一階 善神大神殿前広場
064
「……人がいる、のか?」
猫のいる階層。転移のスクロールを破き、戻ってきたのだが。
俺は少し目を瞬く。
「あれは、鍛冶場か?」
神殿前の広場には小さな小屋ができていた。そして、小屋から漏れ聞こえてくる炉が燃える音と、鉄を叩く音。
何が起こっているのか。軍が? だが、軍というには小屋の規模が小さい。軍規模なら鍛冶場ももっと広いものを作るだろうし、拠点施設も充実している筈だ。
「あー。なんだ、どういうことだ?」
とにかく事情が知りたかったが、ここのことならずっといる猫に聞くのが一番だろう。
どこにいるのかとあちらこちらに目を向ければ聖域の中心に座っている男女が目に映る。
思わず、目を瞬いた。自分が見ているものが本物かと疑った。
「は……?」
男女は俺に気づくと聖域の地面に降ろしていた腰をゆっくりと上げ、こちらに近づいてくる。
(……は?)
「戻ってきましたか。キースと言いましたね」
「え、あ、あ、は」
「キースでよろしいですか?」
金糸で装飾された純白のフードを被った少女。それが俺に問いかけてくる。
俺の膝から下がすとんと地面に落ちた。誰にやられたわけでもない。
目の前の相手を認識した瞬間、己から、高速で、できるかぎりの早さで地面に膝をついた。間髪容れず入れずに頭を地面に擦りつけた。
しっかりと叫ぶ。
「はッ。はいッ。ダベンポートのキースでございます!!」
心底から湧き上がるのは、何故、という感情だ。
(なんで、なんでここに……ッ! なんで、こんなところに……ッ!!)
――
「そうですか。キース。
「ははッ、有り難きお言葉!!」
そう畏まらずともよろしいのですが、なんて声も聞こえるが、俺は顔を上げられない。
何しろ俺の目の前には、辺境の信仰を一心に集めるゼウレの本物の聖女がいるんだぞ? アザムトによって奈落に叩き落とされた偽物じゃない。
生まれた瞬間に善き神々によって祝福され、数多の奇跡の行使を許された、本物の聖女様が目の前にいるのだ。
感動が、波となって口から漏れる。
「おおぉぉぉ……ありがたやありがたや」
もう、なんというか、全身全力で聖女様に向かって祈る。
ああ、眼福というか、幸福というか、傍にいるだけで神の恩恵を感じて仕方がない。
地に伏せているのに、なんだか自分がとてつもない幸福の中にいる。そのような実感がある。
あああ、まさか聖女様に直接声を掛けてもらえる機会があるとは、本当に、生きててよかった。生きてここまで戻ってこれてよかった。
「キース、顔をあげなさい」
聖女様に声を掛けられる。ありがたやありがたや、俺は地に顔を伏せ、聖女様に向かって祈りを捧げた。
顔を上げろと言われたが、そんな恐れ多いこと俺にできるわけがない。直視したら神々しさに目が潰れるかもしれない。
「……はぁ……聖女殿。朴訥な民が貴女を直視するのは辛いかと。それに我々も暇ではない。せっかく予言の巫女にキースの帰還時間を予言させてまで時間を合わせたのだ。さっさと要件を済ませるとしましょう」
聖女様の隣に立っていた高位の神官らしき人物が、聖女様にあれこれと言っている。聖女様のお付きということは、この方も恐らく、俺が直接目通りすることなどできない高位の神官様に違いなかった。
「そうですね……ではキース」
はッ、と俺は平伏したまま問い掛けに応える。
聖女様は少し口篭りながら、それを告げる。
「申し訳ありませんが、暗黒神の攻勢が増す今、軍は破壊神への対処へ戦士を回すことができません。よろしいですか?」
「はいッ。構いません!! 命に替えても破壊神を私単独で仕留めてみせます!!」
「……キース。命に替えられては困ります。殺したなら生きて帰ってきなさい。破壊神を倒すほどの戦士、これからの辺境の為にもむざむざ失うわけには参りません」
ははッ、と平伏する。そもそも殺せるかなど全くわからないのだが、この聖女様が要請するなら生きて帰らなければならないだろう。
こんな俺になんとも過分なことだが、直接ゼウレの聖女たる聖女様に声を掛けられ、あまりの幸福に感覚が麻痺してしまう。
そんな俺に神官様が言葉を掛けてくださる。
「キース。だが辺境郡はお前を見捨てない。地上の村の司祭、アレの要請もあり、ドワーフ鍛冶一人と時の経過を恐れない冒険者を一組用意した。双方、お前に助力するように言い含めてある。上手く使いたまえ」
