第10話 Ants pulling anchor !!
沈んでいく魚。息ができない魚。鰓を塞がれた魚。
沈んでいく。沈んでいく。
羊水のような温かさを感じる事も無く。
喉に入り込んだ潮に喘ぎながら
ああ、冷たい。寒い。誰か。誰でもいいから私に熱を下さい。
もし叶うのなら、この美しい声だって捧げるわ――。
長いこと、水に溺れるような夢を見ていた気がする。
「……」
重い瞼を開けると、黒地に白で描かれた曼荼羅の天井が視界に入った。
勿論、見覚えのない光景に心臓が跳ねることになったが、ひとしきり慌てて後に正気を取り戻す。何も襲ってはこなかったし、誰も部屋には居なかった。
周囲を見回すと、どうやら自分はベッドに寝かされていたらしい。赤毛が数本シーツに絡まっている。
冴えない頭で思考しつつ、窓があることに気付いてベッドを降りる。靴は床に無く、代わりに薄っぺらな履物が置かれていた。
白いスリッパに足をのせ、それから窓際へと近づく。外には人が行き交う様子がはっきりと伺えた。
子どもの笑い声、青春を謳歌する若人の逢瀬、仕事に追われる青年たち。石畳の地面を駆けたり歩いたりして行き来する彼らは生き生きとして幸せそうに見える。
ぼさぼさになっている自前の長髪を指で梳き、頭皮のべたつきに顔を歪める。シャワーを浴びる必要性を感じた。そうして目元を触り、いつものあれが無いことに気が付く。見回せば、視線がベッド横に逸れる。
木目調の美しいキャビネットの上に、武骨な作業用ゴーグル。
曇り一つ残っていないことを不思議に思いつつも、青年――カラベルはそれを装着して息を吐き出した。どうしてか、寝ている間も外してこなかったこの視界保護用ゴーグルに大分愛着が湧いているようである。
身支度を整えて部屋を出ようとすると、外から二回ノックされた。
返事をしつつ扉を開くと、目に入ったのはカラスの羽の様な黒い髪と、普段見ているより小綺麗なシャツを身を纏った少年が廊下に立っていた。
飴色の欄干にもたれている様子は、どこか高貴な生まれのお坊ちゃまに見えないことも無い。
陶器の左目が人工の灯りに反射して、鈍い光を放つ。
「よう若者、二日も眠りこけて置いて、さぞいい夢が見られたことだろうな?」
「おお、コルヴォか。今日も義眼の調子は良さそうだないいことだ、ところでこの部屋はどういうことなんだ? 俺は確かうんメートル級の巨大な大蛇と格闘を繰り広げた挙句ミイラにされて気を失っていた筈なんだが――って二日!? 二日も寝てたのか俺は!?」
「お前は前回の狩りでさほど戦闘といえるものを行っていないし、役に立ったのは荷物運びと配線と発射台の組み立てに関してなんだが……なんだ、想像したよりは元気そうだな」
少年は拗ねるように呟くと、踵を返して廊下を行く。カラベルはその後を追った。寝ていた部屋の扉に鍵は無いらしく、戸締りは扉を閉めるだけである。
青年が目覚めた部屋以外にも、沢山の個室があるようだが人気は無い。下る階段は三階分。上へ昇る階段は見当たらなかった。
さっさと前へ行ってしまう少年は時折「ここがトイレ」、「ここがシャワー室」、「ここが洗濯場」、「ここがキッチン」、「ここがリビング」――まるで、覚えて置けと言わんばかりに建物の簡易的な説明をしていく。
道中で無理を言って手洗いと洗面台を経由した青年は、頭皮の油を気にしながら少年についていく。義眼の少年は自分の家を歩くように迷いなく歩を進め、そして遂に靴箱が扉横に置かれた部屋まで辿り着いた。
薄っぺらいスリッパを元の靴と履き替えて、一段下がったところにある扉を開く。
「連れてきたぞ」
コルヴォが一声かけると、一際目立つ位置に置かれたテーブルに突っ伏す様にしていた金髪の少女(カラベルは今でも彼女が自分の雇い主であることを飲み込めずにいる)はがばっと身を起こし、満面の笑みを浮かべてみせた。
三日月のような弧を描くものではなく、普通の人間に擬態した笑みである。
「あー! 起きたの! おはようだよカーベル君!」
寝て起きたらラフな呼ばれ方になっていたことに驚愕しつつ、カラベルは通された部屋を見回した。
想像以上に怪しさの欠片も無い事業所である。依頼主と雑談をする席や飲み物を用意する場所もしっかり用意されている。観察してみれば、この部屋だけ外から人が入れるようになっているらしい。
つまり、この部屋こそがコルヴォやローラのような
「あんまり長く眠るもんだから死んじゃったかと思ったよ! 今日起きなかったら私の晩餐になってたねぇ」
「ば、晩餐……」
カラベルには冗談と本音の見分けがつかないが、多分半分ぐらいは本気だったのだろう。捕食者の視線を向けられた気がして、食われる側の青年は身震いした。
「新入りをあまり脅かしてくれるなよ」
「あっははは! 別に、本当の事を話しただけじゃないの。カラス君だって分かってるくせに」
「それが分かるからいけないのだ……ただでさえ我々は人数が少ないというのに、更に減らしてどうする」
赤毛をまとめるカラベルを来客用のソファに案内したコルヴォは、溜め息まじりにIHコンロでお湯を沸かし始めた。
ローラも手元の資料をほっぽいてこちらにやってくると、青年の向かい側に腰を落ち着け、テーブルの上にある菓子を摘まんで飲み込む。
「……水と紅茶とコーヒーとあるが、どれを飲むんだ」
「あ、俺は水で」
「アタシは紅茶!」
「承った。カーベルは自分で用意しろ、ミネラルウォーターが冷蔵庫にあるはずだ」
「ういっす」
