虚空の塔(芥火静虎)

 『虚空の塔』。

 芥火静虎の新作だ。

 芥火静虎って言えば「ザ・純文学」って感じの人だ。

 だから、今まで正直あまり興味が無かった。

 代表作の『解体業者』も、語彙は難し過ぎたし、内容もただただ暗いだけで、多分なんかの暗喩なんだろうなとは思うんだけど、突然こっちの知らない前提に基づいた情報が出てくるしで、正直ワケが分からなかったって印象しかない。

 テレビで離婚だの出家だのと騒いでいた時も、なんかお騒がせ芸能人枠で見てたというか、あんまり自分にとって「作家」って枠では見ていなかった感じだ。たとえば徳原義臣が野球選手ってよりタレントって感じに思えるみたいに。

 とはいえ、徳原選手が実際にマリンスターズの主力選手であるように、芥火静虎はやっぱり大作家なわけで、読んでみたい気持ちが無かったわけではなかった。


 そう、『虚空の塔』の話だ。

 読友どくともが言うには、「マジックリアリズム」的だ、とかなんとか。

 村上春樹とか阿部和重みたいな、言葉は読めるけど中身は意味分かんなくてメッチャ難しい奴でしょ、と思いつつ、でもヴォネガットや森見登美彦みたいの、って言われると面白いようにも思えるから困ったもので。

 で、その読友どくともに訊くと、彼女曰く「どっちかって言うと多分ヴォネガットの方」らしいので、いやでもヴォネガットもワリと分かんないしなあ、と思いつつ、読んでみることにした。


 『虚空の塔』の始まりの方は、こうだ。

「その町の中央に、虚空の塔があった」

 異世界ファンタジー?

 まあ、読み進めていくと全然そんなことはなくて、普通に郊外の町中で、突然塔があります、みたいな話。『和風Wizardry純情派』みたいな? って、古いなこれ。

 ただまあ、塔とかあって、その情景描写とかは本当に美しくて、流石文豪って感じなんだけど、とにかく内容が陰鬱極まりない。しかも、タメ回みたいな感じの奴じゃなくて、ただただ「凪」そして「夜」みたいな暗さ。いやまあ、そのじっとり感を狙って出せるんだから確かに凄いんだけど、世の中に読み切れないほどの面白い本があるなかで、わざわざ一冊選んで読むのは、気持ちをじっとりさせるためじゃないんだよなあ、って感じ。

 上質な文章だし、強度のある読書体験なのは分かったけど、マジでnot for meとしか言いようがない。

 正直、前半はかなりキツかった。

 最初に「中盤から面白くなるから」って言われてなかったら、あと作家の実力自体はあるって信頼できなかったら、そこで読むの止めたレベル。


 でも、『虚空の塔』は、ここから面白く、というか、私好みになる。

 警察の警戒網を掻い潜って、虚空の塔に忍び込んだ〈僕〉が、塔を登り始めるからだ。

 文体もガラっと変わって、めっちゃクールになる。

 元々、文章自体は美しいと思ってたけど、ねっとり系からガラガラした感じにチェンジ。これが、砂嵐が吹き荒れている――塔の中はメッチャ広いので、普通に荒野というか砂漠みたいになっている――塔内の描写にハマっている。

 ああ、文体、ちゃんと作ってああなってたんだな、ってよく分かる。

 〈僕〉の弱音と愚痴ばっかりだった前半から、その描写の比重は明らかに塔内環境という「敵」の描写に偏っている。荒野の渇き、砂漠の嵐、夜の暗闇、曇天の寒気。そして延々と続く螺旋階段は、塔の内側の壁にずっと張り巡らされていて、それは螺旋を描くうちに内側と外側さえ入れ替わって、〈僕〉を翻弄し続ける。

