第26話 グレー
「ユイちゃんとは、会えたか」
ユイと別れた後、ケイシは、そのままプールに向かっていた。受付で杉山に声をかけられると、ケイシは小さく頷いて鍵を受け取った。
「その顔を見ると、あんまりいいことはなかったようだが……」
「そうだね」
ロッカーに向かうケイシに、杉山は「今日は、好きなだけ泳いでいけよ」と、言った。
プールは、今日も貸し切りだった。ケイシは、プールサイドからユイと同じように勢いよく水の中に飛び込んだ。水しぶきとともに水面に落ちるように沈み込むと、一気にクロールで泳ぎだした。
「おい、飛び込みは禁止だって言ってるだろう」
飛び込んだ瞬間、管理室から杉山の声がした。何も考えたくないはずなのに、ケイシの頭の中は、ハルトを見つめるユイの横顔で埋め尽くされていた。グレーの世界にいた彼女を救ったのは、ハルトだ。ユイの強さの中には、ハルトがいた。自分は、何も気付かず、何も出来なかった。ケイシは、ハルトと違い、自分がいかに小さい人間かということを思い知らされたような気がしていた。
100メートルを一気に泳ぎきったところで、ようやくプールの底に足を着く。息は、まだ荒い。大きく空気を吸い込んで、顔の水滴を手で拭うと、ケイシは天井を見上げた。自分は、いつまでたっても、何も変われない。ユイとハルトが、自分よりも、随分、先にいて、大人に見えた。ハルトには敵わない。そう口にしてしまったことで、現実を認めるしかなくなった。ユイの不思議そうな顔が、ケイシの崩れた心の中に沁みていくようだった。
「小僧、ちょっといいか。話がある」
管理室から出てきた杉山が、手招きしてケイシを呼んだ。ケイシは、一度、深呼吸をして、ゆっくりとプールサイドへ上がった。
杉山は、管理室のドアを静かに閉めると、プール全体を見渡していた。その顔は、昔を懐かしむような、そんな表情をしていた。近づくと、杉山の横顔が、ケイシの方に向いた。
「ここな、取り壊されることになったんだ」
「え?」
突然のことに、ケイシは困惑して言葉を失った。つい最近、プールは改修工事を終えたばかりだ。取り壊しなんてありえない。杉山の冗談に付き合う余裕はないと、笑って見せたが、杉山の表情は変わらず、固いままだった。
「まぁ、ここも古いしな。取り壊して、体育館とプールの一体型施設に立て直す計画なんだとよ」
戸惑う表情をしているケイシに向かって、杉山は、「この場所がなくなるわけじゃない。生まれ変わるだけだ」と、笑った。
「ちょうどいいかと思ってな」
「何が?」
杉山は、少し間をおくようにして、プール全体を見渡した。俯いた後、何かを確かめるようにして頷き、ケイシの目をじっと見つめた。
「この仕事だが、辞めようと思っている」
まさか、と思った。この場所には、杉山がいるのが当たり前で、杉山がいなくなることは、ケイシには想像も出来ないことだ。プールの職員は、1年の更新制だということは、以前に聞いたことがあった。杉山は、不安定な状況に文句を言いながらも、老後の楽しみとして、この仕事に誇りをもっていたことも、ケイシは知っていた。
「どういうことだよ」
問い詰めても、杉山はどこか吹っ切れたような表情をしていた。
「食いっぱぐれたくないんじゃなかったのかよ」
「ははっ。小僧、生きていると決断しないといけないタイミングっていうのがあるんだよ。俺にとっては、今回がそういうことだってことだ。まぁ俺も歳だしな」
「辞めてどうするんだよ」
「そうだなぁ。奥さんと世界一周旅行でもするかな」
辞めることはない、そう言おうとして、ケイシは言葉を飲み込んだ。引き留めることが、本当に杉山のためになるのだろうか。杉山と会えなくなることが嫌だという、自分勝手な思いを、ただぶつけるだけのような気がした。きっと、杉山にとって、辞める選択をした方が幸せなのかもしれない。杉山の笑い顔を見ていると、ケイシは、そう思うしかなかった。
