084
目前に広がる水。水。水。
悪辣で、絶望的な仕組みだと痛感する。同時に俺の力のなさに自然と歯噛みした。
この壁から先に進むには、魔法的な、もしくは神秘的な永続した潜水の技能が必要になる。
肉体を鍛えあげて一時間や二時間以上の潜水が可能となる方法でもいいが、それを望むには海の民ぐらい水に適応した血統が必要になるだろう。
「……どれもこれもない俺には道具が適当、か」
最も、その方法にすら一つの問題がある。そしてそれを解決するにはまた技能が必要だった。
「覚悟一つで切り抜けられる環境は終わってるわけか……」
覚悟一つでどうにかできるのは精々が中庭の司祭のデーモンを倒すまでだ。中庭より先の地下からは戦闘技能が必須であったし、庭園と森では毒に対する耐性か防具が必要であった。
この塔であれば、それは水に対する対応力か。最もそんなものを持っている人間は稀であるからダンジョンも救済としての道具を用意している。
袋より取り出したマスクを見下ろして俺は少しの躊躇をする。
俺のように魔法の袋を持っているならともかく、そうでないなら食糧や水、武器などの物資の多くを現地調達せざるを得ないからだ。
その際、現地で手に入れた物品の効能を確かめるためにも鑑定能力は必要となる。
鑑定にも様々なものがある。
熟練の冒険者や商人が持っている知識や技術、経験に裏付けされた鑑定技能。
『鑑定』『見識』『審美眼』などの聖言が刻印された道具による鑑定技能。
そして商業神バスケットを信仰することによって得られる奇跡としての鑑定技能。
俺は詳しくはないが悪神のいずれかを信仰することによって得られる鑑定技能もあるらしい。
しかし俺はそれのどれも持っていない。
短刀、杖、指輪、6本の水薬、貫頭衣、ローブ、そしてマスク。
これらは物資不足の現在。2階から4階までの探索で手に入れた道具だ。今までの経験からすれば、全てが使い所によっては有用な効果を発揮することがわかっている。
しかし現状それを発揮する術がない。
それは俺に鑑定技能がないからだ。鑑定技能がない為に俺はこの道具のどれ一つとしてどんな効果を発揮できるかわかっていない。
猫の鑑定からの知識によれば薬のいくつかは俺が以前手に入れた薬と同じものにも見えるが、俺にはそれの中身が本当に同じものかどうかの判別すらできないのだ。
ここは邪神のダンジョンだ。邪神の悪意がダンジョンの道具類にも
「中身がわかればいいんだがな……」
マスクではなく、この薬のどれかに潜水能力を付与する薬がないとも限らないわけだが、どれかに賭けて飲み干す勇気は出てこない。
そして全てを少しずつ飲んで確認するという手段もとれない。死にかけの死にかけの死にかけのやぶれかぶれでボスの落とした薬をソーマと信じて飲むのとは状況が違うし、水薬の類は一定以上の量を飲まないと効果が出ないものが多い。確認の為に飲み干してしまっては本末転倒だ。
そもそも腕力増強ならともかく肉体硬化や体力増強だった場合は肉体での判別が非常に困難だし、それが毒薬であっても効果の低い毒では俺の肉体は
「……一度猫の所に戻るのが一番頭がいい方法ってことはわかっている」
事ここに至ってはもはや自力での解決は困難だろう。
それでも戻ることはできない。戻る選択肢だけはない。
薬を除外し、残った道具を考える。短刀、杖、指輪、貫頭衣、ローブ、マスク。
一番有力なのはマスクだがそれでも危険性を考えれば躊躇する。
(いや、恐らくはマスクだろうが……)
次点で指輪だ。他は水とは関係がない道具だということは俺とてわかっている。
それでもマスクを片手に俺は身に付けるか付けないか迷う。
「ビビってんのか俺は? いや、そうじゃない。当たり前の警戒を今頃し始めてる、のか?」
このダンジョンに潜り始めた時のように、何もなければ呪いが掛かってようがなんだろうが使用しないという選択肢がない。しかし他に手段があれば選択肢として迷うのは誰であっても当然――。
(俺は、今頃、何を? 戻らないと決めただろう? 決めたはずだ……)
手段というのは一度戻ることだ。先ほど振り切った選択肢。それが今頃俺の心に魔を差し込もうとしている。
目を瞑って首を振る。いや、やはりビビっている。ビビってんだ俺は。
呪いの全てを契約により防げる辺境人といえど、防具の類を自ら身に付けた場合はその呪いを防ぐことはできない。
(俺は、リリーの為に死ぬことができるのか?)
