079


 致死が目前に迫っていた。青い水のような世界の中、俺は小さく息を吸う。

「ビビってんなッ……! こんな状況、これからいくらでもある!!」

 未だ探索は塔の中途。その状況で音響手榴弾の残量は3。

 水棲系のデーモンが蠢くこのダンジョンで、音響手榴弾は命綱と言ってもいい。それが残り3など心許ないという状況ではない。どう考えても致命的だ。態勢を立て直す必要がある。

 それでも、それでもだ。ぎしりと歯を噛みしめる。

 俺もそこまで馬鹿ではない。戦士が退ける戦いから逃れることは恥ではない。猪突や蛮勇は状況を見極めて奮う必要のある武だ。無闇矢鱈と奮うものではない。

(だが、俺は退くわけにはいかないんだよ!!)

 この先に用がある。俺はここを抜けなければならないのだ。

 歯を噛み締め、正面を見る。相も変わらずこの空間では踏ん張りは効かない。盾で受ければ流されるのは必定。

 その中でも俺は敵を見据え、全身に力を込める。

『―――――ォオォン』

 そこにいるのは死鮫が2体・・だ。競うように俺の持つ盾に奴らは食らいつき、盾を破壊し、俺の命を奪おうと牙を剥き襲いかかってきている。

「ぐ……ぐぉぉ……おおおおおお!!」

 死鮫が二体ともなれば、盾で抑えきれる限界を超えていた。だから一体の鮫と戦う時よりも高速で流されているし、その上二体がかりな為か、流され方もめちゃくちゃだ。

 全身の筋肉に掛かる負荷は恐ろしいほどで、鎧に包まれた肉体が壁や床にぶつかる度に軋みを上げる。


 ――状況は絶望的か?


 ――どうにもならない状況か?


(――そんなことはない!!)

 自問に強い意思で拒絶を返す。俺の力量を越える危地などいつものことだ。この程度、狩人と狼に比べればどうにでもできる。

 状況はまだ絶望的ではない。

 死鮫は脅威だが一体ずつだけなら、この塔の中で何度か倒している。石像のボスデーモンとの戦いで肉体も成長した。ついでに言えば探索に次ぐ探索で、この水の中のような瘴気での戦いもいくらか慣れてきた。

 声を出すのも辛い状況だ。心の中だけでも高らかに声を張り上げる。状況は絶望的ではない! と。

 故に、とれる手段も、ないわけではないのだ。

(音響手榴弾と『龍眼』。この2つであれば……)

 水棲型のデーモンは音に弱い。音響手榴弾は水棲デーモンの動きを止める効果がある。それは強大なデーモンである死鮫とて例外ではない。

 そして敵の動きを止めたなら『龍眼』の出番だ。音響手榴弾の効果はそう長く続くものではない。ないが、その瞬間だけは俺に絶対的な優位があることは間違いがない。

 音響手榴弾を用い、死鮫が動きを止めたなら、龍眼で即座に弱所を暴く。そこに炎剣を叩きこみ続ければ奴らが停止している間に、死鮫を一体は仕留めることができるだろう。

 あとは残る一体を悠々と仕留めればいい。

 現在の状況に関する完璧な手順パーフェクトプラン。それが俺の中にある。

(だが、駄目だ……ッ)

 手順は完璧でも、それは後のことを考えない全力での話だ。

 現状、音響手榴弾の残量が問題なのだ。前回のボスデーモン戦で使いすぎたこともあり残りの数は3。こういった場面で消費し、次のボスで音響手榴弾が必要な場面に遭遇してしまったなら、そこで俺は死ぬだろう。

(……やはり、戻るべきなのか?)

 幸いにも、この場を切り抜けるだけならば、先の手順で問題はない。それに、だ。探索もそこで取りやめず、ボスの位置や姿形だけでも確認した後に一度戻るならば今回の探索は無駄にはならない。

(ならないが……時間を消費することになる)

 考えながら盾の隙間より死鮫に炎剣を叩き込む。しかし、2体を同時に相手取るならば攻撃はどうしても浅くなる。剣で深くまで刺し貫くことはできない。

 袋の残りスペースを意識して、槍を持ってこなかったことが仇になっていた。この状況でも気軽に使い捨てられる槍があったなら鮫の一体に深く槍をぶっ刺し、オーラを流し込んで痛打を与えられただろう。

(ちぃッ、炎剣に慢心し、備えを怠ったかッ)

 同時に、衝撃が背中に来る。流されに流され、通路の終点。突き当たりにある扉に叩きつけられたのだ。

(しまった。このままでは押し込まれッ……糞ッッッ!!)

