第3話

 秋人のことを男子として意識したことがないかと言われれば、当然ある。

 顔はそれなりに整っているし、性格も穏やかで、幼馴染としての贔屓目抜きにしても優良物件だ。

 何より、普段は小さい子供みたいに無邪気なくせに、ギターの弦を弾いているときの、まるで人が違ったみたいにぐっと大人っぽくなるあの顔は正直エロいと思う。


 けれど、私たちはついぞ男女の仲にはならなかった。

 タイミングだとか、互いの環境だとか、いろいろ原因はあっただろうけど、私にとって一番印象深いのは、高校二年の時のある夜のことだった。


 その日は私の家も秋人の家も両親不在で、私は彼の家に泊まりにきていた。

 秋人の母親に彼の夕飯の面倒をみてやるよう頼まれたのだ。

 外はしんしんと雪深く、底冷えのする夜だった。

 いくら幼馴染とはいえ年頃の男女を同じ屋根の下で一晩過ごさせるとは、我が家の貞操観念はどうなっているのかと問い質したかったが、私たちなら間違いも起こるまいというのが半分、間違いが起きるならそれはそれでというのがもう半分という、互いの母親からの目論見であったのだと、随分後になって知れた。


 母に引っ付いて覚えた拙い料理を振る舞った後で、私は努めて平常心を保とうと自宅より持ち寄ったノートパソコンを立ち上げ、小説の執筆作業を始めた。

 高校に入り、従来からの読書好きが高じて文芸部に所属した私は、密かにWEB小説への投稿を趣味にしていた。短編をメインに何作か投稿したところ、そこそこのフォロワーがついた。この時は初めて挑戦する長編を書き溜めているところだった。


「何してんの?」

 洗い物をしてくれていた秋人が私の背後に立ち画面を覗き込んできたので、私は素早くデスクトップに戻してぎろりと睨み上げた。

「見ないでよ、変態」

「ええ!? ご、ごめん!」

 露骨に狼狽える彼の顔が可笑しくて、私はすぐに白旗を上げる。

「冗談。ただ小説書いてただけ。別に見られて困るもんじゃない」


 ほっとした様子で、秋人はノートパソコンから少し離れた場所に湯飲みを置いてくれた。

 緑茶の優しい香りがじんわりと漂う。

 ちびちびと啜るようにお茶を飲む私を、秋人は何故か少し恥ずかしそうな笑みを浮かべて見つめてきた。

「なに?」

「美冬はすごいなぁ」

「え?」

「俺、小説なんて全然分かんないよ」

「ああ……」


 秋人は典型的な理系脳で、国語の成績はからっきしだったのだ。

 それでも――。

「私なんか、趣味で書いてるだけだよ。全然大したことない」

「それでもすごいよ。俺にはできない」

「CDデビューまでした人がなに言ってんのさ」

 

 そう。

 この時すでに、秋人の才能は世間の目に認められるまでになっていた。

 地元で活動していたバンドにスカウトされ、ベーシストとして大学生たちに混じってライブハウスにも出入りしていた。地方や都内に遠征に行ったことも何度かあって、地元から出たことのない私にとっては、秋人こそ『すごい人』だ。

 そんな彼の所属するバンドが、最近ようやく小さなレコード会社からアルバムを出させてもらったのだ。

 いつの間にか随分遠い世界へ行ってしまった幼馴染に対し、コンプレックスがないと言えば嘘になる。それでも、そんなことはおくびにも出してやらないのだ。私だって、それくらいの見栄は張りたかった。


「聴いたよ、アルバム。いいじゃん」

「ありがと。俺も気に入ってる。今の俺たちの全力だから」

「私、あれが好き。六番目の曲。『雪を溶く熱』」

「え?」


 私は、もう何度となく聞いたその曲のフレーズを思い出し、指でテーブルを叩いた。


 それは、それまでの曲からは少し雰囲気の違う曲だった。

 私の幼稚園児みたいな耳ではテンポがどうだのキーがどうだの難しいことも基礎的なことも何も分からないけど、その曲はどこか懐かしく、この山奥の町で暮らす私の胸にそっと染みていくようだった。


 初めは静かな立ち上がり。ぽつぽつとした、雪原を一歩一歩踏みしめるようなリズム。

 風は強く、寒くて痛い。

 手は凍り、目は霞み、それでも歩みは止まらない。


『I walk. I walk. Even on a freezing night』


 優しく寄り添うベースのメロディーが、それを助けてくれる。

 足は止まらない。

 熱だ。

 燃える心臓が、焼け付く魂が、蒸気機関のように体を動かし、前へ前へと進めていく。猛る鼓動を押し留めるように、一定のビートを刻むドラムス。

 息切れを起こしたように、掠れた高音が真っ直ぐ昇り、途切れ、ただ一拍のサイレンス

 

 一転、晴れ渡る空。

 高らかに吠えるボーカルが銀色の太陽となって雲を切り裂き、目の前に白銀の荒野を呼び起こす。

 背後にはきっと、自分が切り拓いた雪の道が続いている。

 それでも、その歩みは止まらず、それどころかテンポを上げて、ついには全力で走り出す。全ての音が絡み合い、風となって吹き抜ける。


『We can't stop crying』

 

 どこに行くのかは分からない。

 ただ、走り出さずにはいられないのだ。

 辛いことも、悲しいことも、全部抱えて、走り出すしかないのだ。

 だから――。


Change the涙の理由 reason of tears変えよう


 その熱はいつか雪を溶かし、熱い雫となって輝きだす。

 そうすることしか、できないんだ。




 私の下手くそにもほどがある歌声に、器用にパーカッションを合わせてくれていた秋人の顔が、いつしかほんのりと赤く染まっていた。

 私はいい加減自分の音痴に嫌気がさして最初のサビを歌い終わったところで切り上げる。

 秋人は私の顔色を伺うようにして、恐る恐るといった様子で切り出した。


「その、その曲さ。アルバムの中で一個だけ、俺が作曲したやつなんだ」

「へ?」

「だから、その、なんつうか……」

 秋人はついには耳まで真っ赤になった顔で、口元を隠して目を逸らしてしまった。


 ……なんだこいつ可愛いな。


 私は無言で秋人の頭を鷲掴みにし、わしゃわしゃと髪を撫で回した。

「え? なに、なに!?」

「…………」

「ちょ、無言やめて! なになになに!?」

 うるさいな。私だってどんな顔して何言えばいいか分からないんだっつうの。



 結局その夜も、私と秋人との間には何もなかった。

 この時のことを友人に話したときには、『いやそこはもう押し倒せよ』『美冬。ちゃんとしなさい』『処女』『不感症』とか散々言われたけれど、そいつらに、その日の晩に書き上げて投稿した短編を読ませたら全員が黙りこくった。


 そうだ。

 私は、秋人の恋人になんかならない。

 あいつが雪原を切り拓いて、ミュージックで広い世界をかき鳴らすなら、私はいつまでだってこの場所に留まって、天まで届く言葉の山を築いてやる。

 あいつの曲に私がそうされたように、誰かの心を揺さぶる言葉を、電子と紙の世界に吐き出し続ける。


 他の誰でもない、私が私自身に誇りを持つために。


 それが、私のパッションだ。

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