第22話


 雨がしとしとと降り続く。今日は雨だ。気圧が低く下がり、気圧に神経を任せている者たちにとっては最悪な日であろう。平気な人はけろっとしているが、それがまたにくたらしくてねたましい。低気圧弱者が水たまりをけった。


 アーマイゼが窓から雨の様子をながめる。


(今日は雨なのね……)


 アーマイゼがぽーっとする。


(雨か……)


 クモ姫は雨に弱かった。


(クモ姫さま……)


 ――アーマイゼ。


(あっ!)


 アーマイゼが両方のほほに手をそえて、ふるふると顔を振った。


(いけないわ。わたしったら、つい姫さまのことばかり考えて……)


 アーマイゼは不安だったのだ。新婚夫婦は毎晩お互いを求めてやまないのだと電子書籍で読んでいたから、思いが通じ合い、はじめての体験も終わり、自分たちもきっとそうなるのではないかと思っていた。

 だが、そうはならなかった。人生とはむずかしいものだ。クモ姫はアーマイゼを思うがあまり、手を出すことができなかった。ならばアーマイゼから誘えばいいではないか。そうは問屋がおろさない。アーマイゼははじめてがうまくいかなかったのではないかと不安だったのだ。だから誘ったところで、クモ姫に拒まれたらどうしようという不安が募ってしかたなかった。


 だがそんな心配はなかった。だってクモ姫はだれよりもアーマイゼを愛していて、アーマイゼもクモ姫と同様に、はじめての恋と、燃え上がる愛を、クモ姫に捧げていたのだから。


 ただ、二人がすれちがっていただけ。

 それを、なんという不幸中のさいわいか。

 招かねざる客であるクモ姫の遠い遠いうんと遠い親戚のアシダカ姫の猛毒、女にとっては媚薬となる毒のおかげで、すっかり解消されてしまった。


(あの夜は、それはそれは熱かった……)


 アーマイゼの脳裏に思い出してしまう。


(やわらかいお胸だった)


 乱れたクモ姫にひどく興奮した。


(あの夜は、アシダカ姫さまの毒で、おかしくなってたから……)


 美しい肌を指でなぞれば、クモ姫が聞いたことのない声を出した。とても、つややかな。


(姫さま……)


 もっと聞きたくて、舌でなぞれば、クモ姫がまた聞いたことのない、なんともすけべな気持ちになってしまう声をあげたのを、この耳が覚えている。


(ああ、だめ……)


 アーマイゼが胸を押さえた。


(わたし、今、人にはとても言えないくらい、はしたないことを考えてるわ)


 生まれたままの姿であったクモ姫のことが、頭からはなれない。


(愛しいかた)


 わたしの妻。


(ああ、どうしましょう。どんな顔をして、クモ姫さまに会えばいいのかしら。ああ、姫さま……。……あ、そうだわ)


 アーマイゼは鏡で自分の顔を見た。しかし、クモ姫のほうが断然美しいと思って、ハチに鏡をあげた。


「ほら、坊や。見てごらん。お前がうつっているわよ」

「みゃーっ!」

「まあ、たいへん。おどろいてハチが後転してしまったわ。うふふっ! ふふっ! なんてかわいいのかしら。ハチ。いーい? これは鏡よ。お前がうつってるだけよ。こわいの? うふふ! かわいい子ね」


 雨からかくれた縁側で、アーマイゼとハチのたわむれが執務室から見えて、クモ姫がキセルをふかせた。


(アーマイゼ)


 なんと愛らしいアーマイゼ。

 こんなにもどんよりとしていて、気圧がどーーーーん! と下がっていてにくたらしくて自分の糸でぐるぐるまきにしてやろうかと思うような天気のはずなのに、アーマイゼの笑顔を見るとそんな気分も晴れやかに吹き飛んでしまう。


(この手で抱きしめたい)


 そんな衝動に駆られ、クモ姫が執務室のドアにふり返った。それを見た大臣がまゆをひそめる。


「クモ姫さま! 早いに越したことはありません! さ! 確認書類ですじゃ! ご確認するのですじゃ!」


 大臣が低気圧の分まで糸でぐるぐるまきにされた。だから低気圧ってきらいなの! もう、いやになっちゃう!


 クモ姫が足早に縁側へと向かう。階段は糸で進み近道をし、アーマイゼとハチの背中が見えて、クモ姫はふと、かべのうしろにかくれた。自分に気づいてない二人を近くで見たかったのだ。


 アーマイゼのクスクス笑いながらハチの背中をなでる。


「ハチ」

「にゃあ」

「わたし、お前になりたいわ」


 なんだと。クモ姫はまゆをひそめた。アーマイゼは、ネコになりたいというのか? 一体なぜ。わたくしの愛が足りなかったか?


