君のすべて 4
何とも頼もしいことに、さくらは長い爪で鬼のようにキーボードを叩きまくった。ジェルネイルというのか、つるつるしてきれいな色の爪がものすごい音でキーボードに当たる。驚いたことにその速さはハリウッド映画で見るハッカー並みで、ここまで見事なブラインドタッチを見たのは桑島も初めてだった。
さくらはソフトで単語検索しているわけではなく、ソフトのデータベースを直接いじり、複数のキーワードを検索させるクエリを組んだらしい。
曾山との一時間は何だったのか、さくらはあっという間に件のビデオを見つけ出した。タイトルを特定して曾山に伝えたさくらは礼を言う桑島と薮内には目もくれず、寒い寒いと文句を言いながら風のように店から去った。
「なんかすげえ人だなあ」
薮内はドアが閉まるなり笑い出し、桑島も思わず吹き出した。
「本当だな。お陰で助かったけど」
曾山に店の奥の段ボール内で埃をかぶっていたビデオテープを掘り出してもらった。まだ動くビデオデッキがあるというから再生を頼む。ほんの僅かの時間、本当に例の女優が映っていた。プロダクションの男性の記憶と違うのは彼女の役が主人公の妹だったという部分だけで、肌を見せるシーンは確かになかった。
「お前のお陰で助かったよ」
桑島は財布から金を出しながら曾山に言った。曾山はパッケージのないビデオテープを飾りも何もない透明なビニール袋に突っ込みながら顔を上げた。切れ長の目が下から桑島を見つめ、瞬きする。
「ありがとう」
「俺は別に何もしてねえけど」
「さくらさん呼んできてくれたろ」
「まあな」
「じゃあ」
「諒」
曾山は桑島を呼び止め、屈託なく笑った。
「せっかく会ったんだからよ、今度飲みに行こうぜ」
「ああ」
「桑島さん」
ドアを押し開けながら、薮内が低い声で桑島を呼んだ。何の感情も籠らないその声に桑島より曾山が先に反応し、薮内の顔を見て僅かに首を傾けた。
「……曾山?」
「ん? いや、毎度どうも」
手を振る曾山の頭上のテレビに、ボカシが入った女の尻と男の性器が大写しになっている。響き渡るわざとらしい喘ぎ声にげんなりしながら、桑島は偉そうにカウンターに足を上げた曾山に手を振った。
新谷の携帯に電話をかけ、ことの次第を話してやった。新谷は涙声で礼を繰り返し、小躍りせんばかりの喜びようだった。翌日、早速ビデオとどこかで調達したビデオデッキを持ってクライアントを訪問するという。あとはクライアントの出方次第だ。結果損失が出たとしても知らずにやってしまって後日発覚するより余程ましだ、と新谷は笑って電話を切った。
「これでやっと全然楽しくないアダルト祭りが終わる……」
「そうですねえ」
薮内はやけに呑気な口調で答えた。不自然とも思える気のない返事に隣を歩く薮内の顔をちらりと窺ったが、その顔は普段と取り立てて変わらないように思えた。
このあたりはオフィス街だから、既に明かりの消えた建物も多かった。ビルとビルの狭間に隠れるようにしていかがわしい店舗や飲み屋もあるにはあるが、基本的には夜を楽しむような場所はない。
道行く人はみな、週の真ん中、水曜の夜にふさわしくどこか疲れの滲む気の抜けた顔をして真っ直ぐ前を見つめていた。
「疲れたな」
深い意味はなかった。実際にそれほど疲労していたわけではなくて、この時間にそう口に出すのは条件反射というか、会社員共通の口癖に近い。しかし、薮内がそうですねと言ったから、そのまま続けた。
「明日も早いしな」
「そうですね——俺も、今朝早かったし」
「ああ、だよな」
「やっぱり寄らないで帰ります」
さらりと口にされた台詞に必要以上にうろたえた。視線を落とし、自分の革靴の爪先が埃っぽくなっているのに今更気付く。
「……あ、そうか。お前今日、電車だもんな」
「はい」
「気を付けて帰れよな」
「桑島さん」
呼ばれて初めて薮内が少し後ろにいるのを認識した。薮内が立ちどまったことに気付かず自分だけ前に進んでいたらしい。桑島は足を止めて振り返った。
薮内はここのところまた少し大人っぽい顔つきになったと思う。スーツを着た長身の立ち姿は精悍さを増した表情とあいまって一段と見栄えがした。
