下を向いて歩いたら

笑子

最低な日

「あーほんっとにムカつく!浮気野郎!最低!馬鹿じゃないのあんな女にデレデレしちゃって、その馬鹿面引っ提げてとっとと実家に帰りやがれこの早漏ダメ男!!!」


 ……なんて、まあ、言ってしまったが最後。引き返せるわけもなく家を飛び出した午前1時30分過ぎ。なんで私が出てきてしまったんだ、なんて思いつつ、もうどうすることも出来ない。馬鹿みたいに寒いのに裸足だし、つっかけだし、おまけにコートはないし、止めだ!と言わんばかりに雨まで降り出した。雨が降るなんて聞いてないぞ馬鹿野郎、いや、大馬鹿野郎はあたしだ、せめてコートぐらい着てこればよかった。

 後悔先に立たず、だっけか? 今ほどこの言葉が似合う女は、この世界中どこを探したっていやしないと思う。うっすい部屋着のパーカーのポケットに手を突っ込んでみても、そんなに暖かくないうえに、あいつが手を突っ込んで暖めてくれた記憶が甦ってきてだめだ。あたしはジーンズのケツポケットに両手を入れて歩く。なんだかヤンキーみたいだけど、寒いよりマシ。

 雨の匂いが濃くなっていく。アスファルトの色は、重たさが増していく。あたしの足取りも、よちよち歩きの赤ちゃんぐらいに遅くなる。

 携帯はない。財布もない。ただ、パーカーのポケットに100円だけ入ってた。ラッキー。けど、100円で何買えたっけ。うんうん唸りながら、クソ寒い夜道を歩く歩く、そりゃあもう歩く。だって、早漏まで言っちゃったし、すぐには引き返せない。ていうか、引き返したくない。雨脚は強くなってきてるけど。なんだったら、ザーザーなんて音が似合うぐらいには降ってるけど。でもそれでも嫌だ。

 元々はあいつが悪いんだ。会社の新人の子が可愛いんだとか、そんなの聞いてねーっつーの! 誰が新人の顔写メ見せろとか言ったよ、馬鹿じゃないの。ほんとに凄い可愛いとか馬鹿じゃないの、ねえ。あたしより断然可愛いじゃん。

 会ったこともない女、しかも断然年下で可愛い子相手に歯ぎしりしながら嫉妬して、ボロっカスに怒鳴り散らして家出するアラサーとか、ほんと、泣ける。

 もう足も手も感覚なんてほぼない。冷たすぎて何がなんだかわかんない。全身ぐずぐずだし、頭なんかシャワーでも浴びたのってぐらい濡れてるし。

 そんなことを考えていたら、公園を見つけた。ブランコと滑り台と鉄棒しかない、ちっちゃな公園。もうやけくそだ、ブランコでも乗ろう、そうしよう。

 そんで久々に乗ったブランコの鎖は鉄で錆びまくってて手が茶色になった。あーあ、鉄くさい。でも、ギィコギィコ揺れてる感じは嫌いじゃないな。むしろ好き。アラサー女が真冬の大雨に打たれながらブランコ乗って俯いてるとか、だいぶと発狂ものだけど。

 地面には靴をザリザリ擦った跡が残っていて、なんだか懐かしかった。あいつとも乗ったんだっけ。二人乗りして、私落ちたんだよなあ。全身砂まみれで帰って、お母さんにものすごい勢いで怒られた。でも、多分、今更思えば心配してくれていたんだろうなと思う。今の私の足も、もう砂まみれというか、泥まみれだ。汚れて、冷たくて。

 ぼろっ。涙が転がり落ちてきた。

 ずっと不安だった。付き合ってもう丁度10年目で、でも先が全然見えなくて。何も言ってくれないし、最近ちょっと残業多いし、なんなら休みの日だって一人で遊びに行っちゃうし。浮気でもしてんのかなとか思うじゃん。思いたくはないけどさ。信じてるけど、でも、だって。