「だって、お前になったら、いつだってクモ姫さまのひざの上にいられるんですもの」


 クモ姫がかべのうしろで、頭のなかがアーマイゼにおおい尽くされ、非常に思い悩み、とりあえず、その場でもだえた。


「それに、クモ姫さまの手で、こうしてやさしくなでてもらえる」


 アーマイゼがやさしくやさしくハチの背中と頭をなでた。


「うふふ。かわいい子ね。ハチ」


 わたしも、これだけ甘え上手ならよかったのに。


「そしたら、クモ姫さまに好きなだけ、甘えることができたのに」


 アーマイゼは小さなころから長女以上の役目を果たしてきた。病弱な母。弟妹たちの面倒や、家の仕事。出稼ぎだって、なんでもやった。それがしあわせだった。家族が笑顔でいられるなら、自分もしあわせだった。しあわせであることに感謝をしていた。


 だが、今は、


「クモ姫さまにお会いしたい」


 三時のおやつだって、夜ご飯の時間だって、どんなときだって会えるのに。


「会って、甘えたい」


 そばにいたい。


「愛されたい」


 ――長細い両手がにゅっと、うしろから伸びてきた。


「え?」


 アーマイゼがうしろからだきしめられたと同士に、背中にくっついた大きくてやわらかな胸の感触で、その人物が特定でき、思わず、悲鳴を上げた。


「きゃっ!」


 だきしめてくる腕に手をそわせ、きゅっとにぎりしめ、……照れてしまい、アーマイゼはうつむいた。


「クモ姫さま……」

「……」

「い、いつから、こちらに……」


(きかれたかしら)


 とんでもなく恥ずかしいことを言ってしまった。


(それと……)


 なんてあたたかくて、うつくしい腕。


(あ、だめ……)


 あの夜を思い出して、胸がどきどきしてくる。


(姫さまのにおい。姫さまの体温)


 このまま、姫さまを感じていたい。


「……アーマイゼ」

「あ……」


 クモ姫の手がそっとアーマイゼの頭に乗せられた。おどろいて、アーマイゼがびくりと首をすくませると、――それはそれは、ほんとうにやさしく、アーマイゼの頭がクモ姫によってなでられた。


「……」


 さらにクモ姫はアーマイゼをひざの上に横向きに乗せ、やさしく、だけれども強くだきしめた。お胸がアーマイゼに押し付けられる。アーマイゼがクモ姫の胸の感触と、クモ姫から感じる熱に、心臓が飛び出しそうになってしまった。息が詰まるなか、それでも呼びたくて、小さな声で、愛しい名前をつぶやく。


「……クモ姫さま……」

「なんだ? アーマイゼ」


 なんてやさしい声。


「どうした?」

「……こんなことされたら、わたし……」


 アーマイゼがクモ姫に抱きついた。


「あなたさまに、甘えてしまいます」

「そうか。……仕方のないやつだ」


 クモ姫の口角が自然と上がってしまう。


「わたくしの妻である特権だ。……好きなだけ甘えなさい」

「……今だけでいいんです……」

「何を言う。……好きなだけ甘えていいぞ。わたくしはお前の妻なのだから」

「姫さま、……今日は、雨が降っていて、少しばかり、肌寒い気がします」


 アーマイゼが強くクモ姫を抱きしめた。


「あなたさまが風邪を引かないように、わたしがあたためますので、……まだ、しばらく、こうしてませんか?」

「……アーマイゼ」

「だめ、……ですか……?」

「……お前は、そういうところが不器用だな」


 悪くない。

 たのしげに言って、クモ姫がアーマイゼの背中をなでた。


「よかろう。肌寒いから、お前を湯たんぽ代わりにしてやろう」

「……っ」

「アーマイゼ」


 耳に、ささやかれた。


「今夜、しないか?」

「っ」

「お前に愛されたい」


 クモ姫がささやく。


「愛したい」


 アーマイゼの耳に、クモ姫の唇がキスをした。その瞬間、今まで以上にアーマイゼの体温が高くなってしまう。


「あの、姫さま」

「ん?」

「わたしも……」


 クモ姫の耳に、アーマイゼがささやいた。


「あなたさまと、一つになりたいです……」


 クモ姫はその瞬間、まあ、なんということだろうか。腕のなかにいるアーマイゼを床に乱暴に押し倒して、けがらわしいキスをして、ドレスをやぶき脱がし、自分よりも小さな体を、きたなく、けがらわしく、よごしたくなった。

 長い舌でアーマイゼのいやらしいピンク色のさまざまな場所をつたいたくてたまらない。

 自分よりもちいさな胸を揉みしだき、アーマイゼを散々啼かせたあとに、ぷるんぷるんのしりを揉みしだいて、エッチな声を出させたい。アーマイゼの体は、華奢に見えて、実はけっこう肉付けがよくて、やわらかい。きっと食べたら、とんでもないごちそうになるであろう。


 しかし、食べてしまえば、アーマイゼはその瞬間からこの世からいなくなってしまう。だれにも食べられないように、そして、自分が食べないように、この小さな愛しい人を愛でて、守らねばならない。


 だから、クモ姫はやさしくやさしく、力を加減して、愛しいアーマイゼをだきしめる。


「アーマイゼ、顔を見せてくれないか?」

「……はい……」


 アーマイゼが顔を上げると、クモ姫の目に、ほおが赤く染まったアーマイゼの愛らしい顔があり、ピンク色の唇から、目がはなせなくなってしまった。ゆっくりと近づくと、アーマイゼもわかったようにまぶたを閉じた。


 そして、二人の唇が、重なり合った。


 その様子を見ていたハチは、つまらなくなって、暇つぶしにチョウチョウを追いかけはじめた。


 雨はまだふり続く。


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