三者三様の飲み物を用意したところで、口を開いたのはローラだった。
「まずは、君を本採用するかどうかなんだけど。アタシは合格でいいと思うんだ」
「えっ」
「うん? もしかして詳しい話を彼から聞いてた訳じゃないの?」
「いや、全く……俺はコルヴォに助けられてからずっと、ただ一緒について回ってただけだからな。今の今まで仮採用だったなんて初耳だよ」
「あはあ、もしやカラス君、最初の時点で彼が根を上げるだろうと高を括っていたんじゃないかな?」
「……ふん。誰でも普通は、逃げ出すと思うだろうが」
「私と行動を共にしていて生きていられるということは、それなりの悪運を持っている人間ということだろうよ。ならば、
「それはつまり、カラス君もカーベル君を認めてるってことでいいのかな?」
「本人にそのつもりがあるなら、止めはしない」
「……だって。決断権は君にあるみたいだ」
金の髪が頬にかかり、夜闇で目にした透き通るような肌が強調される。
人の色にしては薄く、どちらかというと病人のような青白さと儚さを伴ないながら、少女は青年ににっこりと笑いかけた。
「カ-ベル君?」
「あっ、いや。明るい所でしっかり顔を見るのは初めてだったからさ」
「そ。それで、どうするの? 君はここに来るまでの間、沢山の神秘に会って来たようだけれど。この仕事、続けていけそうかい?」
ローラの問いに、カラベルは返答を直ぐに返せなかった。
「正直な所、この二週間もかなりきわどい生き延び方をしてきた覚えはあるし、コルヴォの邪魔をしちまった事だってある。俺一人なら勿論生き残れないだろうし、かと言って俺がコルヴォの荷物になるんなら、これ以上一緒に居る訳にゃあいかねえとは思ってるよ」
「そうかぁ。それじゃあ、はっきり決めたら教えてほしいな。それまではこの街でゆっくりしていくといい」
ローラは言って笑うと、紅茶を飲み干して資料を下げた。
コルヴォもそれに頷くと、コートを羽織って外へ出て行ってしまった。
閉じられた扉に声を掛けることもできず、青年は行き場のない掌を頭の後ろに回し、暫く天井を眺めていたが場の空気に耐えかねて立ち上がる。
「どうしたの?」
「いや、何か仕事が欲しいと思ってさ……いくらなんでも、命の恩人に何も返せないってのはどうかと」
「そう? んー、それじゃあ、この調査をお願いしてもいいかな?」
「調査?」
カラベルの言葉にローラは頷き、机に散らばった書類の束の一つを取り出す。何やら東洋で言うところの傘連判のように十数名分の名前と住所が書き連ねられている。
「
「相談」
「簡単に言うと、人間相手に聞き込みって感じだね。本来アタシらがする仕事じゃあないんだけど残念ながら近辺だからねぇ。聞き込み程度なら君でもできるんじゃない?」
「えっと……その前に、俺一人でいいの?」
「カラス君は有給休暇だよ。半月で六体以上の相手をするなんて、いくらなんでも働き過ぎだからねぇー」
青年はゴーグルの位置を直しながら資料をぱらぱらとめくる。
傘連判表記は読み辛いと感じるも、しかしこのように表記する理由が分からず首を傾げた。
「これ、犯行声明とか署名でもないような気がするんだけどさ……何の為にこの表記になっているんだ?」
「回った順番を誤魔化すため。主にこちらの足跡を簡単に追わせないための処置だよ。あっ、できる限り、住所も名前も性別も年齢もほどよくランダムになるように巡って貰えると助かるんだけど」
無茶を言っている自覚があるのかないのか、それとも審査自体がまだ終わっていないのか、ローラは楽し気に金の目を細める。
「結構面倒な仕事なんだな……メモもしない方がいいんだろ?」
「だねぇ。できる限りは耳で拾った情報をしっかり暗記して持ち帰って来てほしい。今日はもうお昼を越えているから、五名も聞けたら良い方じゃないかなぁ――どう。やってみる? 辞めておく?」
青年は少女の言葉に一考して、顔を上げる。
「……やってみようじゃねーか。」カラベルは言って、頬にかかっていた赤い髪を掻き上げた。「で、聞き取りで引き出す情報って?」
「ここ一カ月、この街の横にある汽水域の湖に現れたという異形の
ぱしん、とローラが柏手を一つ打つと、音も無く老齢の男性が姿を現した。白髪交じりの髪をオールバックにまとめ、全身黒のスーツに身を包んでいる。
瞳の色は緑。髭が口元を覆っていて、しかし無言だ。
「彼はこの事務所の管理を任せている人間さんだよ。ね、エド。彼の見た目を良い感じにして欲しいんだけど、お願いしてもいいかな?」
少女の言葉に吊り上がった目元を緩めると、綺麗な礼をしてみせる男性。声を発することはないが、丁寧な所作から主人に対する尊敬と忠誠を感じられた。
「うん、じゃあ頼んだ。あっ、そうだそうだ。これ、昨日の蛇をぶん殴った時に出てきたものなんだけど。カラベル君、欲しかったりする?」
ぴん、と少女の親指で弾かれるのは金色のコイン――カラベルがそれを集めていると知っていたからか、壊さずにとってくれていたらしい。
「って、いいのか?」
「あはは、アタシには要らないものだからねぇ」
何かの手掛かりになると良いね。と見透かしたような言葉を添えて青年の掌に金色を手渡すと、ローラは作業の続きにとりかかる。
青年は無言のまま、三枚目になる「OdrWorld」の文字と鈍い光を握りしめ。寡黙な男性と二人、事務所を後にした。
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