 死鮫の牙や目の粗いヤスリのようにザラついた肌による体当たりは盾で防ぐことはできる。

 しかしそれは、死鮫に俺を殺すことはできない、ということにはならない。

 二体の死鮫がじりじりと俺を扉に盾で挟み込んでいく。運悪く、いや、当然のことながら、挟み込まれれば体勢も悪くなる。腕にまともに力を入れられなくなる。

「あ……ぐ……が……」

 巨大な盾が顔や身体にびったりと押し付けられる。鮫と直接触れることはないが、盾を支えることもできなかった。

 奴らの圧力は、人一人の筋力で跳ね返すことができるものではない。ぎちぎちと呼吸が苦しくなっていく。このままでは圧死は確実だ。

(ベル……セルクを使うか……!?)

 自力発動型のベルセルク。あれならばこの窮地を一瞬だけどうにかすることが可能な筈だ。押し込まれたが故に、背を支える扉があるが故に、この選択肢が手段に入る。

 俺を通して死鮫二体の圧力を受けているからだろう。メキメキと背中の扉が軋みを上げた。この扉が壊れるのが先か。俺が圧死するのが先か。

 それとも、音響手榴弾を使うか。――死ぬ前に、決めなければならない。

(リリーを……見捨てるのか?)

 撤退することは、俺の中では最早リリーを見捨てることと同義となっていた。そもそもが今この瞬間にも彼女の魂は崩壊していてもおかしくないのだ。一度戻って体勢を立て直すとなれば、俺が彼女リリーにできることは完全になくなる。

(この塔にリリーの望むものがあると限らなくてもだ……ッ)

 俺だって、ここに呪いを解く道具があるなんて本気で思っちゃいない。リリーの解呪はダンジョンにとっては意味のないことだ。だから、俺の進む先にそれがぽん・・と置いてあるなんて、そんな都合の良いことは期待しちゃいない。

「それ……でも……ッ」

 盾から迫る圧力は、俺の身体の許容を超え始めていた。死鮫一体でも、装備のない俺の手に余る相手だ。それが2体ならば、ここを切り抜け、進みたいのならば、もはや恩義が云々言っている場合ではない。


 ――決断しなければならない。


 ここに解呪の道具があるとは限らない。

 しかし、ないとも限らないのだ。

 可能性は0ではない。0でないならば、俺がそれを追うことは無意味ではない。

(撤退は、でき……ねぇ……)

 恩義はある。税を払ってもらった。俺が犯罪者になることを防いでくれた。俺は彼女の命を助けたが、同時に何度も命を助けられた。

 彼女を助けるのは、侠として当然の恩義がある。

 しかし……それだけではない。それだけではない感情もまた俺の心にあった。

 それがなんなのかわからない。

 しかし、リリーを想うと心に小さく灯る感情。それは人が人に抱く暖かな何かだ。

(……俺は、何を……いや……惑うな……感情を誤魔化すなッ)

 恩義だけではないのだと。俺は……俺が、奴を助けたいから助けるのだと。

 それがなんであろうと、今此処で、俺の決断を後押ししてくれるならなんでもいい。


 ――決断しなければならない。


 死鮫の圧力はもはや俺を殺しかねないところまできている。息はできない。圧力で身体は悲鳴を上げている。ミシミシと鎧からも金属の悲鳴が聞こえ始める。

 俺はここで死ぬわけにはいかない。しかし逃げるつもりもない。これは俺が逃げる場面ではない。

 ここで逃げることはリリーを見捨てることだ。


 俺はリリーを見捨てない。必ず――奴の望みを叶える。


 ……最早リリーの終わり・・・は必定だが、だからこそ奴の生を無意味にはさせない。

 だから、ギシギシと、息もできずに圧死しそうな中でも、盾の向こう側にいるだろう死鮫を睨みつけながら、決断する。

 音響手榴弾。これを使わずにこの場をどうにかする。

 手持ちの道具を頭に思い浮かべる。どうにかできる手段はあるか? あるかもしれない。ないかもしれない。

 圧迫は強く、もはや俺が圧死するのは時間の問題だ。肉体の限界は近く、悠長に手順を組み立てる暇はない。

 戦士の直感で、倒さなければならない。

(まずは――何事も――呼吸だ……)

「ぅ……ぉぉおおおおおお……」

 やることを決めたならば、そこに全力を尽くすのが辺境人だ。体内に残った酸素を使い切る勢いでオーラを集め、全力で、根性で、盾を一瞬だけ持ち上げ息を吸う。

 だが、それだけだ。一瞬呼吸ができただけ。鮫の圧力は凄まじく、たったそれだけの行動でミシミシと筋肉が悲鳴を上げ、盾を二度持ち上げることは不可能となる。

 だが、呼吸が一度できればいい。呼吸さえできれば――全身に力を行き渡らせられる。

(おぉぉお、ベル――セルクッッッ!!)

