03 - ひとひらの

 何時間もの拷問を終えて、ようやく俺は解放された。

 檻から別の檻に運び込まれ、ボロ雑巾のように投げ捨てられる。


 拷問の傷は――癒えていた。

 ここに来る前に治療を受けたのだ。

 男いわくこれは「教育」なのだから、俺を殺す意図はないのかもしれない。


 いや、もう、殺してもらったほうがずっと楽だ。

 明日も――明日も?

 全身が震える。痛い、苦しい、死にたい、どうして、こんな目に?


 どうして――


(あ……)


 不意に、記憶が呼び起こされた。


『だから、君にあげる。僕の身体も、命も、記憶も、すべて』


 その声が。


(あのクソ野郎――!)


 呼び起こしたのは、激烈な怒りだった。

 自分は、たぶん一度死んだのだろう。

 死んで――転生? 転移? 憑依か? 分からないが、あの少年と交代したのだ。


 この肉体は、この環境は、おそらくあの少年のものだった。

 少年は「限界だ」と言っていた。

 そりゃそうだ。もう限界だろうさ。こんな拷問を毎日受けていたら、耐えられるわけがない。


(殺す! 絶対に殺す! あのクソガキが――!)


 といっても、あの少年の精神は、もうこの世にはない。

 あるのは肉体だけだ。つまり自分の肉体。

 これを殺すのは、要はただの自殺だ。


 悪い選択ではなかった。

 これ以上、あの拷問を受けなくて済む。

 ここで自分の舌を噛み切ってしまえば、死ねるかもしれない。


(……無理だな)


 いやに冷静になって、自分の選択を否定した。

 実は、記憶があるのだ。『俺の』ではない――この肉体の。

 その記憶いわく、少年は自殺を何度も何度も試みて、すべて失敗に終わった。


 首を吊ろうとしてもすぐに発見され、どれだけ危篤の状態になってもすべて医者に蘇生される。

 あの男は、自分を逃がす気がない。だから自殺など許すはずがない。


 ここに自由はなかった。あるのは苦痛と絶望だけだ。


 ならば――


(あの男を殺す)


 拷問中に楽しそうに笑っていたあの男を。

 それ以外に、自由になる方法はない。

 そうすれば死ねる。あるいは――ここから逃げ出せる?

 それだけが、唯一残された、ひとひらの希望だった。そしてそれは、あの少年が決意し、そして諦めた希望だった。


(それなら、俺がやってやる)


 二重の復讐心。

 自分をこんな目に遭わせたあの男。

 そして自分にこの肉体を明け渡した少年。

 男を殺し、なお生き残った時、二人への復讐は完遂する。

 

(殺してやる――絶対に)


 俺はそれだけを胸に、静かに眠りに落ちた。


 ◆ ◇ ◆


 『少年』の記憶を引き継いだ。

 しかし代償のように、彼自身の記憶はほぼ欠落していた。

 どこで生きていた誰だったのか。まるで思い出せない。その記憶は深い沼の底に落ちていて、頑張れば届くかもしれない、という気はするが、まるで届く気がしない。


 ただ、一つ覚えているのは自分の名前。

 新谷啓人。

 その名前だけだ。


(俺は新谷啓人)


 拷問の中で、何度も何度も、忘れないように、噛みしめるように自分の名を呼ぶ。

 忘れてはならない。少年の名前を使う気はない。

 自分は新谷啓人だ。新谷啓人なのだ。


 これは復讐の一環だった。

 何一つ、どれ一つ、あの少年の思い通りになどさせない。

 彼のかわりの人生など歩んでやるつもりは毛頭ない。


 何度、何度何度、痛みで意識を漂白されようと。

 自分の名前だけは、復讐だけは、かじりついても忘れない。


 ――それは客観的に見れば、あまりに支離滅裂な思考で、復讐心だった。

 だがそれだけが、彼にとって縋りつけるよすがだった。


 そして。

 マグマのように憎悪で煮えたぎった目で、『男』を睨みつけながら。


 一年間。一年だ――。

 ひたすらに拷問を耐えきった。


「――すばらしい」


 恍惚とした声で、男は謳うように笑った。

 この一年間に及ぶ拷問の数々は、啓人の想像を絶していた。

 生爪をはがされ、指を一本一本丹念に叩き折られ、傷口に虫を入れられ、毒を飲まされ、電気を流され――口にすらも憚られる拷問、曰く『苦痛耐性獲得訓練』の数々。


 普通の人間なら、もう死んでいる。

 未だ啓人が生きているのは、ただ復讐心と、男の用意した尋常ならざる医療手段のおかげだった。


「すばらしい。すばらしい。すばらしいよ!」


 興奮するように何度も何度も手を叩き、拷問部屋を右往左往して、哄笑をあげた。

 啓人は、それを冷めた目で見ていた。

 狂っているな、とただ冷めた思考で思った。


 この一年の間、男を睨み続けていた啓人は、その性質をおおよそつかんでいた。

 この男は狂っているが、暴力に狂っているわけではない。

 基本的には紳士的だ。暴言をぶつけることもない。暴力を振るうこともない。どれほど睨みつけても、男はいらだちさえ一度も見せることはなかった。


 この男が狂っているのは――この拷問を、掛け値なしの本気で「教育」だと思っているところだった。


「いいだろう、合格だ。君は今日から僕の息子だ。ノイン、と名乗るといい」


 おめでとう、と、彼は俺の手を握った。


(クソくらえだ)


 反射的にそう思い、男の手を握りつぶしてやりたかった。

 だが生憎と力が入らず、ただの握手になってしまった。あまりにも屈辱的だった。


「では、最初のテストだ」


 男は腰のホルスターから拳銃を抜き、俺の手に握らせた。


「その男を殺しなさい」


 男が指さしたのは――さっきまで俺を拷問していた大男だった。

 大男は、ぎょっとしたように体を硬直させる。


 ――衝動的に、俺は目の前の金髪男に引き金を引こうとした。

 もとよりあの大男アイツも、目の前の男コイツも殺すつもりだ。これはチャンスだ。

 なのに――


(駄目だ)


 全身から鳴らされる警報に、従うほかなかった。

 それはただの直感で、本能だ。

 今ここで、目の前の金髪に引き金を引いたとしても――こんな零距離のはずなのに。殺せる気がしない。


 理性では分かっている。やるべきだ。全員殺すべきだ。

 だが、本能では理解していた。

 たとえ拳銃を使っても、目の前の男を殺すには、まだ


「君も、抵抗していいよ」


 男がそう言うと同時、大男は慌てたように手に持っていたペンチを振りかぶる。

 咄嗟に拳銃を持ち上げて、引き金を引いた。


 手首が跳ねあがるような反動。破裂音。

 弾丸は大男の胸に着弾し、鮮血が花のように散った。


 大男がたたらを踏む。眼が見開く。

 ――まだ死んでいない。

 今度こそ確実に、大男の顔に狙いを定め、もう一度引き金を引いた。


 跳ね飛ばされるように、大男は仰向けに倒れた。

 今度は、ぴくりとも動かない。


「やはり、君は素晴らしい」


 横から伸びた手が、俺の手から拳銃を奪い取った。


「それに賢い。僕に向けて撃っていれば――君は死んでいた」


 いつものようににこりと笑って、男はそう言った。


「さあ行こうノイン。我が息子よ」

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