099


「……は、ははッ……」

 この先に進めば己は死ぬのだと知ってしまえば、もはや出てくるのは笑いだけだ。

 冷や汗が止まらない。寒気が止まらない。怖気が心胆を寒からしめている。恐怖が、小さく、しかし確実に這い上がってくる。

 眼前にある小さな扉から瘴気が溢れている。ただ溢れているだけじゃない。まるで大河が如く。世界全てを染め上げよとばかりに濃密な殺意と害意と狂気に塗れた瘴気が溢れ出ている。

(可能ならばここで絶対に殺さなければならない……こいつはそういうデーモンだ)

 そう、この先にいる・・いるのだ・・・・

 戦意を心中から絞り出す。震える身体を精一杯押しとどめる。こればかりはどうにもならない。本能だ。人間の本能として、強大な存在にはただ震えるしかない。俺が人である限り、この恐怖から逃れる術はない。

(聖衣があれば、そうはならないらしいが……。ないものをねだっても意味はない)

 聖衣。聖衣とは愛の概念でできた鎧だ。愛。それはデーモンが持てない概念。故にデーモンに唯一対抗できる想念。

 人は生きていればどうしたって誰かと寄り添う。それは人は一人では生きていけないからだ。誰かと支え合い、睦み合い、産み、育て、別れ、その先でまた繋がり合う。連綿と続く人の歴史。それが人類史だ。

 人が人であるなら自然とそこに帰結する。そしてそこには必ず愛が生まれる。

 愛。愛。愛。愛おしむ心。デーモンが持てぬそれ。俺が持っていないそれ。

(俺は今、一人だ)

 それでも、それだけじゃない。

 炎剣の柄を握る。壊れかけた鎧に触れる。聖女様の肋骨ネックレスを想う。

 俺は爺に育まれてここまで来た。この武具にはかつての英霊たちの想念が宿っている。聖女様も多大な期待を寄せてくれた。

 そしてリリー。あの金髪の誇り高い騎士を想う。あいつがいなければ俺は終わっていた。故に、どうしてもあいつは助けねばならない。それが俺の仁義で、義理で、愛なのかもしれない。

「俺は、一人じゃねぇ……」

 俺は一人だが一人じゃない。俺はデーモンではない。人間だ。

 人であるから、つながっている。ただ一人で立っているなど考えもできない。俺が俺であるからこそ得られたえにし

 どうしたって手に入らないものはある。しかし、今こうやって俺を助けてくれるつながりがあるのだ。

 前を向く。この先に進めば死ぬ。どうやっても死ぬような相手。どうやっても死ぬ状況。それでもその死を乗り越えなければならない。闇の中から光明を見つけ出さなければならない。

 怯えることに意味はない。進まなければならない。

「……ここが……この先に……」

 恐れるように手を伸ばし、迷うようにノブの前で手を彷徨わせる。

 小さい。本当に小さい扉だ。人ひとりが入るだけが精一杯の古く分厚い木の扉。

 ここだけが他と違う。周囲にある闇色の壁や不気味な装飾の柱はただただ人間世界を否定する悪鬼デーモンの神殿であるというのに、この扉はただの朴訥な木の扉だ。

 空気は湿っているというのに、木肌は乾いている。傍らの松明に照らされ、その不自然さが強調されている。

 恐れ多いのか、周囲で蠢く赤子蟲でさえここには近づかない。

「…………」

 これは唯一汚染されずに残った地上の名残か? そうではない。この扉は、ここに来るまでに俺は散々見ている。

 この木の扉は、幽閉塔。その扉だ。ここが闇色の神殿となろうとも犯せなかったボスのデーモンの心象。

 ここの主が生前に長く見続けてきた、その扉なのだろう。

「行くぞ……」

 片手に騎士盾を構え、ドアのノブを握る。やることを脳内で確認する。

(俺の命を尽くしてでもボスを殺したいが、そいつは後回しだ。まずは長櫃を探す。でなければ酒瓶だ。神酒であるなら呪いの影響を免れている可能性がある。いけるか? いけるな? 記憶から形は把握している。いくぞ)

 そして、俺は扉を開き――


 ――を見た。


 ぞろり、と神殿ではなく、幽閉塔の石壁を占めるのは大量の目だ。

 室内壁は闇色の壁ではなく、階下で見てきたもの。石煉瓦で作られた広大な一室。その石壁を大量に目を生やした腐肉の壁が侵食していた。

 壁際にはこの部屋の主の生前を模したのか小さな本棚。小さな机。長櫃・・。空気は濃い瘴気と圧力に彩られながらも正常。


 ――水中ではない。


 しかし、部屋の中心に一匹の魚が浮いている。

 長大で、巨大で、近づくことさえできない恐ろしいかみが、そこにいる。

 嘴は巨大。腹に添って大量の悲嘆が浮かぶ人面を生やし、吐き気を催す紋様に彩られた巨大な鱗に身を包んだ怪魚。

 その身体は鰻かウツボが如くに長大。額から伸びる髭はまるで刃のように鋭い。尾びれは千切られたようにボロボロだ。その身体のあちこちに生える苔のようなものからは年月の重みを感じさせる。