 その力でガン、と盾を跳ね上げる。身体の底の底から力を絞り出すこの技法は、その直後に極大の疲労が身体を襲うという悪点があるが、今はその一瞬が重要だった。

 盾は跳ね上げたが、即座に死鮫は再度の突撃を敢行するだろう。どうにかしなければならない。

(どうやって? 死魚は音に反応する。ならば――)

 全ては戦士の直感だ。何か根拠があったわけでもない。しかし、一瞬でも気を逸らしてくれ、そんな祈りを込めて指に魔力を注ぐ。


 ――魔術『妖精の声』。


 キャハハキャハハと、俺が指差した場所より誰とも知らぬ音が響いた。

 これは妖精の祝福により微量の魔力でも発動する魔術。ただ指差した場所に音を発生させるだけの魔術。死鮫の前だというのに、盾も構えず効果が発動した瞬間に俺は次の行動に移っていたが、しかしベルセルクによって俺からほんのすこしだけ距離を離された死鮫どもは確かにその音に反応し、俺への追撃を戸惑った。

 一瞬、しかし、万金の価値ある一瞬。それだけで十分だ。蓋を開けるのももどかしく、死鮫がこちらを向き直した瞬間には、縁を指で叩き割った水薬を俺は飲み干していた。

 瓶を投げ捨て、剣を片手にがっしりと盾を構える。

「おぉおおおおおおおおおおお! 来いッッッ!!」

 死鮫が二体ともに突っ込んでくる。先の俺ならばこの突撃を防ぐことはできなかった。突撃を抑えることもできずただ潰された。

 しかし俺は奴らの衝突のタイミングで盾を正面に思い切り突き出し、死鮫の鼻面を2体纏めて叩き潰す!!

(これはただ力だけあっても無理だった。しかし、このように背後に扉があるなら、力を上手く奴らに伝えられる場であるなら、奴らを弾き飛ばすこともできる!!)

「ざまぁみろ!!」

 先ほど飲んだのは『筋力上昇の水薬』だ。鮫を抑える力がないなら、鮫を抑える力があればいい。そんな単純なことを追い込まれていたが故に俺は気づけなかった。

 同時に、ベルセルクの自力発動で失う筈だった気力も水薬によって回復していた。いや、一時的な力の増強が疲労を消し飛ばしているだけなのか。

(検証などどうでもいい。今は俺に力があることが全てだ。早く、早くッッ仕留めなければッッ!!)

 肉体に宿る巨人が如き力で戦況は逆転できた。しかし、それはあくまで薬が効果を発揮している短時間のみだ。

 鼻面を叩き潰され、突進を潰された死鮫達。痛打は与えたが致命ではない。故に、敵の動きが止まったその瞬間に攻め入り、その頭を力任せに炎剣で両断する。

 剛、と小気味良い音がする。

 同時に痛打から復帰したもう一体の死鮫が俺に襲いかかってくるも、俺は片手に持った盾でもう一度鼻面を叩き潰した。こちらはまだこの程度でいい。

 俺は炎剣で斬りつけた死鮫に視線を戻す。

 まずは一体だ。一体を潰す。頭から斬りつけた死鮫は弱っているようにも見えるが、その瘴気の核は未だ健在だ。何より、この程度で死鮫が死ぬわけがない。


 ――故に『龍眼』。


「弱所は見えたッ! 喰らえぃ!!」

 死鮫はタフだが頭を斬られ瘴気の構成が緩まない筈がない。俺はのたうち回る死鮫に近寄ると龍眼で見えた弱所に全力でオーラを込めた剣を叩き込む。

 一撃一撃叩きこむ度に、今まで以上に死鮫の瘴気が削れていく。

 気づく。薬の効果である剛力もまた神秘の一種なのだ。力が常人離れしているということはそれだけ剣にデーモンを殺す為の神秘を載せることなのだと。


 ――強いということはそれだけで破格の神秘だ。


「おらぁッ!!」

 叩き込んだ剣先が死鮫を構成する何かを燃やし、破壊する。核を壊したことで死鮫デーモンの身体が消滅していく中、俺は適度に盾を叩き込み、攻撃を抑えていた死鮫に向き直る。

「おう、お前もさっさと死ねぃ!!」

 俺を殺しかけていたデーモンどもは、分も掛からずにこの世から消えていった。



 死鮫の残した銀貨ペクストを拾いながら俺は息を吐く。

「……リリー。諦めるなよ……」 

 決断はした。もはや何があろうと俺がこの塔から逃げ出すことはないだろう。

 俺にできることは、この選択に力を尽くすことだけだ。

(神々よ。どうか、どうかリリーの旅路に幸いあれ)


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