ショート・ショート集

紺野しぐれ

ショート・ショート

線香花火

 何度目かの夏の訪れ。この青々とした空に、いつになく眩しい目を刺すような白い雲。とても清々しいのに、とても胸が痛む思いをもう何度か繰り返していた。

 幼馴染みの千紘が死んだのが夏だったからだ。

 白い病室で、男子競泳のコンクールを撮ったビデオを一緒に観た。その夏、成績の良かった俺は見事県大会で優勝を果たした。

 十六歳、高校一年の夏――俺の時間はそこで止まっていた。

 地元の大学に入学してから、夏の間はいつも海の家でバイトをしている。実益と趣味を兼ねた、またとない好都合な仕事。

 子どもの頃から通い続けた自宅からも近い海は、時化も満ち引きも顔を知り尽くしている。十数年と時が経った海の家は老朽化が進み、小父さんは爺さんになって、息子夫婦が代を継ぐ過渡期にある。

 時代の流れを感じながらも、そこは、俺にとって変わらない場所だった。

 

「省吾君が今年も手伝ってくれるの、ありがたいわ」

「……こんにちは、小母さん。これ、うちの親父から差し入れ。ヒシメキ堂の水饅頭だよ」

 マウンテンバイクを海の家へ寄り掛け、菖蒲色の風呂敷包みを年々と腰が折れてきた小母さんに手渡す。

 この海の家はすぐ側の旅館が持つプライベートビーチで、その客と俺のような関係者を除いて利用者は居ない。そこがミソだった。大衆向けの海水浴場の何倍も仕事は楽なのだ。

 今日も、見渡す限り二組程度の家族連れしか居ない。

 年々と人の数は減っていた。それは、易々と喜べる事態ではないのだろうけれど。

 自宅から水着一枚にTシャツ一枚で来た俺は、前カゴにシャツを脱いで放り、ビーチサンダルを脱ぎ捨てて白浜を走った。蹴った砂が熱い。

 U字型に両側を崖に囲まれたこの海は飛び込みにも適している。遠浅が好まれる海だけど、ここはそうじゃない。水深は陸から一メートルもすれば二倍になる”ドン深”。この海で泳ぐのは腕に覚えがある奴だけだ。

 黒岩を駆け上がるように登って、身を整える。――深呼吸。

 高飛び込みのようには体を捻らずストレートに伸ばした両手足で、頭から着水する。つま先が岩を蹴る瞬間が好きだった。体中に”視られている”緊張感が走って、きゅっと腹筋が締まるのを感じる。

 「千紘」。口の中で呟く。実際はただの俺の妄想でしかなかった。単に過去がフラッシュバックしてあたかも今起きていることのように感じているだけだ。わかっていても、それは都度起こる身体の反射になっていた。

 着水したら、今度はそのまま潜水して息の続く限り深海を泳ぐ。

 肺の中の酸素を少しずつ吐いて、空っぽになった頃、ぐるりと宙を回って両足に海水を蹴り上げて一路海面を目指す。

 すると見えるんだ。千紘が描いた絵の蒼が。遺作となった「海月」は、市の美術館に寄贈されてしまった。だから俺は、夏の度にこの彩を瞳に焼き付けた。少しでも千紘が傍に居たことを感じられるように。

 ――少しでも千紘の傍に居られるように。

 

 

 

 バイトの後、家に戻ると部屋へ放っていた携帯電話には一件の留守録が入っていた。手短なメッセージ。

「納涼祭、来るんでしょ。最後でいいから、ちょっとだけ時間ちょうだい」

 高校二年の夏に告白を受けるがままに付き合っていた同級生の羽柴早苗の声を聴くのは半年振りだった。別の大学へ通うとはいえ、お互いに地元を離れなかった。にも拘らず、この度の連絡も葉書での季節の挨拶を除いて一度となく、関係は冷え切っていた。

 携帯電話なんて便利なものがあっても、意外と周りも俺自身もアナログなままだった。必要最低限以上に使うこともない。羽柴からの連絡もいつもなら家の電話に寄越していたところだろう。

 彼女の言う「最後」も相まって、別れ話になるのは避けようがないだろう。そんなことを、ただ淡々と考える。自分でもどうかしていると思った。

 そういえば朝から親父の姿がなかったことに気づく。納涼祭の準備に駆り出されて出て行ったのだろう。開け放した縁側の近くへ置いた扇風機が人の居ない部屋に首を振っていた。

 鼻先に届く線香の匂い。おふくろが死んで二年、古い一軒家は男二人には広すぎた。失くし物が続いて、恋愛どころじゃあなかったのかも知れない、自分のことでありながら何処か他人事のように感じていた。