神官様の言葉に、ははッ、と平伏したまま答える。
ドワーフ鍛冶。見知らぬあの小屋のことだろう。冒険者はわからないが、時の経過を恐れないという一点はありがたい。問題なく一緒に戦ってくれる筈だ。
「それと、キース」
温かい手が頭に触れた。聖女様が祈りの言葉を唱えると身体にこびりついていた瘴気が浄化されていくのを感じる。
「この程度しかできぬ我が身を許して下さい。それと……キースが前回地上に戻ってより、一年の時が過ぎています」
「……はッ」
思っていたよりも長い時間だった。……深層探索ともなれば、1日で10年以上の時が過ぎるかもしれない。時間が経てば経つほど地上で俺を覚えている人間はいなくなっていくだろう。少しだけ心の底が重くなる。
「恐らく、この神殿を探索していく中で貴方は地上の時から忘れ去られていくでしょう」
聖女様の言葉に、ははッ、と俺は頭を下げるばかりだ。やると決めた。しかし、それがどうした、とかは言わない。確かに平気ではない。地上にあるつながりは少ないが、それでもないというわけではないのだ。
心が痛む。それでも、やらなくてはならないことだから、やるしかないのだが。
「愛。絆。土地への愛。辺境の戦士はそういった繋がりを重視します。……キース。貴方のことは調べました」
聖女様の言葉に、俺も自分の境遇を思い返す。
俺の生まれ、俺の育ち。故郷もなく、伴侶もなく、育ての親さえも失った俺。
知り合いはいる。だけれど、地上で俺は、たった一人だ。
「時の流れは地上の絆をいとも容易く押し流し、愛で戦う戦士を弱らせます。深層まで行けば、地上との時間の流れは如何程になるか……故郷を思うが故に、繋がりがあるが故に、辺境の戦士は先に進めなくなるでしょう」
だからゼウレは地上との繋がりのない俺を選んだのだろうか? 感傷的になる俺の頭を聖女様はゆっくりと撫でた。
「進むには強い力か、孤独故の無情さが必要でしょう。私は、地上と繋がりの薄い貴方にしか破壊神は殺せないと思っております」
「……はぁ」
威勢のよいことを言ってしまったが。実のところ、殺せるのかはわからない。殺すしか無いけれど。生きて帰れる保証もない。
しかし聖女様は俺の技量を問題視してはいない。資格があるなら殺せる。そういった風情で話を進めている。
「しかし、愛のない戦士にデーモンは殺せません」
……言葉が胸に刺さる。俺の未熟。それもあるが、やはり聖衣がなくては本当に恐ろしいデーモンとの戦いはこなせないだろう。
苦戦を覚悟する俺に、聖女様は小さく笑みの篭った言葉を落としてきた。
「しかし私は心配してはいません。ゼウレもその程度は考えています。我々が無理に用意しなくとも、キースには
聖女様の声に少しの痛みが籠もる。神官様の慌てた声。
「何もそこまでッ!!」
「私ができるのはここまでですから……神に挑む戦士には足りないでしょうが……ッ」
ぽたり、と頭に何かの液体が滴る。……流石に気になって目を開き、見上げる。
(なッ……)
――聖女様の腹に、聖女様の腕が埋まっている。
聖女様の身を包む白の聖衣を、聖女様ご自身の手が貫いていた。
「さぁ。キース。微力ですが私の力を貸しましょう」
噴出する聖女様の血が俺にかかる。祝詞を唱えながら聖女様が俺の額を中心に血で文字を描く。
「キースに私の血を媒介に、ゼウレの強い守護を授けました。守護は深層の瘴気による肉体の変質を抑えてくれるでしょう。それとこれを」
さぁ、受け取りなさいと言われ、ははッ、と両手を捧げれば、手に硬質の白い物が置かれた。
「私の肋骨を一本授けます。キース、貴方が如何に時の流離を平気と思おうとも、地上との乖離は貴方の心を相応に消耗させるでしょう」
肋骨に向けて聖女様が呪文を唱える。じわりと手の中の肋骨が熱を孕んだ。
「そこの聖域を見たので、貴方が使える聖域に関しては把握しました。その肋骨には、貴方が刻んだ聖域間を転移できる奇跡が込めてあります。少しの信仰心と少しの魔力を必要としますが、これで探索を楽にしなさい」
……それは、そのすごく助かるのだが。
じわりと手の中で熱を孕む聖女様の肋骨。
(……い、いいのか? 俺がこんな、こんな待遇を受けて、いいのか?)