 そして溢れ出ている邪悪な神威。

 波濤のように打ち寄せ、俺を叩きのめしているこの感覚には覚えがある。辺境人ならば知っている感覚だ。常に神の加護を受けているからこそ、通じる気配には確信が持てる。

 おおいなるものの気配。かみが発するこえ

(ま、ずい。身体が、動かねぇ。――神威だ。神威が俺の身体を縛ってやがる。当然、恐怖はある。あるが、もっとも大きなものはこの神が垂れ流している威圧。これまでの情報から推測する限りは海神の一種だろうが。神だと。糞。最高神たるポスルドン程じゃねぇが、低位とは口が裂けても言えねぇぞ。バカ野郎が。畜生。どの程度の位かはわからねぇが……全く動けねぇ……)

 それでも肉体が、自然と圧力で背後に一歩だけ下がった。ドン、とぐらついた身体が背後の扉に当たる。その瞬間に気力を振り絞る。背後を見る。扉が瘴気によって塞がれていることを確認する。

 退路は塞がれている。

 ならば神以外には見えなくとも、あれはボスのデーモンで間違いがないのだ。

(神。神に見えるが、こいつもダンジョンに囚われたデーモン……デーモン、だよな?)

 疑心はある。そもそも俺は誰に聞いているのか。呆けるな。炎剣で斬れるか? 俺にあれを殺せるか? そもそもが、近づけるのか・・・・・・

 鎧の隠しに仕込んだ保険・・に手を伸ばしかけ、首を振る。早まるな。あそこまでやばいなら、あれは聖衣の所持が前提の相手だ。

 頭を切り替えろ。勝てないとわかったなら目的を優先しろ。

(神酒だ。あの長櫃を開き、中身を確認する)

 長櫃の中になかったらどうするか。死力を尽くしてあれと戦うか? 死力。馬鹿な想像を鼻で嗤う。蟻一匹の死力で象には勝てない。

 そういう相手なのだ。

『………………』

「………………」

 にらみ合い、というほどのものでもなかった。神が俺のような矮小な存在を気にかけるわけもなく。俺も俺で身体が縛られて動くことができなかった。 

 それでも、それが神ではなく、デーモンであるなら。

 軽々しく領域に入り込んだ人間の存在を許しはしない。

 故に怪魚は肉体を震わせ。

『オォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオーーーーーンン!!』

 腹に並んだ悲嘆の人面が絶叫した。

 俺の身体がびくりと震え、同時に、口の中に仕込んでおいた特別製の戦士の薬が喉を落ちる。何事もなければ吐き出す手筈だったそれが俺の肉体からネガティブな感情を取り払う。

 心臓がどくりと高鳴った。

(きっちりジジイのレシピ通りに調合しておいて助かったぜ。こいつはキメた瞬間回る特別製だぞ!)

 この戦士の薬は本当に特別製だ。効果が強すぎて常用はできない類のもの。邪神と戦うと決めてからかき集めた素材で作ったもの(とはいえ金もコネもないのでそれほど品質は高くはないが)。

 一種の霊薬と言ってもいい。飲み込んだ瞬間に肉体を汚染する。精神神経筋肉血管臓腑眼球の反応が上昇する。ダイレクトに戦意が肉体に反映する。先の停滞が嘘だったかのように肉体が駆け出していた。当然だ。この場にいたら死ぬのだから。

 怨、と怪魚の嘴が俺を示す。悲嘆の顔が叫びを上げる。海神の奇跡。怪魚の周囲に出現する水流。同じ水の魔術を扱う死貝とは比較にならないほどのそれ。魔術や奇跡への耐性がない俺が直撃を喰らえば肉体を容易く肉体を半壊させるに余りある攻撃。

 それが、3,4,5,6……!? 6本!?

 身を屈めるようにして駆ける。蒸発したかのように水流を掠めた兜が削れる。鎧の一部が肉と共に吹き飛んでいく。死貝の放つ細い水流とは違い、この怪魚が放つ水流は太く激しい。どうやってもかわせない。当たってしまう。

「――――うぉおおおッ!!」

 もはや攻撃に意味はない。重いだけの炎剣を袋に叩き込む。騎士盾だけを手に長櫃目指して一直線に駆けていく。

 背後から気配。怪魚を無視し長櫃に突き進む俺に対し、悲嘆の面が叫びを上げた。怪魚がぐるりと泳ぐように向きを変えている。見えずともわかる。照準されている。水流が生まれる気配を感じる。殺意が俺を狙っている。

(考えろ考えろ考えろ考えろ……ッ!!)