どうでもいいことだけれど、桑島は明るい色のスーツがあまり好きではない。薮内には黒かチャコールグレイが似合うといつも思う。もっとも、思うだけで言ったことは一度もなかった。これもまた怠慢なのか、と小骨が喉に引っかかったような異物感を一瞬覚えた。
「どうしたんですか」
「……どうしたって、何が」
「何か変っすよ、最近」
「別に変じゃない」
「そうですか」
薮内は目を眇めて桑島をじっと見つめた。普段より男くさいその表情に心臓が駆け足になる。悪さを見つかった子供のように息を詰めながら、桑島は薮内から目を逸らした。
「寄ってほしい?」
「え」
薮内は意地の悪そうな笑みを浮かべ、桑島に一歩近づいた。目が笑っていないのがよく分かる。スーツの生地に街灯が光沢を添える。薮内の脇を通り過ぎていく会社員が腕時計に目を落とし、歩く速度を速めて去って行った。
「部屋に寄ってってほしいですかって訊いてんです」
「……」
どうしてこんな顔をするのだろう。まるで何かが気に入らないとでも言うように。
どうしても何もない。桑島は唇を噛んで俯いた。ようやく薮内が見せる愛情に慣れ、期待を持たせるようなことも言ったくせに。薮内が手を差し伸べようとするたびに俺はまた一歩下がってこいつを落胆させている。
「……」
「どうなんですか。どっちでもいいなら俺、帰りますよ。疲れてるから」
嫌味なのか、つけ足された一言が妙に痛い。薮内は桑島のすぐそばまで来て答えを促した。
「桑島さん? どっちなんですか」
いつもの辛抱強さはどこにもない。微かな苛立ちすら感じられる薮内の低い声に、桑島は顔を上げないまま呟いた。
「……お前が嫌じゃなかったら」
ずるいですね、と低く吐き捨て、薮内は桑島の腕に触れた。
「何だよ、そんな顔してぇ」
背中を強く叩かれ、桑島は思わず痛っ、と大きな声を上げた。
新谷が映像探しに奔走してくれたみんなにお礼をしたい、と言い出したのは金曜の朝のことだった。前日の木曜は桑島の渡したテープと共に客先に缶詰になっていたらしい。タレントの起用についてはこのままいけそうだということだった。
「薮内も来ればよかったのになあ。これから行く店さぁ、結構いい子が揃ってんだぜ」
新谷は桑島の肩を抱き、赤くなった顔に満面の笑みを浮かべてご機嫌だ。一次会で二人が帰り、今は新谷と桑島、そして山口という同僚の三人になっていた。
二次会は女の子がいる店に連れてってやると言われた。丁寧に辞退したというのに新谷に無理矢理引っ張られ、桑島は嫌々ながら店の入り口まで連れてこられたのだ。
「仕方ないんじゃないの。用事あるって言ってたよ」
ネット検索組だった山口が振り返る。山口は連日パソコンの前に座りっぱなしで腰が痛くなったらしく、今日もしきりに腰をさすっていた。
「用事って?」
出先から直行した桑島は、一次会の会場に着いて初めて薮内が来られなくなったと聞いた。しかしその場ではタイミングを逸して理由を訊ねることはできなかった。
「ん?」
「薮内、何で来られなくなったのかな」
一昨日——水曜の夜の薮内はいつもより冷たくて意地が悪くて、そのくせやけに執拗で、桑島は意に反して散々泣かされた。泊まっていけと言ったのに、深夜にタクシーで帰って行った薮内の顔を思い出す。昨日も今日も特段変わった様子は見えず普段通りにしていたものの、新谷と違って機嫌がいいようには見えなかった。
「さあ、知らね。てか、お前の後輩だろ」
「そうだけど……あいつの予定全部把握してるわけじゃないし」
明滅するネオンのピンクと黄色が山口のスーツの肩口を明るく照らす。
「そりゃそうか。まあ金曜だし、あいつ結構もてるみたいだし、急にデートでも入ったんじゃねえの」
「デート! うらやましいねえ、若いっていいねえ!」
新谷は大袈裟に言って、山口と桑島を店の中に追い立てた。
薮内に電話したいな、と漠然と思った。声が聞きたいのか、どこにいるか確かめたいのかは自分でも分からない。どちらにしても今は無理だ。新谷の鼻歌を聞きながら、桑島は気が進まないまま狭い階段を上っていった。
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