全てはそれだ。リリーの為に死ねるか死ねないか。それだけだ。
そして選択肢がマスクというのも問題だった。俺が辺境人とはいえ、頭部はまずい。心臓が破壊されてもソーマを飲むまで生きていられる自信はあるが、脳が破壊されれば俺とて即死する。即死してはソーマを飲むなんてできないし、このマスクは顔の全てを覆うものだ。脳を破壊された状態でマスクを脱いでソーマを飲むなんてのは如何に辺境人だろうと難しい。
呪い以外にも警戒はある。このマスクに致命的な罠が仕掛けられていた場合だ。何しろ自分から身につけるのだ。どうやっても防ぐことはできないだろう。見た限り罠の類はないようにも見えるが、俺は商人でも鍛冶師でもない。こんな扱ったことのない道具の構造はわからない。
(……糞、なんで、今更、こんなことで……)
リリーの為に探索し、デーモンを倒すのとは状況が違う。デーモンとの戦いで死んでもそれは俺の力の無さが原因だ。物資の不足など関係がない。戦いの途中で倒れても全ては俺の力の無さなら諦めもつく。堂々と死ねる。神々の前で胸も張れる。
しかしこのマスクで死んだなら……。マスクを鑑定する手段もあったのに死んだなら、それは――
「ただの間抜けだ」
そして俺は。
「間抜けになれるか?」
リリー。お前の為に俺は死ねるのか?
困難と闘うことはできる。強敵と闘うこともできる。その果てならば死ぬことにも否はない。
だが俺は、間抜けに死ぬことはできるか?
「覚悟一つで切り抜けられる状況は終わっても覚悟は必要、か」
薄暗い天井(の位置にある床)を仰ぎながら俺は嘆息し、躊躇なくマスクで顔を覆うのだった。
――リリーを想えば間抜けに死んでも構わない。なんて、この感情が
――それでも良いと思えたのだ。
――想えてしまったのだ。
「む、異常は、ないか?」
マスクを着けても肉体に危険はなかった。苦しくもならないし、痛みもない。俺の何かが欠けるような事態にもなっていない。呪いを受けた感触もない。
そして付け外しも大丈夫だ。このマスクに害はない。いや、むしろ。
(呼吸が楽になっている?)
どうにもこのマスクをつけた後から水の瘴気の影響を受けない呼吸が可能になっていた。無論マスク特有の息苦しさというものがあるが、それでも、今までより格段に呼吸は楽だ。瘴気に関わらない清浄な空気による呼吸ができている。
この、口の左右についた筒のようなものによる力か?
「なら……」
マスクに覆われている為にくぐもったような声が出る中、足を動かし水の壁の先に進む。浮いていた身体が完全に浮力に包まれるも俺は鎧を身に着けている。浮き上がること無く、そしてこの瘴気の性質の為、沈みきることもない。
今までと同じだ。そして今までと変わっていることもある。
(水、だな)
妙な性質があるものの、これは完全に水であった。鎧の内側に水が入ってくる。服が水に浸かり、気持ち悪さと少しの重さが身体に加わる。
マスクに異常はない。そしてマスク越しなら水中でも呼吸ができていた。生存が可能な、清浄な空気を得ることができていた。
(先に、進んだ。進めたぞッ……)
地面を蹴るようにして、泳ぐようにして更に先へと進む。高揚する気分のまま通路を抜けようとして、警戒の為に拳を構える。
俺が進んだことに起因してか、先の通路より半魚の兵士がぬるりと現れたのだ。以前の通路と違い、半魚兵士の動きには水棲の生物が水中にいるという脅威が感じられる。
俺は炎剣を鞘から抜き、む、と眉を寄せた。
(流石に水の中では炎が弱まっているか……それでもッ)
清浄な空気を得られるようになったことで純粋に強いオーラを練れるようになった。聖言の効果が弱まっていても、それならば不利ではない。
(お、らァッ!!)
床を蹴り、半魚兵士の突き出してきた槍を上方へと浮き上がることで避けるとそのまま回転しながら剣を振り下ろす。オーラに包まれた長剣によって半魚兵士は身体をいくらか斬られるもその肉体は槍を動かし俺を狙ってくる。水中を蹴るように泳ぎ、その場から逃れつつ、袋から取り出したクロスボウで半魚兵士を牽制する。
(ここでも俺は戦える。戦えるなら!!)
先へ進めるのだ。
聖なる太矢に怯んだ相手の懐に踏み込み、一閃。返す刀で更に一閃。
今度こそ身体を完全に断たれた半魚兵士が消滅していく中、俺は前を見据えるのだった。
(リリー。待っていろよ……!!)
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