21 - 底で嗤うのは
「ご苦労だったね」
基地に帰還したノインを待っていたのは、相変わらずのベリオスの楽し気な声だった。
「首尾はどうだったかな? 例の潜水艦、自信満々だったから任せてみたものの、あっさり撃沈されたっていうじゃないか。やはり日本の海軍は怖いねぇ」
ぴくり、とノインは眉を震わせた。
「……任務は失敗だ。上陸班が全滅した。敵アサルトモービルは全滅させたが」
「ほう? 君一人でも任務を遂行できたんじゃなかったのかい?」
「敵援軍がすぐそこまで来ていた。日本の国防軍は無能じゃないだろう。あれ以上は無理だ」
ノインのそっけない答えに、ベリオスは「そうか」と答えた。どうやらそれで納得したらしかった。
パイロットスーツのまま、ヘルメットを片手にベリオスの横を通り過ぎる――と、ベリオスが思い出したように聞いた。
「そういえば、君に頼んでいた各務弦也はどうなったかな?」
「殺した。その娘もだ」
あっさりと答えて、ノインは更衣室の扉を開けた。
ただの一度も、彼は振り返ることはなかった。
ベリオスはただ、満足そうに笑った。
◆ ◇ ◆
「…………お兄様」
ノインの自室の扉の前で彼を待っていたのは、フィルの不安そうな眼差しだった。
立ち止まり、目線を返すと、彼女は何かを言おうとして――そして噤む。
ただそれだけだった。
重く苦しい沈黙が部屋に充満する。
それを振り払うように、ノインはフィルの横を通り過ぎた。
「あ――」というフィルの小さな囁きが聞こえる。
それでも、ノインは振り返ることなく、自室の扉をくぐった。
扉の向こうから、フィルの走り去る音が聞こえた。
……部屋に入り、そのまま洗面台に向かう。
洗面台で顔を洗う。洗面台に溜まる水が――不意に自分の顔を映した。
(――ノイン・メティス)
不意に。
声が聞こえた。
(殺せ――ノイン・メティス)
その声は、耳元で。
囁くように――そして少しずつ、がなりたてるように。
(殺せ――殺せ!)
「うるさい」
蛇口をひねる音と、口から洩れる声が、その声を遮った。
顔をあげる。
洗面台の鏡は――原型をとどめられないほどに、ぐしゃぐしゃに壊れていた。
『続きましてのニュースをお伝えします――本日、十一時十七分に発生しました、メガフロートリゾート『スピカ』襲撃事件は、死者数十二名、行方不明者数十九名以上にも及ぶものと推定されました。この中には、日本セキュリティサービス協会会長の各務弦也氏なども含まれ――』
テレビに垂れ流しにした衛星放送のニュースをそのままにして、ノインはベッドにもぐりこむ。
『――日本政府はこのテログループの残虐行為に対し、非難声明を発表。同テログループを国際的に指名手配とする手続きを開始しました。また同施設上空で破壊活動を行った国籍不明機に対し、当局は――』
意識が、闇の底に落ちていく。
彼の肉体と精神は睡眠を求めていた。
――だが。
(各務怜奈――)
啓人は思わず、今日再会した、一人の少女の名を呼んだ。
各務怜奈。彼女は『蒼のオーリオウル』のメインヒロインの一人だ。
名家『各務家』の令嬢にして、気高く誇り高い、だがそれを鼻にかけることもない、可憐な慎ましさをもった女性でもあった。
――今日会った彼女は、啓人の知る各務怜奈よりもずっと幼かったが、その片鱗を宿しているように思えた。
そして、リゾート施設『スピカ』襲撃事件。
ゲーム『蒼のオーリオウル』の前日譚として登場するこの事件の顛末も、もちろん、最初から知っていた。
この襲撃が失敗に終わり、ノインの乗る『アズール』が組織の構成員たちを口封じに皆殺しにする、というものだ。
――まさか各務怜奈が人質に取られているとは思わなかったが。
あの時ばかりは本気で焦ったし、怒りを抑えきれなかった――。
ともかく、だからこそ分かっていた。
ノイン以外が全滅すること。
そしてその瞬間、『アズール』への監視がこの一瞬、確実に消滅することを。
分かっていたから耐えてきたのだ。
