春の彗星

如月 サイ

第1話 初対面

 中学三年の秋、松岡一心は心を揺さぶられるような出会いをする。


 ある朝、昇降口に着くなり一心は声をかけられ、まだ生欠伸をしながらその声だけを聞く。声と言葉の内容から、普段から自身を見つけると甲高い声を上げて寄ってくるタイプの女子だと分かると、一心は顔も見ずに下履から上履きに履き替え、未だに話し続ける女子に構わず進んでしまう。朝から元気なもんだ、と他人事のように適当な相槌を打ちながら、一心は話の内容などまるで把握しておらず、今日も化粧濃いな、とか、香水の匂いキツイな、など全く関係のないことを考えてばかりの朝だった。


「ねえ松岡聞いてるー?」

「あ、悪ィ。昨日夜遅かったからまだ眠ィんだよ」

「え、そうなの?大丈夫―?」

「へーきへーき」


 一心はそんなことを言いながら、女子が早くどこかへ消えてくれないか、と必死だった。ただ実際に夜が遅かったのは事実のことである。もう受験シーズンがすぐそこまで近付いていた。教師たちは口を揃えて勉強しろ勉強しろとしか言わない。一心は元々素行があまり宜しくなく、教師に反抗することも多々あり、教師側からすると厄介な問題児であった。しかしながら、中学生というまだ未熟な社会の中で、彼の目立つ言動はどうしたって学校中の目に留まり、まだ何も知らない純情な子どもたちは、彼のような目立つ人間に寄り付くものだった。理不尽に怒られていようと何も言えないクラスメイトの代わりに、おかしいことはおかしいとハッキリ言ってしまえる一心に、子どもながらに憧れを持つ者も少なくはない。更に容姿にも恵まれた彼の周りには、こうしていつも女子がそのポジション争いをしているらしい。

 教室に着くとすぐに「一心」と自身を呼ぶ声を耳にする。一心は安堵の息を吐きながら、女子との会話を中断し、その声の方へ向かう。彼を呼んだのは、友人でありクラスメイトの佐野と徳島だった。仲が良くなったのは三年で同じクラスになってからだが、二人とも一心のことをよく理解してくれている良き友人たちであった。


「助かった」

「お前さあ、普通嬉しいことだろ?朝来てすぐに女子が駆け寄ってきて話してくれるなんてさ」

「興味ねえよ、そんなの」

「そんなんだと、一心くん一生童貞くんだぞ」

「るせえわ、殴るぞ」


 窓際の席、三人で話しているこの時間が、一心にとって一番の好きな時間なのかもしれない。等身大の自分を出せるこの空気が落ち着くのだ。自身に向けられるその視線が、果たして本当に松岡一心という人間に向けられているものなのか、それともその奥にあるものに視線を向けられているのか。日常の些細なところで半信半疑になるくらい、一心は人を信用できないでいた。しかしながら、佐野と徳島には通じ合う何かを確信したのである。彼のこの人間不信は、おそらく家庭環境から来るもの。そして、教師への反抗的な態度もおそらく家庭環境の影響とその反動である。


「ああ、それ二組の奴だろ?えーと、確か原田とかいう」

「そうそう。あの子、なんかいろいろ噂立ってっけど顔よく見たら普通に美人なんだよ、俺タイプ」

「マジ?ちょっとクールすぎて俺は怖いわ。それなら小田さんの方が好き、カワイイし」

「あー、確かに。小田さんはカワイイ系のぶっちぎりで一位だわ。一心はどう思う?」

「……何の話だ?」


 少し考え事にふけっていた一心はその間に二人の話が進んでいたことに気付かなかった。これはよくあることなので、二人もお得意のとでも言いたげな顔をしている。


「一心には分からねぇか」

「一生童貞くんには早すぎる話だったわ、ごめん」

「お前それ次言ったらマジで潰すぞ」

「怖っ!ヤクザかよ」


 そんな会話を日常的に繰り返す毎日がずっと続けばいいのに、と心から思う受験生の秋。

 授業は毎日が受験対策を行っていた。素行のよろしくない一心ではあるが、授業は真面目に受けていた。それでも、どうしても一心のことを気に入らない教師がいたりすると、彼は自分からその授業をボイコットすることがあった。今日も今日とて、その教師の授業があった為、一心は休み時間の間にお気に入りの場所に逃げたのであった。


 のそりのそりと登った階段の奥の重い扉を開く。年季が入っているせいで、軋む音にいつも耳を塞ぎたくなる。だが、その音の向こうに、有限という言葉は嘘であるかのような広大な空を眺められるのだ。どこまでも限りなく続いているこの空を見ると、一心の心は浄化されていく。詰まるところ彼は受験や学校での人間関係、家庭の環境から、様々なストレスを抱えているのである。


 今日も、その景色で心を浄化しようと、見た視線の先。


 一心はまるで映画のワンシーンでも見ているかのような感覚に陥った。

扉を開けたすぐ向こうに華奢な少女がいた。少女は、屋上に取り付けられた転落防止のフェンスの向こう側にいて、一心が扉を開けた音に驚いてしまったせいか、フェンスを握る手は片方だけであった。

