ある忠臣のこと

かいHけいじゅうろう

第1話



 あの日のことは、忘れようもありません。それは私の如何様にも償いきれぬ罪を負うた日でございますから、忘れようとて、忘れうるものではございません。

 どうか神父様、ご親切に素直に甘えさせて頂きます。年寄りの世迷い言と思ってくだすっても構いません。どうぞ今暫し、わたくしの懺悔をお聞き届けくださいませ。



 わたくしは歳若い頃には酒場の給仕女をしておりました。そこからひょんなことで、地方ではございますがその一帯の御領主様と縁ができました。

 わたくしなぞ身分も教養も無いただの給仕女でしたから、一体どうしたことであのお方の目にとまったものか今でもちっとも分かりませんが、わたくしたちは恋に落ちたのでございます。

 御領主様はその時お若い身で既に妻を亡くされており、それはそれは周りの者に反対をされましたが、わたくしを後妻に据えられました。わたくしのようないやしい身分で図々しくもそんな立場になろうとは金が目当てに決まっていると、随分厳しい扱いもされましたがあいにくと、わたくしにとりましては幸いなことに、あのお方もわたくしもお互いにお互いを心底に愛し合っておりました。

 ですから周囲が何を言おうともどうということはございませんでした。



 そんな中で、わたくしたちの結婚に反対しなかった者が一人だけおりました。あのお方の一番の忠臣、領主付の騎士でございます。地方にあっては領主付の騎士というのは、騎士というよりも腹心として働く者という体でした。

 二人ともが幼い時分から傍らにあって、ずっと支えてきたのだということでした。

 彼は大変に優秀な男で、そして今思うに誰よりも、心底にあのお方を愛していたわたくしよりも、あのお方を大事に思っていたように思います。


 彼はあのお方が望むことならばと、わたくしたちの結婚に反対することこそありませんでしたが、その分わたくしに大変に厳しく、しかしどこまでも正しく色々なことを学ばせてくれました。真にあのお方を愛しているのなら妻としてあのお方に恥をかかせぬ女になれと。言葉遣いに始まって様々の作法や所作。愚かな子供のようにその厳しさに反発することもありましたが、愛するあのお方の為ならばと一年食らい付いて、ようよう淑女の見習いくらいにまではなれていたと思いたいものです。


 しかしながら、結局のところ、彼という優秀な腹心と厳しくも正しき教師を得ても尚、わたくしたちは恋の病に憑かれた愚か者でございました。


 ある年の春のことでございます。


 あのお方が御公務にて領外へ赴かれるということで、それに無理を言ってわたくしも付いて参りました。ええ、無理を言ってでございました、その時にも止められていたのでございます。と、申しますのも道行きにその頃とみに治安の悪くなっていた地域を通り抜けねばならず、警護の必要なものは極力に少ない方が良いということだったのでございます。

 しかしながらわたくしたちは片時でも離れているのに耐えられぬと、我が侭を通したのでございました。


 そうしてそれから尚一等愚かだったのは、再三の注意を軽く見たわたくしたち夫婦は旅中夜に抜け出し逢い引きなぞしようとしたことでございます。


 その夜わたくしたちは宿から抜け出しました。優秀な騎士を出し抜くのに宿の小間使いにこづかいを渡し、付近に怪しい輩があるという噂をでっちあげ報告させ、彼がわたくしたちに決して部屋を出ぬようにと告げてから見回りに行った隙に抜け出したのでございます。彼の他にも侍従や警護のものは幾人かおりました。しかし彼に比べればみな、わたくしたちも含めてですが、田舎の呑気ものだったのでございます。

 抜け出したわたくしたちは街道を少し外れた山裾へ出ておりました。その頃は春の花が見頃で、明るい月に照らされてそれは見事でございました。わたくしたちは二人でそれを見惚れて眺めていたのでございます。


 身形の良い男女がたった二人、実に無用心に人気の無い夜道を歩いているのです。どんなに明るい月夜でも夜道は夜道、それがどんなに危険なことか。愚かなわたくしたちはそれをすっかり忘れてしまっておりました。


 ええ、そしてわたくしたちは夜盗に襲われたのでございます。


 恐らく既にわたくしたちの不在に気付いて付近を哨戒していただろうあのお方の騎士は、殆どすぐにわたくしたちのもとに駆け付けてくれました。しかしながら既にわたくしたちは二人とも別々に夜盗の男に腕を捕られ、身動きの出来ようもありませんでした。


 騎士は、彼は、文武ともに大変優れた人でしたから、きっとその場に六人か七人かいた夜盗も、彼一人でも倒せたことでしょう。


 ええ、ええ、もし本当に彼一人だったならば。


 あのお方もわたくしも夜盗に人質に取られ、彼は夜盗に抜き払った剣を向けながらも動けずにおりました。夜盗もまた彼の腕の立つのが見て取れたのでしょう。奪った金子を持たせた男を先に逃がし、わたくしたちを盾にしてじりじりと後ずさるようでした。後ろ手に両の腕を捕られ、わたくしは喉元にナイフをあてられました。