 ボスを、人型だと思っていた。今までの経験からの推測が当てにならなかった。人の形をしていれば、まだどうにかなると考えたからでもあったが……。違う。そんなことはどうでもいい。考えろ考えろ考えろ。戦意を前方に向ける。あと数十歩の距離。考えろ。この一撃さえどうにかできれば、間に合う・・・・。手順を脳裏に思い浮かべる。箱の中身がなんであろうと生きて帰ることを優先しろ。保険は躊躇なく使え。

 背後を振り向く。水流が出現している。その数は変わらず6本。俺を狙っている。袋に手をつきこむ。取り出すものは……ッ!

「らぁッ!!」

 巨半魚蟲人の大盾!! 俺の全身を隠すほどの巨大な盾。それを二つ。最初に出会った巨半魚蟲人の大盾に加えて、ここに来るまでに遭遇したもう一体の蟲人から回収した盾だ。

 水流への備えとして二枚の盾を重ねるようにして障害物として床に置く(回収した大盾は二枚だ。こいつはここで全て使い切る)。俺は手に持っていた騎士盾を背中に背負う。そうして前を向いて走りだす。長櫃。長櫃だ。あれを開く。開いて――背中に衝撃!?

「ばッ――な、に、が……?」

 大盾はどうした!? 身体が浮く。衝撃で浮遊している。宙に浮きながら背後を見る。大盾が蒸発するようにしてその大半を消し飛ばされていた。馬鹿な、加護の類はなくとも、あの分厚い魔鋼だぞ。それを薄紙でもぶち破るみたいに容易く!?

 俺の驚愕にもかかわらず怪魚が怨、と嘶く。そうして再度の水流の気配。

 やはり、あれは神であり、デーモンだった。容赦なんてない。慈悲なんてない。死ぬ。死ぬ。死ぬ。俺は、死ぬ。

(だが、だが、だが!! 俺は、生きるぞ! 生きてやる!!)

 幸いにも薬の効果で痛みは感じない。騎士盾を背負っていたのも功を奏した。結界の聖言が俺の身体を守ってくれている。ぶっ飛ばされたのも逆に運が良かった。傍らには長櫃。長櫃だ。警戒も何もせず長櫃を開ける。

(こいつが死蟹ミミックであったなら俺の心は絶望するかもしれんが、な!!)

 ギギ、という軋むような長櫃特有の金属音。長櫃の蓋が開く。死蟹ではない。長櫃だ。中を見る。瓶が、一本。

「おぉ……」

 歓喜する。瓶。酒瓶。記憶で見たそれが中に入っている。

 薬の効果とは別に心臓が高鳴る。手を長櫃につき込み、袋にぶち込む。殺気。背後を見る。水流が放たれていた。

「少しは容赦ってもんを……」

 数は変わらず6。祈るように騎士盾を背中より外して構える。死ぬかもしれない。水流が着弾。

「――ぐ――うわああああああああああ」

 衝撃には一秒だって耐えきれなかった。吹き飛ばされるようにして床に転がされる。心に染み渡ってくる圧倒的な力。だが俺の心には歓喜だけが満ち溢れている。神酒。神酒だ。神酒ネクタル。リリー。リリー! リリー!!

 これでお前を、助けられるぞ。

「今、いくぞ! リリー!!」

 そして保険。用意していたものを使う。猫が言っていたことだ。どんなに瘴気が濃い場であろうとも、その瞬間だけなら聖域の効果は発動するのだと。

 聖印を床に叩きつける。聖域の巻物を消費する。出現した聖域は今にも掻き消えそうだがその瞬間だけはここに存在する。

 そして、俺は鎧の内側にある聖女様の肋骨に、鎧越しに手を当て念じた。

「転移!」

 その最後に見えた光景は、俺を殺すべく迫る水流。しかしもはや俺の姿はそこにはなく。

 俺が現れた場所は、リリーと最後に会った狩人と戦った広場だ。

「――ぐ」

 落下音。結界の聖言でも防ぎきれなかったのか捻じれたように歪んだ騎士盾を地面に取り落としていた。

 見れば盾を持っていた腕があらぬ方向に捻じれている。苦笑が浮かんだ。命は拾えたのだ。運がよかった。少しでも判断を間違えれば死んでいた。

 無事だった手で袋よりソーマを取り出し飲み干す。

 周囲を見た。鬱蒼と茂る森の中ぽっかりと開いた広場。ここは前と変わらない。

「ああ。まだ、ここにいたのか……」

 彼女がここにいるという確証はなかった。俺はあの瞬間、逸る気持ちでここに転移しただけだ。

 それでも、俺は、強く鼓動する心臓を抑えるようにゆっくりと近づいていく。


「リリー。見つけたぞ。お前が探していたものを」


 俺の視線の先には、黄金の騎士鎧に身を包み、項垂れたように力なく倒木に座ったリリーがいる。

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