君のすべて 5

「あれ、諒じゃねえか」

 桑島はタクシーのテールランプから背後へと目を向けた。いいだけ酔った新谷と山口をタクシーに押し込んだところですでにぐったり疲れていたから、声の主を探すのに数秒かかる。ようやく少し離れたところに立っている曾山が目に入った。曾山は桑島とは逆に軽い足取りでこちらにやってくると、桑島のそばで立ち止まった。

「最近よく会うな。何やってんの、お前」

「会社の人に付き合って飲んでた。今終わってタクシー乗せて帰したとこ」

 我ながら声に覇気がない。顔も脂っぽいし、長い間座っていたからスーツも皺になっているだろう。見るからにくたびれていたのか、曾山はおかしそうに笑った。

「そっか。暇なら飲もうかと思ったけど、じゃあまた今度にすっか。あ、そうだ、連絡先──」

「いや、でも」

「無理すんなって。疲れてんだろ」

 一瞬それじゃあまた、と言いかけて飲み込んだ。多分、薮内から電話はかかってこないだろう。

「……行くかな」

「大丈夫かよ。無理しねえ方がいいぞ」

 曾山は少し身体を屈めて桑島の顔を覗き込んだ。薮内もよくこういうふうにする。そう思っただけで喉が痞える気がして、桑島は唾を飲み込んだ。

「──金曜だし、せっかく会ったしさ」

「そうか? お前がいいならいいけど。店、どこがいい?」

「どこでも」

 言いながら、桑島はポケットの中の携帯を引っ張り出した。何度も確認したけれど、やっぱり何の通知もきていない。ポケットに突っ込む寸前、黒いディスプレイにはさえない自分の顔がはっきりと映っていた。


 チェーン店の居酒屋は混んでいて、騒がしかった。入口で靴を脱ぐスタイルで、席はすべて掘りごたつになっている。通路側に仕切りはないが前後は壁で、簡易個室という趣だ。曾山と薮内の席は二人用のこぢんまりとした設えで、通路を挟んで向かいには大学生くらいのカップル、前後にも顔は見えないが客がいて、話し声や食器の音が金曜の夜らしく響いていた。

 いい加減腹がきつかったのでビールはやめてカシスウーロンを頼んだら、女みたいだなと曾山が笑った。悪意がないから腹は立たず、おしぼりの袋で曾山の手を軽く叩いてやり返す。ビールを頼んだ曾山は、桑島にメニューを差し出した。

「何か食うか?」

「俺はもう腹いっぱい。曾山、好きなの頼めよ」

「いや、俺も飯は食ってんだ。じゃあ枝豆と……串でも頼むか。盛り合わせで。あ、すいません」

 通りかかった店員が前掛けのポケットから端末を取り出して注文を入力し始めた。いつも思うが、あれは一昔前のカラオケのリモコンによく似ている。二十歳そこそこに見えるこの店員には言っても分からないのかも知れないし、そもそもここ数年カラオケと無縁だから、今のリモコンの形状もわからない。どうでもいいことを考えながら、桑島はぼんやりと店員の手元を眺めていた。

 注文を終え、メニューを卓の上のスタンドに立てる。運ばれてきたジョッキを一応合わせ、お互いに一口飲んだ。

「会社の飲み会?」

「ん? ああ、さっきまでな。この間探してもらったビデオあったろ、あれの件で」

「ああ。そういや、さくらがお前の後輩気に入ったって。顔が」

「マジで? その割には愛想なかったよな、彼女」

 曾山は笑い、いつもああなんだ、と言ってジョッキを置いた。

「諒はあれだな、見るからに会社員だよな。外回りしてたってことはやっぱ営業?」

 曾山は煙草に火を点け、煙を吐き出しながら訊いてきた。

「ああ。もう絵に描いたような平凡なサラリーマンだよ」

「いいんじゃねえの。なんだかんだ言ってさ、普通が一番よ、普通が」

「そうかな」

「そうそう。平凡って幸せだぜ」

「曾山は何してんの」

 ジーンズに黒い半袖シャツ、銀色のピアス。少なくとも営業職ではなさそうな曾山はにっと笑い、煙草の穂先を灰皿の縁で払った。

「今は色々」

「何だよ、それ。ちゃんと働いてないのか」

「ここんとこは拾い仕事ばっかり。社保完備の仕事じゃねえから、年金はもらえねえ感じかなあ」

「あのなあ、それ、笑いごとじゃないんだぞ」

 思わず真面目に言うと、曾山は肩を揺らして笑った。

「まあ、そうかもな」

「枝豆と串焼き盛り合わせでございます」

 皿を運んできた店員にどうも、と笑顔を向け、曾山は煙草を捻り潰した。

「早すぎねえか、出てくんの。枝豆はチンしたにしても、串はどうしてんだ」

「気になんのか、そんなことが」

「別に」

「変な奴だな」

「だから年金もらえねえような老後が待ってんのよ」

「それとこれは違うだろ。本当に大丈夫なのか? きちんと老後の貯えがあんならいいけどさ」

 本当のところどうなのかは分からないが、曾山はあるある、と言って笑った。

「あの店の店員だったら無理だろうけど。年中エロビデオ売ってるわけじゃねえからよ」

「ふうん。だけどさ、一日あんなの見てるってどうなの。辛い時ないのか」

「辛いって?」

「だから。思わず反応しちゃったのに接客中だったとかさ」

「全然」

「そうかあ?」

「俺ゲイだから。女で勃たねえもん。いい店員だろ」

「は?」

 曾山の言っていることが頭にすんなり入ってこなくて、桑島は曾山と串焼きの皿の間で視線を往復させた。曾山が串を一本つまむ。その指先を暫く見つめ、ようやくさっき曾山が口にした言葉の意味に思い至った。

