『練習日』その1

五月末。


 腕がプルプルと震える。だけどこの流れを止めるわけにはいかない。

 宙に浮いている三つのボールの一つ一つの上昇の頂点を見て、落下地点を予測し手を伸ばす。

 そのボールが手に収まったとき、心の中で回数をカウントする。


「九十八、九十九、百!!」


 言い切った瞬間に次にくるボールはそのまま床に落ち、残りの二個もボトッと鈍い音を出して止まった。


「で、できた」


 カスミ先輩の教えと、毎日の日々の自宅練習に音を上げながらも、何とか三ボールの基礎技、『カスケード』を百キャッチできるようになった。

 張り詰めていた糸が切れたように力が抜けたせいか、僕は背中から体育館のゴムの床に大の字になって寝転んだ。


 大きく口を開けて二回空気を吸いこんだ。

 五月末なのに全身汗びっしょりだ。


「おつかれさま! やったね」


 カスミ先輩が僕の上から覗き込むように笑いかけてくれた。

 僕も自然とニッと歯を見せた。


「これが達成感というものですか」


 カスミ先輩は再度微笑む。

 体はしんどいけど、何か高揚感というか、スカッとしている。たぶん初めての感覚だった。


「ちょっと休憩するといいよ」


 そう言い残して、他の人たちの様子を見回りに行った。

 僕はこの良い感覚にもう少し浸ろうと、静かに目を瞑った。

 だが一瞬で、この感覚は壊されるのである。


「カゲル! デカピンアタック!」

「グハ!」


 アフロ先輩の声と共にお腹に衝撃が加わる。

 目を開くと、あるボウリング場でゲットした景品のデカピンが腹に直撃していた。


 材質は安物の浮き輪と似ており、中は空気で空洞だから怪我するほどでもないが、そこそこ痛い。


 いつもなら攻撃を喰らって終わりだが、やられっぱなしというのが少々腹立たしくなってきた。

 お腹の上にあるデカピンを掴んで強引に奪い取り、一回転しながらてるやんの肩に向かってなぎ払うように攻撃した。


「うおりゃ」

「ンゲ!」


 見事直撃しててるやん先輩は少しぐらつく。

 そして僕が攻撃したことに驚いたか一瞬目を見開いた。


「カゲル。やるな」

「やられっぱなしは嫌です」


 デカピンを持った僕と、てるやん先輩が対峙する。

 奴は腰を低くして構え、ジリジリと距離を詰めてくる。

 僕は上手く間合いを取るように横に移動しながらタイミングを計る。


 そして動きが一瞬止まった瞬間に、デカピンを振る!

 同時に奴も襲いかかる!


「こら!」

「とりゃ!」


 叱声と威勢のいい声が聞こえ、背中に強い痛みが走る。


「グワ!」

「グヘ!」


 二人同時に苦しみの声を上げて後ろにアフロ先輩は倒れ、僕は前に倒れた。

 共に死角からの攻撃だったから成すすべもなかった。


「て~る~や~ん~」


 バーサーカーモードのカスミ先輩が微笑みながら右手の拳を握り締めている。


「カスミン。違うこれは、カゲルの成功を祝してだな」

「問答無用!」


 鉄槌が下された。ゴツっと鈍い音と衝撃が空気を震わした。


「あは。カスミン怖いね」


 背中の上に重量感があった。

 首を動かしてみると、ニヤニヤしながら僕を土台にして座っているエリ先輩の姿があった。


「さりげなく何をやっているんですか」

「ん? 何か楽しそうな匂いがしたから」

「いやいやそうではなくて、何故背中の上に座っているのですか」

「ん? 何となく」


 私解らないと言わんばかりの上から目線から、ゆっくりと首を捻った。僕の表情を見て笑いが止まらないのか、頬骨が上がるのを全力で押し込めようと我慢している。

 とても楽しそうな、人生の快楽の真っ只中にいるエリ先輩だった。

 もう何を言っても聞きそうにはない。

 とはいえこの状況を何とかしないと変な誤解が生まれるのは確かだった。


「先輩。早くしないと部長の鉄槌が飛んできますよ」

「おっと。それはちょっとまずいな」


 すぐに僕の背中から離れて立ち上がった。


「エリも何やってんの!」

「あ、ヤバ!」


 風のような速さで、その場から逃げていく、だがそれに負けないスピードで部長も追っかけて行った。

 僕は解放された体を起こし、一度落ち着くために座った。


 目の前には、てるやんが大の字になって気絶している。

 当分の間は動かないだろう。「ざまあみろ」という気持ちが芽生える。


 もうこの光景に驚くことはないが、怒った時の部長の怖さは慣れることはない。

 できる限り怒らせないようにしよう。


「カゲル。百キャッチおめでとう」


 アヤメ先輩がいつの間にか僕の後ろに立っていた。

 声を聞くまでは気配を感じなかったから、一瞬ビクッとしてしまったが、すぐに平静を取り戻す。


「ありがとうございます」

「三週間ぐらいかかった?」


「そうですね」


「とりあえず、よく折れずにできたね。だけどまだまだこれからも覚えることは多いから、気を抜かないように」


「はい」


 明るく返事をした。

 先輩はよく後輩のことを見ている。成功した時も失敗した時も、きちんと見ていてそっとアドバイスをしてくれる。


 この前、大介が体を一回転して箱三つをとる技に悪戦苦闘した時、回る時に足の使い方を変えてみたらと助言したらしい。


 すると一週間かかってもできなかったのに、次の日には成功するようになっていた。


 メグさんもリナさんも同じように、アドバイスをもらっていたし、成功したら褒めてくれる。

 僕はほぼカスミ先輩が教えてくれたからあまりなかったけど、出来た瞬間は見ているし、時々助言してくれる。


 多くの種類の道具に指摘しているけど、本人が何の道具がメインなのか未だに知らない。

 実際見た記憶がない。


 何故だ。


 朧げにポニーテールの副部長の横顔を見つめていた。


「どうしたの?」


 当然気になったのか、彼女は不思議そうに見つめ返してくる。

 疑問に思ったことを聞こうと思ったが、心の中で何か邪魔をされ口から出てきそうな言葉を既のところで止めた。


「え、いやなんでもないです」


 アヤメ先輩は怪しげな視線を送るが、そのあと妙に含みのある笑いに変わる。


「まあいい。それよりも座られ心地はどうだった?」

「な!」


 アヤメ先輩の言葉が僕の心臓を貫いた。

 予期していた最悪の事態が起きた。

 全力で言い訳の言葉を考えて、正確に伝えることに全神経を注ぐ。


「あ、あれは、向こうが一方的にしてきただけで、そんな気持ちなんて微塵も思っていないですよ!」


 バタバタと身振り手振りで抗議する。

 彼女は人差し指を口元に当てて、ふーんと意味ありげに笑いを含ませる。


「冗談だって。でもまさかそんなに真剣に否定するとは思っていなかった」


 妙に、いやすごく上機嫌になったのか、スタスタとその場を離れていった。


 僕は呆然と眺めていた。

 変な誤解をされた気がする。

 そんなことはないだろうと願いつつ、僕は床に転がっているボールを拾ったのだった。

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