 ああもうやだ、帰りたい。けど帰りたくない。へぶしょい、なんて変なくしゃみまで出ちゃって、もうこりゃ明日は風邪っぴき決定だ。鼻水ずるずるいわせて、ぼろぼろ泣いて。何してんだろ、あたし。

 泥まみれの靴で、また泥を蹴って、靴は飛んでいって、あたしはついに裸足。きったない足。こんな女、飽きられて当然だ。


「うええ、がえりだいよぉ」


「帰りたいなら帰ってこいっつの、どこまで行くつもりだ馬鹿」


 あたしのぼやけた視界には、裸足のきたない足と、履き古したスニーカーが映っていた。意を決して上を向いたら、怒った顔の彼氏がいた。傘さして、コート着て、マフラーつけて、暖かそうでいいですね、なんて嫌味の一つや二つ言い返してやりたい。


「うるさい! あたしなんかほっといてその女のとこでも行けばいいじゃん!」


 そんでまた要らないことを言うあたしの悪い口。もう呆れられたんだどうせ、あたしなんか。そんなこと思ってたら余計に泣けてきて、ひっくひっくいわせて子供みたいに泣きじゃくった。子供よりひどいかもしれない。


「……悪かった。ごめん。沙希と一緒に帰りたい」


「いやだ! あんたなんか知らない! あたしの気持ちなんか何っにも知りゃしない癖に! 謝りゃすむと思ったら大間違いだよ、あたしはそんなに甘い女じゃないんだよ!!!」


「……ごめん」


「それしか言えないの?! アンタほんとにバカじゃない?! 今まであたしの何見てきたってのよ! ほんっと信じらんない!」


 だんまりを決め込むこいつに、イライラして、でもそれよりも何かが追い越していった。なんだろう、ただとても寒かった。


「結婚しようね、なんて言ってたの信じてたあたしの方がバカだったってことか、はいはいそういうことね。その若い女と一発やってこれば? それで満足なんでしょ? 何も言わずに別れてあげるよあたし優しいから」


 嘘だ。ちっとも優しくない。思ってもいないトゲトゲの言葉をぶつけているだけだ。

 錆のついた赤茶の手は、ズルズルと鎖をずり落ちていく。こんな女、嫌に決まってる。どっか行ってよ、なんてまた要らないことを言おうとしたその時、よく知った手が伸びてきて、左手をそっと取られた。もう何も言う気も、何をする気も無くて、ただその光景を俯いて見つめていたら、左手の薬指に指輪が嵌っていた。


「……なに、これ」


 なんだと言われなくても分かるけど、でもそれでも、信じられなかった。え? なに? このタイミングで?


「……遅くなって、ごめん。ほんとは、もうちょっと早く渡したかったんだけど、色々迷って」


「なによ、それ……なんなのよぉ……!」


 込み上げる喜びを意地になってまだ隠し続けた。でも、もう無理だ。


「サキさん。僕と結婚してください」


 見上げた視線の先には、傘なんて放り投げて、私と同じくびしょびしょの姿で頭を下げる男がいた。その姿がたまらなく愛おしくて、かっこ悪くて、でもかっこよくて、その首元に全力で抱きついた。その瞬間背中に回された腕の力の強さといったらもう、痛いことこの上ない。でも、今はそのぐらいでよかった。それぐらい強く抱き締めて、一生離さないと誓って欲しかった。

 ひっ、ひっ、としゃくりあげながら泣く私の背中を、少々乱暴にさする手。首筋に埋められた顔から伝わる吐息。


「こち、らこそ……よろ、よろしく、おねがいしますぅ……!」


 ああもう、帰りたい。帰って、お風呂に直行して、これからのことを話して、それから。

 ごめんねって、言わなきゃ。

 ありがとうって、言わなきゃ。


 私は目の前にしゃがんだ婚約者の背中に乗り込む。雨の冷たさから逃げるように、彼の背中にぴったりと身を寄せて、涙ついでに鼻水も服で拭いてやった、ざまぁみろ。


 土砂降りの雨の中、私はケケケと笑った。





 今日は、今までで、一番最高の日だ。




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