「ああ、心配すんなよ、襲ったりしねえから」

 曾山はつまらなさそうな顔で串を持った右手をひらひらさせた。

「ゲイっつーとさ、男と見るや誰かれ構わず飛びかかるって思ってる奴がいまだにいるんだよなあ。ありえねえだろ、人間としてそれは。それ以前にてめえが好みとは限らねえっつの。お前は性別が女なら何でもいいのかよって訊きてえよ。こっちが金積まれても勘弁って奴に限ってそういう反応するんだよな」

「……」

「だから一日中女の喘ぎ声聞いててもうるせえなあ、くらいにしか思わねえ。俺、女役はやらねえから女優に感情移入もできねえし、男優はケツと股間しか映ってねえしよ」

 カシスウーロンの赤茶色の向こうに見える曾山の指。テーブルに置かれた左手の指先が透けて見えるのを、桑島は凝視した。

「そういうの、俺に言っていいのか」

「言っちゃ駄目なのかよ」

「そうじゃないけど」

「別に、もう中学生じゃねえんだから。俺にとっては当たり前のことなの。てか、さし向いで飲むの気分悪ぃか?」

「いや、俺がどうとかじゃなくて」

「じゃあ別にいいんじゃねえの。それよりさ、クラスの女子に熊沢ってすげえ美人がいたじゃねえか」

 曾山はまるで天気の話をしていたかのように呆気なく話題を変えた。多分桑島のためだろう。

「あの子って作家のなんとかって爺さんの後妻になったらしくて——」

「……曾山」

「ん?」

 曾山が桑島の顔を見て、何だというように軽く微笑み、そして訝しげに眉を寄せた。

 ポケットの中の携帯は今も鳴らない。薮内の苛立ったような顔を思い出す。

 デートなんじゃないの、という山口の言葉もまた、脳裏を過る。自分の気持ちも決められない俺にあいつの人生に関わる資格はあるのだろうか。薮内の妹に偉そうなことをいったくせに、俺は薮内を苦しめてばかりいる。

「俺」

「うん」

 枝豆の鮮やかな緑が目に痛い。それ以上何を言ったらいいか迷って結局口を噤んだ。曾山は新しい煙草を銜え、火を点けずに穂先を上下させながら桑島を見つめている。

「この間店に来た、後輩って奴の話か」

 頬が強張ったのが自分でも分かる。曾山がこの間見せた一瞬の表情。気付かれていたのだと思うと一気に耳が熱くなった。

「……どうして」

「俺がゲイだっつったタイミングで深刻な顔してんだから、内容は推して知るべしじゃねえか」

「……そっか……」

「あの男、あんだけ顔に出てたら見れば分かる。でもお前らノンケ同士だろ。珍しいな」

 そう言われても、珍しいのかそうでないのかは分からない。顔を上げられず、目の前の割り箸の袋を折り曲げてみる。駅前店の電話番号。再生紙百パーセント。どうでもいいことばかり目に入った。

「困ってんのか」

 曾山の声がやや低くなる。桑島は手の中で小さくなった箸の袋をテーブルに戻して掌で押さえつけた。

「困ってるけど——それは、あいつに迷惑かけられてるって意味じゃなくて」

 掌を退かすと、箸袋の折り目が元に戻る。袋はまるで生きているかのように徐々に開き、そして止まった。

 テーブルに両肘をつき、手の甲に額を乗せる。頭の天辺に曾山の視線を感じながら、桑島は低く呟いた。

「どうしていいのか分からない」

「何が」

「頼んでもいいか」

 考える前に、言葉が口をついて出た。

「俺と寝てくれないか」

 楽しそうな笑い声に混じって響く店員の声。その中でこの卓の回りだけが無音だった。

 息を詰めて返事を待っていたというわけではない。ただ、口に出した言葉の意味を改めて考えていた数秒の間、この居酒屋にいることを忘れていた。背後の席で女の子が笑う。その声で我に返った桑島のポケットの中で携帯が震え始めた。

「電話、鳴ってる」

 曾山は動揺した様子も気分を害した様子もなく、内心を窺わせない冷静な声で言った。

 携帯を取り出し画面を確認する。薮内からの着信だった。心臓が上に飛び跳ね喉に詰まった気がした。無意識に応答しかけ、思い止まる。

 数秒後、鳴動は止まった。

「出ねぇのか」

 桑島は束の間躊躇い、結局携帯の電源を切った。

「後でかけ直すから、いい」

「ふうん」

「曾山——」

「出るか」

 桑島は弾かれたように顔を上げた。曾山は相変わらず無表情のまま、伝票を掴んで立ち上がった。

 

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