辺境では俺は未だ、土地の者ではない。ジジイの土地を受け継いだが、村の人間から見たら俺は、流れ者だ。
俺が辺境の人間であることは確かだが、別に、そこまで土地に根付いているわけではない。
見上げれば、こくりと聖女様は俺の不安を消し去るように微笑んでいる。
こ、ここまでされていらないとか言えない。光栄すぎて身に余りすぎる。
だが、その暖かさが、嬉しい。
「ありがたく頂戴いたしますッッ!!」
はい、と聖女様が頷いた辺りで、神官様が「聖女殿。もういいでしょう。これ以上は暗黒神との戦いに障ります」と聖女殿と腹に向けて治療の奇跡を用い始める。
「枢機卿。申し訳ありません。私もここまでするつもりはなかったのですが……。このダンジョンを見て、少し気が変わりました」
「聖女殿?」
「報告にあった以上に、実物を見ればなかなかおもしろいところですよ。ここは」
ゼウレの神託が私にあれば、私自身が挑んでいたでしょう、などと聖女様が口角を釣り上げながら、神官様……枢機卿を手で下げさせる。
枢機卿だったのか。俺が一生を費やしても会えるかどうかわからんほどの高位すぎる人物に、頬が引きつる。
「もういいです。血は止まりましたので。骨に関してもこのままでお願いします。治してしまいますと、キースに渡した肋骨との繋がりが消えて力を失ってしまいますからね」
呪物の関連性についてだろう。恐らく聖女様から賜った骨は、未だ聖女様との繋がりを保っているのだ。
呪術では分かたれたものがそれぞれ別の場所にあっても、同一のものとして扱う法則がある。
治してしまえば、重複存在の否定により、この骨はただの聖女の骨となる。死体と同じだ。聖なる力はあるが、ただそれだけの骨となる。
だが聖女様が傷を癒やさないなら、この骨は、骨でありながら、聖女様自身となる。
俺の手の上にあるのは奇跡を行使する聖女そのもの。あいにくと俺にはこれを刻まれた聖言以上に使う術はないが。
僅かな消費で俺が奇跡を使えるようにとの心遣いに胸が熱くなる。
「非才なる我が身に、過分なものを、ありがたく頂戴いたします」
「キース。神々は貴方をいつでも見ています。そして辺境は貴方が戦っていることを忘れません」
「さぁ、聖女殿。用は済みました。そろそろ行きますぞ」
はは、と平伏する俺。枢機卿が俺をちらりと見て、戦勝を祈る聖なる言葉を呟いた。
「キース。お前が無事破壊神を滅ぼすことを祈っておこう」
小さく手を振った聖女様。ではなと枢機卿。
そして、厳かに転移の呪文を唱える枢機卿によって、彼らの姿はこの地下から消えていく。
『聖撃の聖女』エリノーラ・
現在の辺境に存在する真なる聖女の一人。
故郷から贈られた手厚い支援に、俺は彼らが消えても少しの間、神に感謝の祈りを捧げ続けるのだった。
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