが、そんな貴重なものをオーキッドがどうやって? と考えて、すぐに思い当たる。
「あの姫さんに貰った奴か」
地上に戻った時にどうしてかオーキッドに擦り寄ろうとする
聞くだけ聞いたことはあっても、見たことも嗅いだこともない聖龍蘭の匂いはその時に嗅いだのだろう。心底から興味のないことだったのでうろ覚えではあったが。
「……まぁ、悪くない、か」
身を包む鎧に鼻を近づけて、少しだけ大きく息を吸い。笑う。
そうして、聖衣に後押しされるようにして俺は前へと進んでいく。
――俺は1人ではないのだとオーキッドが言っていた。
◇◆◇◆◇
いくらか高価な武具になると特別な機構が仕込まれるようになる。
武具の耐久性をいくらか損ねるためにそういった機構は戦士にもドワーフにも好まれないのだが、特定の魔性どもと戦うにはこれらの機構が必要になってしまう。
俺は竜の血液で鍛え上げられたハルバードの柄を
そこにあるのは空洞だ。もっともこのハルバード全体の中身がスカスカというわけではなく、この部分だけに施された仕掛けなのだが。
こいつは盾の騎士であるアザムトによってこの階層より更に下に叩き落とされた聖女たち。その中にいた騎士メルトダイナスの持つ聖剣に施されていた仕掛けと同一のものだ。
俺は袋から神殿から与えられた浄化特化の聖水を取り出すと、蓋を外し、瓶ごと柄の空洞に押し込んだ。
そうして柄の蓋を閉めればとくとくとした液体の流れる音と共にハルバードに液化神秘の補充が行われる。
(俺も、こんなものを与えられる身分になったか……)
正直な所、神殿騎士となって得をしたという実感は今まで本当に薄かったのだが、こうしてこのクラスの聖水を瓶ごと消費することができるようになり、ようやく心底から神殿騎士になってよかったという実感が湧いてくる。
武具も鎧も神殿の支援も、あった方が嬉しいが、それらの全ては貨幣を積むことで猫による代替が可能だったものだ。
勿論、それらの全てを代替するには莫大なギュリシアが必要ではあったし、ドワーフ製の特注武具など望めはしなかっただろうが、ダンジョンで手に入る道具の多くを使い捨てるように用いれば、結果として、現在と似たようなことはできただろう。
だが、
いや、そもそもがこんなもの、おいそれとそう簡単に使えるようなものではないのだ。ここまで緻密に練り上げられた神秘で満たされた聖水など対デーモンの前線ですら簡単に出回らないだろう品だ。
「く、くくくッ。おいおい。ついこの前まで餓死しかけてた俺が、こんなものを使えるのかよ」
思わず本音が口をついて出る。オーキッドから与えられる喜びとは別の喜びがここにある。腹の奥底から身震いがする。口角が喜悦に釣り上がる。
こんな贅沢な使い方。他の戦士に知られたら嫉妬で決闘の3つか4つ挑まれそうなもんだ。
だが、こうしなければ、この先には進めない。
生命力を練り上げたオーラはデーモンを始めとしたあらゆる邪悪に対して効果がある。
だが、この先、今俺が立っている神殿街へとつながる門から侵入した先にいる唾棄すべき悪霊どもに対抗するには俺では少々以上に神聖さが足りない。
本来の神殿騎士ならば、この浄化の聖水少々を触媒にすることで、ゼウレなりなんなりの奇跡で効率的に悪霊を蒸発させて回れるのだろうが、俺はそんな奇跡を授かっていない。
そして当然だが、俺の扱う、道具に全てを頼ったヤマの炎は弱い。
だからこうして、贅沢に上位聖水を使用して、対悪霊に特化した武具を用意した。
ハルバードに浄化の神秘が満ちていく。息を大きく吸い、練り込んだオーラを鎧を含めた全身の武具に浸透させていく。
その上で、自分の装備の最終確認をする。
聖水による浄化の力で満たされたハルバード。
兜を含めた
聖衣の力を持つオーキッドより贈られた星牛のマント。
『花旺天蓋』花の君より手に入れた毒鉄の少女篭手。
予備武器として、鞭と刺突剣の性質を持つ青薔薇の茨剣を腰に吊るし。
袋の中には狩人のデーモンより手に入れた新月弓。神聖の力を秘めたメイスもある。
『透過』の念動を用い、物理的な防御を突破してくる奴らに盾は余り効果はないだろう。今回は袋に収め、両手にハルバードを握り込み、腰元に鬼たる酒呑が刻み込んだ『集魔』の聖言を持つ神殿の木盾を吊るしておく。
それと、俺は魔術を使えないが、水の魔術に対する護りを与えてくれる金属杖。魔術触媒『
「指輪はヤマの奇跡の使える『炎獄の指輪』と。そうだな、こいつにしておくか……」
しげしげとそれを眺める。手に入れた時は絶対に使う機会はないと思っていたものだ。
――狡猾な鼠の指輪。
装着した者が敵意を持たれにくくする指輪だ。正直、悪霊どもに対して効果は薄いだろうと思っている。そもそもが俺が生者であるというだけでもはや奴らにとっては必殺の対象なのだ。
それでもこいつをつける利点はある。
これを用いれば都市中の悪霊どもが一斉に俺に寄ってくることはなくなる、らしいからだ。
地上にて所持する道具を晒しつつ、聖水を頼みに聖女様に相談をしたときにそんな助言を受けていた。
正直なところ、身を隠すってのは好かないのだが、上位聖水をあれだけの量貰っても、尽きることのない無数の悪霊どもを相手にすればそんなものは焼け石になんとやらだ。
目的地がわかっていて、その場に向けて駆け抜けるならばそれもよしとできるが。
そもそもこれからこの場を探索しなければならない。
倒すべきデーモンをぶちのめし、次の階層への道を探らなければならない。
「まぁ、頼むぜ」
指輪の台座に彫られた金属製の鼠を指で撫で、俺はそいつを指にはめると。
顔と腕に張り付いたリリーの
繁栄する偽りの白亜の都。そいつを見せつける門を通り抜け。
暗黒の太陽が中天に昇る、滅び去った呪われし都へと侵入するのだった。
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