どんなにチャンスと思える瞬間が来ても、すべて見逃した。
今度こそ確実に成功させるために。
(俺は、ずっと――)
ずっと、ずっと――ずっと。
(この日を待っていた)
意識が闇の中へと落ちていく寸前。
波紋のように広がった言葉は、小さな華を咲かせる。
少年の口角に、笑みという華を。
その華は、誰が見ても、見紛うことなく、歪んでいた。
◆ ◇ ◆
これは夢だ、と、啓人は気づいた。
だがただの夢ではなかった。
――見覚えのある夢だ。
何度も何度も繰り返し見た、あの日の夢だ。
「ドライ!」
フィルがドライの身体を抱き、ただ泣いていた。
流れ出る血は止まらない。
その血を止める術を、この場の誰も、持っていない。
何度この夢を見ても、どうしても、結果は変わらない。
夢の中でさえ、啓人は足掻くことを許されない――。
「ごめん、姉ちゃん……ごめん……兄ちゃん……俺……」
ドライの顔を見て、啓人は気づいてしまった。
なぜドライが裏切ったのか。
最初から裏切っていた? 違う。ドライは――
(俺たちを……守るためか……)
啓人は頭から、氷水をぶっかけられたような気分だった。
三人で基地中枢を襲ってアサルトを奪う?
バカか? そんなことが出来るわけがない。
ベリオスが俺を警戒していないわけがないのに。
武装も警戒もレベルが違う。たとえ格納庫までたどり着けても、物量で押しつぶされて終わりじゃないか。
なんで俺はこんな無謀なプランを立てた?
なんでその無謀さに気づけなかった?
(俺は……焦っていたのか)
気づけば単純なことだった。
体を引きずる。足が動かない。それでも、床を這いずって、ドライの元にまでたどりつく。
思わず声をあげそうになった。
触れたドライの手は、あまりにも冷たかった。
「俺の……せいだ……」
その言葉はあまりにも、あっさりと、啓人の口から漏れた。
「何が……復讐だ……俺は……こんなクソみたいな計画を立てて……そのせいで――」
ドライの身体から熱が消えていく。
冷たく、氷のように。
それはあまりに、あまりにも、啓人の心をぐちゃぐちゃに切り裂いた。
俺は、バカだ。
捨て駒?
じゃあなんで……こんなにも痛いんだ。
こんなにも苦しいんだ。
俺は分かっていなかった。
何も――何一つ――。
「にいちゃん……おねがい」
冷たい手が、啓人の手を握る。
その力はあまりにも弱く、かすかで。
「フィルを――」
――兄ちゃん!
囁きのような声に、ドライの、啓人を呼ぶ声が重なった。
それはささやかな幻聴だった。
その声はもう――紡がれることはなく。
「あ、あ、ああ――」
分かっていなかった。
啓人は孤独だった。
孤独の中で目覚め、孤独の中で生き残った。
その中で、啓人と二人は出会い、共に暮らして。
啓人は、このとき初めて気づいた。
自分自身に吐き続けた嘘を。
本当に依存していたのは――どちらかということを。
「ああああああああああああああぁぁぁぁ―――!!!」
――この世にたとえ奇跡があるとしても、この日、それは起こらなかった。
死とは常に不可逆であり、命とはいつも唯一である。
ドライは死んだ。
ゲームとは違う。コンティニューはない。
死者が蘇ることも、時間が巻き戻ることもない。
たとえ、どれほど生者が願っても――。
(俺がドライを殺した)
何度となく、夢の中で、あるいは夢の外で、啓人の脳裏に囁く声。
百を超えた『アズール』の搭乗実験、そして『メティスシステム』の起動。
混濁する意識。消えていく感覚。
メティスシステムはまるで海のようだった。
その海に沈めば、この悔恨も消えてなくなるのだろうか?
(――それは、ダメだ)
どれほど無様であっても……それでは、何の意味じゃないか。
死に意味を求めるのは愚かかもしれない。
それでも、ただ、嫌なんだ。
(ベリオス、お前を殺すまで――)
まだ、海に沈んではならない。
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