一. 失速④
翌朝。悪い夢でも見ていたのか、なかなか起きられなかった。
部活に行っていた時は、いつも目覚ましの音とともに五時ぴったりに起きていたのに。
重たい体をなんとか奮い立たせ教室に入ると、朝練を終えたクラスメイトを横目に自分の席へと向かった。
暑そうにパタパタと教科書で扇ぐ人。早弁している人。朝練だけじゃ飽き足ら、隅のほうで素振りをする人。これは朝のH R 前の体育クラス特有の絵面とにおいで、普通科クラスでは見られない光景だと思う。
「おはよ、栗原」
こいつ――有川も例外ではなく、暑苦しい雰囲気を漂わせ、席に着いた私に近づいてきた。朝から生き生きした顔で、短く整えられた髪はわずかに濡れている。きっといつものように頭から水をかぶったんだろう。
これが夏になるとさらにエスカレートして、平気で人前で上半身裸になって水道で水浴びをする。お決まりのルーティンを繰り広げる姿が、目に浮かんだ。
「聞いてよ。今日のメニュー朝から坂道ダッシュ10本だぜ? まじきいたー」
目の前に居座る有川は、聞いてもいないのに朝練のメニューを私の耳に入れてこようとする。休部している私には必要ない情報なのに。しかもハードだとか言いつつ、顔は満足そう。メニューがきつければきついほど喜ぶ有川は、究極の練習バカだ。
「お前さ、体なまんない?」
知らん顔で教科書を引き出しにしまっていると、突然有川がそう切り出した。思わず「え?」と視線を上げる。
言われてみれば、体を動かさなくなってから寝つきは悪いし、物足りなさも感じている。
たまに誰かに無理やり手足を動かされているような不思議な感覚になったりもする。
でも毎日走って走って走り抜いていた人間がぱたりとそれをやめてしまうというのは、電池の切れたおもちゃのようなもの。そうなるのも必然かもしれない。
「俺、一晩考えたんだけどさ、夜俺と一緒に走ろうぜ」
「は? なに言ってんの?」
「部活終わったらお前んとこ行く。河川敷でも家の周りでもいい。一緒に走ろう」
いつの間にか私の机に身を乗り出した有川が、名案だとばかりに明るい顔で言う。
どうしてこいつは私を走らせたいんだ。私が走ろうが走るまいが、有川には関係ないのに。
確かに少し前までは仲間で、ライバルだった。でも私は陸上をやめると決めた。部活という接点がなくなれば、一緒にいる必要なんてどこにもない。
それに私に構わずとも有川は友達も多いし、後輩にも慕われている。だから私のことなど放っておいてくれたらいいのに。
「やだ」
「はーっなんでだよ!」
「もう構わないで。あっち行って」
有川のことを嫌いになったわけじゃない。ただ放っておいてほしい。有川を見ていると、頭の中から消し去りたいものがちらついて苦しいのだ。
「おはよー都! あっつー、朝から超頑張っちゃった」
そこに朝練を終えた栞奈が明るい笑顔で入ってきた。その手にはいつもの大きなスポーツバッグを抱えている。
そして私の斜め前の席に腰を下ろすと、制服の襟をパタパタさせながら大きく息を吐いた。
「都は相変わらず涼しい顔してるよねー、朝練なんて余裕って感じ?」
「え……? あ、うん」
栞奈の言葉にしどろもどろになっていると、有川と目が合ってしまう。
――しまった、内緒にしていることがバレた。
「さすが陸上部のエースだよねぇ。朝練くらいじゃバテないんだもん。私なんてもうダメ。今日のエネルギーほとんど使っちゃった」
無邪気な笑顔でおちゃらける栞奈に、なんて応えようかと考えるも咄嗟に言葉が出てこず、苦笑いで誤魔化した。そんな私を有川が見ている。視線が痛い。
「そういえば今日体育祭の選手決めするって先生言ってたよ!」
「そうなの?」
体育祭か。もうそんな時期だっけ。去年は入学してすぐに練習が始まって、陸上部だからという理由でリレーに徒 競 走に、問答無用でフル参加させられた。でも全然嫌じゃなかった。むしろみんなの期待に応えられたことが嬉しかった。
「うちは男女共に陸上部のエースがいるからラッキーだよねぇ。今年の優勝はうちのクラスがもらったも同然!」
そう言う栞奈の顔は、期待でワクワクしている。そんな栞奈に、実は休部している、辞めるかもしれない……なんて言えるはずがない。
「あ、私今日日直じゃん! ちょっと日誌取ってくるー」
ホワイトボードに自分の名前が書いてあることに気がついた栞奈は、慌ただしく教室を出ていく。そんな彼女の後ろ姿を見送りながら小さくため息をついていると、ずっと黙っていた有川が口を開いた。
「言ってないんだ、吉沢に」
「……うん」
「友達なのに?」
「うん」
「なんで?」
「うるさいな、いずれ言うつもりだってば!」
思わず声を荒らげてしまい、ハッとする。だけど有川は特に気にした風もなく、ふ~んと言いながら、焼きそばパンを頬張っている。
私ってば性格悪。有川だってこんな態度のままじゃそのうち嫌気がさすに決まっている。
でもそれでいい。そしたら一緒に走ろうだとか、辞めるなとか言われなくてすむ。
「まぁいいや。とりあえずさっきの件、考えとけよな」
「さっきの件って?」
「だから夜、一緒に走ろうってやつ! 聞いてなかったのかよ!」
半分笑いながら呆れたように言うと、空になったパンの袋をくしゃっと丸める。そして「夜連絡する」そう言い残すと、自分の席へと戻っていった。
「えっ、ちょっ、有川!」
呼び止めるもこんな時ばかりは聞こえていないフリのようで、自分の席に座るや否や寝る体制を決め込んでいた。
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