 斜陽が差し込む縁側の障子を閉め、蚊取り線香へ火を点した。

 遠く、祭囃子が聴こえて来ている。遅れて、軽やかな下駄の擦れる足音が続く。

 納涼祭は、駅前の広場を中心に商店街の三百メートル程を縁日屋台が飾り、屋台は主立って商店街の協賛を得て行われる。

 恐らく親父は祭が終わった後の撤収作業も手伝うのだろう、ともすれば帰りは必然遅くなる。台所の火の元と水道の蛇口を閉めて回り、突っ掛けを履いて家を出た。家の鍵は閉めないでおく。

 しかし、いくら町内行事とはいえ待ち合わせるでもなく、何処に居るのだかわからない彼女を見つけられるんだろうか。ぼやきたくなりながら、両手をジーンズのポケットへ突っ込み、歩いた。

 夏の夜は長い。太陽の位置はまだ高く、日没まで二時間はありそうな具合だった。日没を待って商店街を抜けた先、国道を挟んで見える海沿いでささやかながら恒例の花火が打ちあがる予定だ。

 浴衣に兵児帯の装いを金魚のようにひらひらと踊らせて子どもがはしゃいで走り抜けて行く。そんな光景に懐かしさを感じずに居られない。夏は、いつも以上に俺を感傷的にさせる。この状態で羽柴に会って彼女の機嫌を損ねないようにするのは難しいかも知れない、そう思った。

 商店街の南口に当たる入り口で、彼女は立っていた。

 濃藍に白と紫紺の芍薬柄の浴衣にセミロングの髪を結い上げてかんざしを留めている。声をかけるより先に息を飲んで立ち止まったのは、俯いた姿があまりにも儚くくずおれてしまいそうだったからだ。

 前を歩いていた一団が商店街に入り切ってから声をかけた。

「……羽柴、ひさしぶり」

 羽柴は、すっと顔を上げると表情を和らげる。高校時代、同じく水泳部に所属した彼女は向日葵のような明朗さと快活さが印象的で、その笑顔だけは今も変わらなかった。

「変な連絡入れてごめんね。あの時はちょっと腹が立ってたんだ」

「今は怒ってないの?」

「……しょうがないことだって、わかってるから。ねえ、折角だからちゃんとデートしようよ。最後にね、線香花火したいんだぁ」

 言うなり、羽柴は俺の手を引いて商店街を歩き出した。遠慮がちに指先握るようにした手が、汗ばんでいる。伝わってくる緊張が逆に、俺を安心させた。

 酒屋がドリンクとかき氷、精肉店がコロッケやポテトフライという具合に商店街の加盟店が露店を出している。金物屋や、閉じてしまった商店の前には余所から屋台を呼んでいた。年々、シャッターの下りる数が増えているここも、この祭の夜だけはそれを感じさせない。

 ざっとひとまわりしたところで引き返して、羽柴がいかの姿焼きを買って来たので俺は二人分の缶ビールを買って、人混みを離れた。行き先はちょうど少し高台になる児童公園。

「部活帰りにみんなであそこから観た花火、あたし忘れられないんだ。未だに思い出しちゃう」

「俺、羽柴に背中の皮剥かれた気がする」

「剥いた剥いた、だって省吾、暑いからって脱いじゃって。真っ黒に焼けてたね。めくれてるの見たら、剥きたくなる」

 缶ビールのプルタブを開けながら言う。ずっと昔のことを話すように彼女は言うけれど、俺にとってはまるで昨日のことのように思い出せる。

 遠く、弾けるような音が響いた。空はまだ地平線が朱鷺色をしていたけれど、腕時計を見れば既に時刻は七時丁度を指していた。公園には他にもこの好スポットを知る家族やカップルがぽつぽつと集まっている。

「乾杯、新しい出発に」

 赤、金、緑と花咲く夜空へ缶を掲げる羽柴に、遅れて缶を掲げる。

「……新しい出発って」

 ひと口嚥下したところで訊ねた。羽柴は、花火を目に焼き付けようとしてるのだろうか、俺には目もくれないまま唇を軽く手で拭った。

「あたし、省吾にはしあわせになって欲しいと思ってる、本当に」

 話が噛み合った気がしない。姿焼きを食みながら、その言葉の続きを待った。

「告白した時から、省吾ずっと変わってない。気づいてる?気づいてるんでしょ、本当は」

 ささやかな花火は、ほんの十五分程度で終わる。羽柴の問いかけに答えを探して黙り込んだ俺は、そのほとんどを見逃していた。

「あっ、ほら、最後の一発」

 指差した彼女の指の先、尾を引いて昇る一発は、ぱっと大きく花開いた。

「千紘のこと言ってるなら、……というかそこしか思い当たらないけど、その通りかな。手につかないんだ、何も」

「幼馴染みだもんね。あたしは面識がほとんどないけど、省吾が付き合い悪いんだって愚痴ったら、クラスメイトはいつも口を合わせて言ってた。『アイツは千紘に魂ごと持ってかれたようなモンだ』って。……ひどい言われようね」