 そして、〈僕〉の影に潜んで、背後からひたひたと這い寄ってくる〈怪物〉との逃走劇と心理戦。


 『虚空の塔』というタイトルは、〈僕〉が勝手に名前を付けたもので、作中ですら他の人からはそうは呼ばれていない。

 それで、この〈怪物〉が出てきた時、私はふと気が付いた。

 この塔、本当に「虚空の塔」って名前なのか? って。

 というのも、多分気付く人はもっと先の方で気付いてたと思うんだけど、この塔、知ってる人は知ってる塔だからだ。いや、こんなに細かく書かれた事は無いんだけど、設定として、登っていく塔で、後ろから怪物が、って言ったら、これしかない。

 『幻獣辞典』に出てくるア・バオ・ア・クゥー、と、勝利の塔だ。

 勿論、ボルヘスらしく、というのはこの幻獣の来歴がボルヘスがいつもやる嘘八百の来歴という前提で言うんだけど、ア・バオ・ア・クゥーの設定っていうのはザックリとしていて、まあそういう生き物と塔の伝承って面白いよね、ぐらいの構想だけを引用のていでそれっぽく書いている(実のとこが美味しいんなら、木なんか育てないで実だけ育てればいいじゃん、的な無茶を言うのがボルヘスという作家だ)奴だから、こんなに細かい塔の描写なんかは全然ないんだけど、とりあえずの大筋は勝利の塔の逸話と同じなのだ。

 パクりとかそういう話ではない。ボルヘスの記述だけでは味わえなかった面白さがあるから、そういう話ではないんだけど、むしろボルヘスが「狂気の沙汰」って言ってちゃんと書くことを放り投げた着想を「ちゃんと書く」という「狂気の沙汰」をやってのけた事には喝采以外に無いんだけど。

 ただ、マジで作っちゃったかという驚きがあった、という。

 あ、これ「勝利の塔」じゃん、っていう感動があったからだ。

 ただ、『虚空の塔』と「勝利の塔」、ないし『幻獣図鑑』を絡めた感想文とか全然ないので、私の妄想かもしれない。なので、これ以降の文章は私の妄想が続きます。


 『虚空の塔』は「勝利の塔」だった。

 そう考えると、もう終盤の展開とか、抽象的なイメージで押しまくってるけど、すごく「分かる」感じになる。

 「勝利の塔」を登りきると涅槃に達する。そして、涅槃に達した人間に影は無いので、ア・バオ・ア・クゥーは人間に触れない。だから、最後の最後ですごすごと帰るしかなくなる。

 〈僕〉と〈怪物〉の最後の戦いの場面は、まさにこれだった。

 明鏡止水モードで金色に光って、ゴッド〈僕〉大勝利、希望の未来にレディ・ゴーとかそういう話ではなかった。

 いや、涅槃に至るのは、勝利なのか?

 なんか仏教的には勝ちな気もするが、そういう話なのか?

 でも、まあ、わざわざ塔を登る人は涅槃に行きたいから登ってるわけで、でもそうすると〈僕〉の旅路ってメタ的には自殺って話? そう考えると、私のイメージするジュンブンガク的な感じがないこともないけど、仏教世界観で真の勝利を得るって、そういうことでは、という気もする。『ブッダ』とかも、別に死んだからってバッドエンドってワケでもないしなあ。


 『虚空の塔』のラストシーンの意味も、これで分かる。

 『幻獣図鑑』には、こう書かれているからだ。

 ア・バオ・ア・クゥーが塔を登れたことは一度しかない、と。

 これ、本当はおかしいのだ。だって、「勝利の塔を登りきると涅槃に達する。そして、涅槃に達した人間に影は無いので、ア・バオ・ア・クゥーは人間に触れない」から無理って先に言ってるのに、一度は登り切ったことがあるというのだから。どうやって?

 だから、〈怪物〉――つまり、ア・バオ・ア・クゥーは、塔の上に登れた、というのがこの話のオチになるのは、凄く分かる。『ゲド戦記』との合わせ技一本、という感じだ。

 これで、もっとパーソナルな経験の話で、たまたま暗喩がカブっただけ、とかだったらマジ申し訳ないけど、そういう感じです。

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