「小僧、鬼の話は知っているだろう」
「町の言い伝えのこと?」
「あぁ、そうだ」
小さい時によく聞かされていたその話を、なぜ今更するのだろうか。ケイシには、杉山の考えが少しだけ理解出来ないでいた。
「それなら、悪さをした鬼が心を入れかえて子どもを助けようとしたけど、結局、村人に撃たれちゃうって話でしょ。一度、悪さをするといくら改心してもバチがあたるから、絶対悪さだけはするなって、よく小さい頃に聞かされていたよ」
「あぁ。俺も小さい頃、そうよく聞かされていたよ」
杉山は、プールの端に歩き出すと、懐かしそうに壁を叩きながら話を続けた。
「その話な、実は続きがあってな」
「続き?」
言い伝えには諸説あり、続きがあるという話も、聞いたことがないわけではなかったが、今まで気に留めたことはなかった。
「撃たれた鬼は、天国でもう二度と悪いことはしない。だから、もう一度、生き返って、あの場所に戻して欲しいとお願いするんだ。でも、神様は、決してそれを聞き入れることはなく、鬼はずっと泣き続けたまま暮らしたそうだ」
「やっぱり、運命は変わらないって話だろう?」
「そうか?俺は、この話を聞いて、人生は一度きりなんだって思ったね。いくら後悔したって、もう後には戻れない。でも、未来なら作れるって伝えたかったんじゃないかって。だから、この物語の最後、鬼は"あの世"じゃなくて"天国"にいたんだと思うんだよ。泣いてばかりいたら、その場所が、本当は"天国"でも気付かないだろう」
そんなことは考えたこともなかった。言い伝えには続きがあって、もし杉山が言うように、鬼は泣き止んで前を向いていたら、そこが天国だということに気付いたのかもしれない。気付いていたら、きっと違った生き方が出来ていただろう。
「小僧、お前も一歩ずつだが、前に進んでいるんだぞ」
杉山が、力強い目付きでケイシを見つめた。その言葉が、ドンっと心に響いたような気がした。長く暗いトンネルに光はないと思っていた。その光を、閉ざしているのは、自自分なのかもしれない。杉山の言葉に、まだ少しだけ希望があるように思えた。
「まぁ、取り壊しまでは、まだ少しある。それまでは、小僧に付き合ってやるからよ」
温かい眼差しをした杉山が、にやりと笑うと、管理室に戻っていく。
「ありがとう」
ケイシは、咄嗟にお礼の言葉を口にした。杉山の言葉に、救われている。
杉山は、足を止めて振り返った。
「さ、今日も片づけ、手伝ってくれよ」
ケイシは、大きく頷いた。
帰り道、公園にさしかかると、グラウンドにはハルトの姿があった。きっと休んでいた分を取り返そうとしているのだろう。相変わらずサッカー馬鹿で、悔しいほど周りが見えないヤツだ。
自転車を止めて、ベンチに腰を下ろす。ここから、ハルトをしばらく見ていたかった。ユイが語った、小説の一文を思い出す。
"あがいてみても、結末は決まっていて、きっと虚しさだけが残る"
そう思っていたのは、多分、自分も同じだ。今いる世界は、本当にグレーなのだろうか。そう思い込んで、自分は逃げ出しているのかもしれない。言い伝えの鬼のように、ケイシは過去ばかりを悔やんでいて、今の自分の現状が見えていないのかもしれない。
ハルトは、懲りずにいつまでもボールを追いかけている。小さい時と何も変わらないハルトを見つめながら、杉山の言葉を、何度も、何度も思い出していた。自分は一歩ずつでも、前に進めているのだろうか。きっと、そうであって欲しいと、ケイシは、深いため息をついた。
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