 初めて聞く話だった。誰も彼も、今に至るまで俺に千紘の話で揶揄することはおろか、腫れ物扱いする素振りもなかったと記憶していた。

 だけれど、思い起こそうとすればあの夏以外すべておぼろ気で心に残る瞬間がない。

「最初はね、すごく妬いた。あたしが省吾をしあわせにするんだ、しなきゃ、ってずっと思ってたの。だから躍起になって、空回りして、一方的にあたしが臍曲げて。……そういうの、お互いの為にならないなあって、やっと気づいたの」

「……ごめん。粗末に扱ってるつもりはなかったけど……」

 扱い方を知らないとはいえ、俺の彼女への態度はきっと、他のどんな男より至らなかっただろうことは容易に予測出来た。

 羽柴は小さく笑うような呼気を立てる。

「だから、今日は終わりで始まりの日にしようと思って。それでね、省吾にひとつだけお願いがあるの」

 何、と訊く前にすっと目の前に差し出されるのは、線香花火。ぼうやりと点いた外灯の灯りの下で、羽柴は少し強引に俺の手に一本握らせた。

「お願いって……」

「願掛けしよ、一緒に。どうなりたいか、どうしたいか、この一本に掛けるの」

「火種、落ちちゃうだろ」

「いいから」

 二人並んで手にした線香花火にライターで火を点けた。

 じくじくと膨れ上がるように緋色の珠が出来上がり、やがて、ぽつぽつと針を出す。

 いつも、願掛けは叶いそうにもないことを願ったものだった。羽柴は、何を願うのだろう。

 手を揺らさないように用心しながら横目にちら、と窺う彼女の横顔はとても真剣だった。

 やがて、大きく膨れ上がった珠が真っ直ぐに地面へ落ちた。羽柴の方が数秒先だった。あーあと嘆息を吐き出す表情は妙にすっきりとして見える。

「落ちちゃったね、やっぱり」

「羽柴は、何をお願いしたの」

「省吾が前向いてしあわせになりますように。……ねえ、ちゃんとお願いした?」

 頭を掻いて呆けてみせると、肘で小突かれた。

 火種の落ちた後に下駄で砂を掛けている頬に、ほんの一瞬のキスをしてみる。

「……何よ、ヨリは戻さないからね」

「わかってる。……お前こそ、しあわせになれよな」

 照れたように唇を尖らせる羽柴の肩をぎゅっと抱き寄せた。

 こんな風に自分を想ってくれる人間が一体何人居るんだろう。俺は、馬鹿だなあと思った。

「ずっと立ち止まったまま、悲しまれ続けるなんてあたしなら願い下げよ。逝きたくても逝けない。……あたしじゃなくてもいいの、ちゃんと、省吾が大事にしたいって思える誰かが出来たらいいなって……多分千紘君も思ってるよ」

 腕の中で、羽柴は大人しく納まっていた。

 端から見れば、今まさに別れようとしている恋人には見えないだろう。二年掛けて、初めての抱擁が別れの日になるなんて思いもしなかった。

「もうじき、また今年も帰って来てくれるのかな」

「きっと心配してるよ。胸張って迎えなきゃ」

「………うん」

 ゆっくり抱擁を解くと、羽柴は立ち上がって大きく伸びをする。俺も、合わせて真似てみる。

 長い、夢から醒めたような心地がした。




 お盆を過ぎた頃、ポストに一枚の絵葉書が届いた。

 エア・メール。消印はロンドン、羽柴からだった。

 

 拝啓 夏男のきみへ

 

 急なお手紙でごめんなさい。

 実はわたし、留学することにしました。

 黙っていてごめんね、どうしてもそれを別れる理由だと思って欲しくなかったの。

 きみにも、この先いろんな出会いがあって、楽しいことも悲しいことも、いっぱいあると思う。

 今を大事に生きてね。

 省吾の気持ちは消えたりなんかしないし、減ったりすることもないわ。ただ、過去に縛られていることは目の前のものを見ないことにつながってしまう。

 わたしも頑張るからね。

 また、帰ったら連絡します。

 

                       

 

 絵葉書にはイギリスらしい、羽根の生えた妖精のイラスト。チョイスがやたらに女らしい。そんな彼女の可愛さも、初めて知った。

 盆の最終日、俺は夢を見た。普段、寝つきがとてもいい為か夢という夢を見たことがなかったからそれは強烈な印象となって起きても鮮明に覚えていた。

 砂浜で泣きながら砂の山を作っている俺の肩を千紘が叩く夢。

 困ったような、悲しいような、寂しいような表情で微笑んでいた。

 縋るように抱きついてもう放すもんかと思ったところに「だいじょうぶだよ」、と宥める声が聴こえて目が覚めた。

 そこから、ぽっかりとした空虚感こそあれど、俺は徐々に現実感を取り戻し始めていた。

 そういう自覚が出来るぐらいにはなっていた。

 きっと、この先もずっと俺は千紘のことを忘れることはないだろう、と思う。

 それでも歩いて行けると、今は確信を持てた。心配させてばかり居られない。

 文具店で蒼の映える海中の絵葉書を購入した。

 拝復 お人好しの君へ――

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