 首も動かせずあのお方の方を見て確かめることはできませんでしたが、きっとあのお方も同じようにされていた筈です。

 わたくしはただ、悪夢のような事態に震えるばかりでございました。


 ……ああ、その時のことでございます。あのお方が、私のことは良いから彼女を救ってくれと、どうか私の心をこそ救ってくれと、そうおっしゃったのでございます。

 けれどもわたくしは、そんなあのお方の願いを彼が、他ならぬあのお方の騎士が果たして聞き届けるものかしらと思いました。

 そしてこの願いばかりは聞き届けなければ良いと。騎士の腕でも二人を同時に救うのは無理なこと。わたくしを先に助けては、あのお方の命が無事では済まないかもしれません。

 そうしてあのお方のわたくしを案じる言葉を聞きながら、わたくしはそれを嬉しく思い、それと同時にあのお方を誰より大事に仕える騎士ならば、例えわたくしを見殺しにしたとしてもきっと過たずあのお方の方をこそ救ってくれると、どこかほっとした気持ちにさえなっていました。 あのお方のわたくしを案じるお心を最期に頂けたのならば、それで死んだとして悔いることなど無かったのでございます。


 しかしながら、彼は、あのお方の願いを聞き届けてしまったのでございます。


 そのあとのことを、あまり詳しくは憶えておりません。


 ただ、騎士はわたくしを捕らえていた夜盗を切り捨てると、咄嗟のことに動けもせぬわたくしを抱えてその場をさったのは確かです。

 それを機に夜盗らも恐らく、あのお方を盾として連れたまま逃げたのではないでしょうか。


 騎士はわたくしをもと居た宿へ連れ戻しました。 わたくしは、そもそもの己の愚かさを棚に上げてあのお方ではなくわたくしなどを助けた彼を詰るべく口を開いたのですが、どうして、とまで言ったところで彼の目を、怒りと、はかりようも無く深き嘆きと哀しみに満ちた彼の目を見てしまったら、それ以上には口もきけなくなりました。

 彼は騎士の証である胸章をむしり取るとわたくしに預けました。

 彼はわたくしに、主がその御心と言って望んだ命であるからにはその命粗末にすることは許さぬ、そう胸章と共に言い残し、宿に残っていた傍付のものに何事かを言い付けると夜闇の中へと駆け去りました。


 ああ、あのお方のもとへ行くのだと彼の背を見ながら思いました。


 それからは、慌てた様子のものたちに運ばれてわたくしは気付けばあのお方の自領まで戻っておりました。

 騎士もあのお方も、二日経てども三日経てども戻っては来ませんでした。

 その間わたくしは呆けたまま、殆どずっと騎士の胸章を握りしめていたそうです。わたくしをよく思わぬ家中のものらに、わたくしが夜盗と繋がってあのお方を亡きものにしたのだという嫌疑をかけられてもいたそうですが、それもはっきりとは憶えておりません。 ただ誰かにお前があのお方を殺したのだと言われて、騎士が連れて戻って来るに違いないのに何を言っているのかしらと思う気持ちを抱いていたのと、それにほんの少しの正気が、そうだわたくしがあのお方を死なせてしまったのだと囁いていたのと、かすかにそんなことを憶えております。


 わたくしの嫌疑は、急の凶事に事態の収拾を進めるべく遣わされた隣地の領主付の騎士の方が晴らして下さいました。

 この方はあのお方と騎士とは旧知でいらっしゃるそうで、あの騎士が胸章を預けて帰したというのならそんな疑いをかけるべきものではないということだ、と請け負って下さったのだそうでございます。今思えば騎士がその胸章をわたくしに預けたのも、こうなるのを見越してのことだったのでしょう。

 この隣地の騎士の方については、随分に寂しげなお声で、恐らくは誰に聞かせるつもりもない呟きだったものと思います。小さなお声で、奴は仕える相手を間違えたのだ、とおっしゃられたのが忘れられずにおります。


 奴というのは、あの騎士のことだったのでしょうか。


 わたくしはその後すぐに、元々は身分もない女でございますから、あのお方とそれを支える騎士という後ろ楯を失っては領主家を出されました。

 憔悴したきり窶れてゆくばかりのわたくしへの憐れみか温情か、或いは余計なことを言い出さないようにという意味だったのか、大層な金子と、これも温情だったのか見張りがわりだったのか若い下女を付けられました。ええ、先程の彼女でございます。

 例え見張りだったのだとしても随分良くしてくれましたから、わたくしの遺産になるものはみな彼女に遺そうと思っておりますのよ。遺書も別所に預けてありますけれど、よろしければ年寄りの頼みでございます。神父様もそう覚えておいて下さったらわたくしも安心できますわ。


 そうしてこれは、もうわたくしが領主家を出されたあとに噂として聞かされたことでございます。


 わたくしが領主家へ帰されてすぐ、あの夜の翌朝にはあのお方と騎士とを捜すために一隊が送られていたのだそうです。

 その一隊が調べたところ見つかったのは、山中の夜盗の根城に累々たる、全て首を落とされた夜盗らの骸。


 そしてその根城から少し外れたところには、胸の下で組まれた手に山百合を持たされて横たわるあのお方の亡骸。その傍らには、あのお方のいつも持っていた懐剣を、その胸に突き立て事切れていた騎士の亡骸があったそうでございます。


 やはり騎士はあのとき、夜闇の中を駆けていって、過たずあのお方のもとへと向かっていたのでございました。






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