思うより先に、言葉よりも先に、足が動いた。依然、驚いた顔をしていた少女の表情など気にもせず、一心は少女に突進しては、フェンスを握る手と、宙を彷徨う片方の手を掴む。そして、ようやく出た言葉は「何やってんだ」の一言であった。


「アンタ何そんな…つか、離してくれない?痛いんだけど」

「馬鹿野郎!てめぇ、今俺が手ェ離したら、そのまま真っ逆さまだろうが!」

「…そんなわけないじゃん」

「いいからそんな危ねえとこいねェで、こっちに来い」

「いや…私は、」

「そんなことしたって、誰も喜ばねえぞ」


 とにかく必死だった一心は、自分の経験則から言葉を捲し立てる。おそらく少女の方には何か事情がありそうだが、一心にはそんなところまで分からなかった。それもそうだ、いつも見慣れていた景色を見ようとしただけなのに、そこに今にもこの世から去ろうとせん少女が目に入れば、誰だって必死になるものなのだ。そこで少女が気まずそうに口を開く。


「名札、落としちゃって」

「あぁ?」

「だから、名札を落としたから、取ろうとしてただけなの」


 汗すら掻いていた一心とは相反して、冷静に話す少女は両手を掴まれていたため、目線で名札の落ちている場所を見遣る。一心もその視線を辿るように追いかけると、確かにフェンスの向こう数十センチの距離に名札らしきものが落ちていた。だが、一心はそこで不思議に思う。


「この距離ならわざわざフェンス越えなくても、取れるだろうが」


 そう言われ、少女はほんの少しだけ目を見開いた。その瞳は対面する一心を映す。柔らかなベージュの髪が風に靡く。白い肌に、少女と呼ぶには大人びた目鼻立ち。その大人びた風貌の少女は、一心の言葉に罰が悪そうに笑った。その何とも言えない儚い笑顔が、一心の心臓に突き刺さる。


 彼は、その表情を知っていた。何かを必死で隠そうとするその表情を、彼は身をもって知っているのだ。


 おそらく、名札を取ろうとした、というのは少女の言い訳で、本当のところは一心が最初に疑った通り、彼女はこの世から去ろうとしていたのではないか。


 ひとまずフェンスの手前側の安全領域に彼女を移動させ、名札は一心が取ることにした。制服の上着を脱ぎ、腕まくりをして、フェンスの下の隙間から腕を通す。確かに男子のリーチでようやく届くくらいなので、女子の体格ではこの取り方は難しかったのかもしれない。しかし、それでも一心は確信していた。ようやく手中に収めた名札を確認する。


「原田…さん」

「はい」

「名札この色ってことは、同じ学年か」

「そうなんだ」


 一心はあまり自分の周り以外のことに興味がない。それ故に同学年の、それも女子生徒のことなど、ちゃんと把握できていないのだ。それに比べて佐野や徳島は、各クラスの女子を把握しており、あの子が可愛い、あの子がタイプだと普段から会話している。現に今朝だってそんな話をしていたはずだ。徳島の好みが可愛い系の、と思い出しているところで一心は徳島の好みの女子の名前をやはり思い出せなかった。その情報を少しでも齧らせてもらうべきだった、と後悔した一心だった。

同じ学年にも関わらず、名前も顔もよく知らない生徒の自殺未遂とも呼べる場面に直撃してしまうとは。


「授業、受けなくていいのか?」


 人付き合いが上手ではない一心の精一杯の言葉であった。少女は一心と少しの間を空けて体操座りをしたまま、空を見上げていた。


「あんな授業受けたって、意味もない」

「いや一応中学は義務教育だぞ」

「それは知ってる。でも賢くなくたって、生きていける」

「原田は勉強嫌いなのか?」

「嫌いじゃないよ。成績も悪い方ではないと思う」


 そう言われ一心は興味本位で先日の中間テストの結果を尋ねると、そのほとんどが一心よりも点数が良く、勝手に悔しさを覚えていた。


「頭良いんだったら、尚更授業受けとかないといけねえんじゃね?内申点に響くだろ」

「…そういうのクソくだらない」


 一心は思わず固まってしまう。女子というのは綺麗だの可愛いだのという脳内が花畑の友人たちから得た陳腐な情報しかないせいか、目の前の女子からクソとかいう言葉が吐き捨てられたことに驚きを隠せなかったのだ。しかし、それは内心の話であるので、一心はこの時もポーカーフェイスを気取っている。


「授業を受けるのと、自分で学ぶの、どっちでも学べる知識は同じ量。あんな鬱屈した空間で学ぶよりも、自分の好きな空間で得る知識の方がより吸収されやすいはず」

「……原田は学校嫌いなのか?」


 考えるよりも先に質問をしていた自分に、驚いた一心だったが、一心は彼女の表情を見てついにそのポーカーフェイスを崩してしまう。


「うん、大っ嫌い」


 言葉は酷くマイナスな内容なはずなのに、彼女は笑っていた。しかしその笑顔はやはりどこか儚いものであって、触れると消えてしまいそうだった。ただ、今度はその言葉が嘘ではないのだと言うのは、何故か一心には分かっていたのだ。

 それは、彼女が一心のことを佐野や徳島と同様に、特別扱いしていないことに起因していたのかもしれない。


 しかしながら偶然とは言え、この衝撃的な出会いは、一心の運命ともいえるものであるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る