(三)
私は走っていた。手提げと買い物かごを若菜に預けて走っていた。
スーパーの入口の自動ドアが左右に開ききる前に、わずかに出来た隙間からすり抜けて外に出た。熱された気圧に押されるような感じを受けながら、走った。
商店街の人混みをかき分けて走って行った。時々人にぶつかりながら、走って行った。
顔なじみの知り合いの主婦が別の主婦が、路上で立ったままおしゃべりをしているのが見えた。走ってその二人にグングン近づいていくと、あちらもこちらに気づいたみたいだった。
「あら、紗枝さん、そんなに急いでどこへいらっしゃるんですか」
「ええ、ちょっと」
私は息を切らしながらその姿を片目で視線をやりながら走って通り過ぎた。
直後、二人の笑い声が聞こえた。
何度か交差点を曲がってようやく家にたどり着いた。息は上がり、額はもちろん前身から汗がびっしょりであった。気温の高さと直射日光があたり、腕や顔がかなり熱くなっているのがわかった。しかし、買う物と若菜をスーパーに置いたまま来てしまったので、すぐにもどらなければならない。
そうして私は玄関までやってきて、ドアに手をかけてスライド式のドアを引っ張った。
しかしドアは開かなかった。
「あら?」
なんで開かないのかしら。何度もドアを横にスライドさせようとしたが、ドアはぴくりとも動かない。やはり、鍵が掛かっているのだ!
「なんで開かないのよ!」
ドアに向かって思わず大声を上げてしまった。落ち着け落ち着け。怒鳴ってもドアは開かないわ。自分を落ち着かせて、私はスカートのポケットに手を入れて鍵がないか確認した。もちろん鍵は入っていなかった。そう、でも出かけるときは手提げを持っていた。その中に入っているはず……。
そして自分の手を見てみた。手提げはもちろん持っていない。
そういえば……、手提げはスーパーで買う物と一緒に若菜に預けたのだった。
「やだ、もう、勘弁してよ」
そう呟いてから私は玄関ドアを叩いた。
父と夫は仕事、母は朝早くからお友達と会いに出かけてしまった。だから家には私と若菜と敏夫がいるはず。そして私と若菜はスーパーに買い物に出た。それなら敏夫がまだ残っているはず。
そこで私はドアを何度も叩いて「敏夫! 敏夫! 開けて! 開けなさい!」と大声で言った。
何度、叩いても家の中から反応がない。
「敏夫ー! 開けて!」
「ねえ敏夫、いるんでしょう! ちょっと開けて!」
「ねえってば、敏夫ー! 開けてってば!」
ドアを叩きながら何度も叫んだが、家の中からは何も反応がなかった。
「もうどこへ行っちゃったのかしら」
私はそう言いながらその場でしゃがみこんでしまった。
すると背後から、凜とした若い女性の声で「紗枝さん」と呼ばれた。
後ろを振り向くと、犬を散歩させている雪枝さんが立っていた。隣の音楽家のおうちの娘さんだ。
「どうしたんですか」
雪枝さんが言った。
「いや、ちょっと。買い物に出かけたらお財布を忘れちゃって……」
「敏夫君ならさっき那鹿島君が迎えに来て一緒にどこかへ行きましたよ」
「あ、そういえば……」
そうだ、買い物に出る前にそんなこと言ってたっけ。しかもその時、お金を渡したわ。その時、確かに財布は持っていたけど、そういえば、あれ、下駄箱の上に置いたんだった。
「うちでお茶でも飲んでいきませんか。敏夫君が帰るまで。どうでしょう」
「ありがとう。お言葉は嬉しいんだけど、今は急がないといけないので……」
私がそういうと雪枝は「そうですか」と会釈をして立ち去っていった。
私は玄関先から道路へ出ると、再び走り出した。
途中、顔見知りの奥さんに再び声をかけられたが、そばを走り抜けるときに愛想笑いをするのが精一杯だった。
そうして商店街のスーパーに戻ってきた。店の入口のすぐ近くのサービスカウンターに若菜が立っていた。お店の人と何やら話をしているようだった。
私は若菜に近づいて、手提げを手に取った。
「お姉ちゃん早かったね」
私は息を切らしていたので、「鍵、鍵」と言うのが精一杯だった。
そして手提げの口を思いっきり広げてみてみた。財布はもちろんなかったが、鍵もなかった。手を突っ込んで左右に動かしてもみてもそんな感触はなかった。
「うそ、鍵も忘れた……」
私は足の力が抜けてその場でへたり込んでしまった。
「裏から入れば?」
若菜が言った。
「うち、裏はいつも開いているじゃない」
そう言われて、ハッとした。そういえばそうだった! 母がいつもそうしていたのだ。私は泥棒が入るからそんなこと止めてって何度も言ったけど、母はそのたびに「いいのよ」とだけ言っていたっけ。
私はすぐに立ち上がり、「これ!」と言って手提げを若菜に押し付けて再び走り出した。
顔見知りの奥さんに「大変ねえ」と声をかけられたが、挨拶する余裕もなく、そばを走り抜けて、汗だくになって家に戻った。
すぐに玄関の脇から敷地に入り、勝手口に回った。
勝手口まで来るとすぐにドアノブを掴んで回した。ドアノブは手の動きと同時に回った。
「やった!」
思わず声を上げながらドアを開けて中に入った。
台所から廊下に出て、まっすぐ行った先の玄関までやってきた。
腰の高さまである下駄箱の上の玄関に近い方に、財布が置かれていた。
「これよこれ。やっぱりここだったのね。これは絶対、敏夫にお金を渡したときだわ」
財布を掴んで私はすぐに勝手口から外に出て、ドアを閉めた。
「早く戻らなきゃ」
そう言って玄関口へ回り路上に出て、今度は財布を握りしめたまま走り出した。
(続く)
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