斜陽の百年

エリー.ファー

斜陽の百年

 ぶっ殺すという言葉は非常に安いと思う。

 煙草の煙、つまりは紫煙だが、それに匹敵するほどのものではない。

 ああいう言葉ばかりを連ねていると気が付けば、自分の思考にそのまま侵食してくる感じがするそうだ。それは殺し屋やら連続殺人鬼やら役者やら、なんであってもいいのだが共通した問題だそうである。

 およそ、二年ほど前。

 殺し屋として少しばかり派手なことをやらかした。

 一気に二十人ほど殺したのである。

 使ったものは爆弾。

 狙ったものはお祭り会場に来ている人間たちだった。

 基本的に私はナイフやら銃やらで殺している訳だが、あのような爆弾と言う非常に大雑把かつ、芸術性のかけらもない殺し方を行うのには抵抗があった。ただし、いささかである。

 私の中にそのような思考があったのか、それとも爆弾というものに強い魅力が内包されていたのかは定かではないものの、私はその魅力に取りつかれた。

 その時から、私はダイナマイトを所持するようになった。その時に使われた爆弾はダイナマイトではなかったが、どうにもその形状が自分の手に馴染んだのである。これなら人を殺すことができるだろうと本気で思えた。

 それは、殺し屋にとって殺しというものを今後も繰り返す一つの動機としては十分である。確かに、非常に額の高い報酬を手にはできるが、自分のしていることと、これから起こるかもしれない点を考えれば、どれだけ積まれても殺しという行為は余りにも見下されていると感じられている。これは金額的にも、裏社会的にも、という話である。

 だからこそ、やりがいが重要なのだ。

 だからこそ、自分の意思が必要なのだ。

 だからこそ、自身が必要なのだ。

 何もかも、大切にしなければいけないのは、殺し屋以外の人間もそうだろうが、殺し屋は特にその考えを大事にしなければならない。

 多くの人間は、謙虚であればいいと思っている。

 しかし、実際はどうだ。

 謙虚であることで、つかまされたのは誰かの失敗であり、誰もやりたがらないタスクそのものではないか。こんなもののために謙虚になったのではない。

 実力を上げるための謙虚さであって、別に他者にとって都合のいい謙虚を兼ね備えようとしていた訳ではない。

 謙虚を否定するのではない。

 謙虚というものの利益は他者ではなく、自身で独占するべきという事なのである。

 自己肯定感であるとか、毒親だとか、色々と問題がある社会だそうだが、別にそんなもののために自分の人生を左右されることに納得のいく人間などいる訳がない。

 だったらなおのこと、私たちは歩き始めるべきなのではないか。

 殺して回るしかない。

 殺して回るしかない。

 それは自分以外の存在に対してではない。

 自分の中にいる自分で利益を独占することに罪悪感を覚える、そいつを殺すのである。

 殺して回るしかない。

 殺して回るしかない。

 しかし、やりすぎもよくないと思う。

 私はそんなどっちつかずな哲学を抱えながら今日も生きている。何故ならば、だ。そのような考えで優秀な人間が近くにいたら、その利益を少しでも分けて欲しいと本気で思うからである。

 つまるところ。

 私が近くにいたら、それは例外ということで。

 駄目だろうか。

 ダイナマイトを使うことに自分なりの論理を組み立てて偉そうに喋っていたくせにと思われるだろうか。でも、もしも少しでも、自分の手の中に何か利益が回って来るのであれば、それもいいだろうと思うのは人間の真理だろう。

 私以外の人間には優しくするな。

 私にだけは優しくしてもいい。

 そうでなければ。

 貴方のこともダイナマイトで殺すほかない。

 

 まぁ、そういうことだ。

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