雪を溶く熱

lager

第1話

 静かな、雪の夜だった。

 風はなく、ただ無音の夜空の奥から、はらはらと淡い雪の欠片が降り続けている。

 幽かな雪だ。

 触れてもそうとは気づけないほどの小さな真白は、目を開けていれば、暗闇にぼんやりと点る街灯によって雪が降っていると知れるだけで、目を閉じてしまえば何も感じられないだろう。途方もない暗黒の世界に、自分の体から発される熱と音だけがあるばかりだ。


 アスファルトに触れた端から溶けていく雪は一向に積もる様子もなく、私のブーツの足音に微かな水音を足すばかりだった。厳重に巻いたマフラーは私の呼吸を苦しめ、そこから洩れる白い息はメガネのレンズを曇らせる。

 一仕事を終えた私は鉛のように重たい体を引きずって、最寄り駅から自宅のアパートまでの、わずか徒歩十分ほどの距離を青息吐息で踏破した。


 まばらに明かりの点いたベランダの並びを見上げ、あともう一頑張りと外階段の手すりに手をかけたところで、階段の上の人影に気づいた。

 逆光で見えづらいが、こちらを見下ろしているようだ。

 見覚えのないシルエット。こんな時間に、なんだろう。

 私がコートの内ポケットに手をやり、護身用の防犯ブザーを掴んだとき、柔らかな声が降ってきた。


「お帰り、美冬」

 それはとうに聞き飽きたはずで、それでも久し振りに聞く声だった。私は内心の驚きを押し殺し、ほとんど無表情で答える。

「なにしてんの、秋人?」

 幼馴染の青年は、子供のようにくしゃりと笑って答えた。

「久し振りに会いたくってさ。ね、部屋上がらせてもらっていい?」

「いいわけないでしょ、変質者」

 精一杯顔を顰めて答えてやると、秋人は面白いくらいに狼狽した。

「ちょっと、変質者ってことないだろ。ていうか俺、もう三十分くらい美冬のこと待ってたんだけど! 凍えちゃうって!」

「そんなのあんたの勝手でしょ」


 私は財布から鍵を取り出すと、錆びついたせいで回りにくい錠を力づくで回し、玄関へと素早く体を滑り込ませた。背中に情けない声がかかる。

「え、うそ。マジで入れてくれないの? ねえ、美冬!?」

 うるさいなぁ。

「三分待ってて」

 ドアの隙間からそれだけ告げると、鍵とチェーンをかけて靴を脱いだ。

 とりあえず居間の暖房を入れて、床に散らばるアレとか机に置きっぱなしのコレとかソレとかを纏めてクローゼットに押し込む。 

 霧がかかる勢いで消臭スプレーを部屋全体にかけ、冷蔵庫のミネラルウォーターを一口呷って息を整えると、ようやく私は玄関を開けてやった。


「さ~む~い~」

「いきなり来るほうが悪い」

 恨みがましくこちらを見下ろす秋人へ、むすっとした顔を作って見返してやる。

 すぐに視線を逸らし、適当に座ってて、と言うと、秋人は両手を摩りながら背中を丸め、いそいそと居間へ入っていった。

 電気ケトルにプラグを差し込み、お茶の準備をする。

 一体なんの用だろう。まさか本当に顔を見に来ただけということもあるまい。

 一度に二杯分淹れるのも久し振りだな、などとぼんやり考えながら、甘い湯気の立つマグカップを運ぶと、秋人はクッションを尻に敷いて、落ち着かない様子で座り込んでいた。

 その目線がちらちらと部屋の端の、畳まれて置かれた洗濯物(もう少し具体的に言うと一番上のブラとショーツ)に向けられている。


「何見てんの、変態」

 びくりと肩を震わせた秋人が慌てて目を逸らした。

「ちがっ……ていうか、ああいうの片づけるために待たせたんじゃないの!? 少しは気にしなよ!?」

「別に。意識してんじゃないわよ、秋人のクセに」

 嘘だ。咄嗟のことでしまい忘れただけだ。普通に恥ずかしい。

 私はあえてゆっくりと秋人の前にマグを置き、部屋の隅の下着をその他の衣類の下に押し込んで隠した。


「変わらないなぁ、美冬は。久し振り」

 眉根を下げて笑みを溢す秋人の顔を、私は真っ直ぐ見られなかった。

「そうね。ちゃんと会うの、二か月ぶりくらい?」

「二年ぶりだよ……」

「そうだっけ」

 努めて平静さを装いながら交わす軽口の合間にも、私の目はまだ隠し忘れていたものがなかったかどうか、素早く部屋の中を走査していた。

「ごめんね。急に押しかけちゃって。おばさんに、大体帰りはこのくらいって聞いたから……」

「まあ、いいけど。それで、何の用なの?」

「うん。実は、明日から東京に行くことになってさ」

「へえ。東京」

「うん」

「じゃ、お土産よろしく。いつ帰ってくるの?」

「わからない」

「え?」


 秋人は困ったような笑みを浮かべて、こちらの顔色を伺っている。私はただ、ぽかんと口を開けてそれを見返した。


「メジャーデビューが決まったんだ。しばらく、バンドのみんなと東京で活動することになった。いつ帰ってくるかは分からない」

「ふうん……」

 私がその言葉の意味を咀嚼するのには、随分と時間がかかった。

 けれど、そこから私の頭の中が雪のように真っ白になるのは、ほんの一瞬のことだった。

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