第2話
月白蓮は、「あの先へ」で人気を博した作家だ。内容は、水泳部の女子高生が、スランプと戦いながら、全国を目指す青春物。一見ありふれたテーマだけど、月白蓮は、十代女子に即した緻密な心情の描写で、連載権を獲得した。
私の憧れの一人だ。
「ほら、いくよ」
先輩が、急に立ち止まった私に声をかける。
「はい」
夏は、ひっそりと私の背に潜んでいる。首から吹き出た幾筋の汗が、私を不快にさせる。土曜の今日になるまで、月白さんから連絡は一切来なかったらしい。先輩は、焦っている。『ありがとう』しか手がかりのない中、音信不通という事実が、その意味を重くさせていた。
先輩は、メモを頼りに私を導く。先輩によると、母親に話を通してあるという。電車に乗って数十分、県境を越えて、さらに徒歩で移動。田舎らしい、と先輩に聞いて長閑な風景を想像していたが、舐めていた。長閑は長閑なのだが、その距離だ。歩くたびに、私は身体か
ら多量の水分を奪われていく。「ついたぞ」と先輩に言われたときには、もうバテバテだった。
「はじめまして」
月白さんのお母さんと挨拶を交すと、部屋に案内してくれる。
「蓮、傑くんよ」
無遠慮にお母さんが扉を開ける。
「よう、」
明るく努めた先輩の声が詰まる。
月白蓮の部屋は荒れに荒れ、そして異臭が鼻腔に触れる。人間の、獣的な臭さというのだろうか。
月白さんは、ベッドに座り、壁に背をつけていた。先輩の声に一瞥したが、すぐにA4用紙で埋まった床に目を落とす。
「蓮、会うのは久しぶりだな。元気か」
先輩は月白さんを無視して、話し始める。元気か、とか絶対元気じゃないでしょ! と思ったけれど、別にそこは気にするところじゃなく。
「これ、小説か?」
先輩は話を続けながらも、落ちた紙に目をつけ拾った。
「それに触るな!」
急に月白さんが声を上げる。
「ごめん……」
改めて月白さんの顔を見た。ボサボサになった髪は、皮脂でテカり、目の下の隈は、彼の中性的な顔を映えさせた。よれよれのシャツが、儚げな印象を増長させる。
先輩はコロコロと話題を変えながら、月白さんの反応を伺って、ちょっとずつ狙いを定めていく。
「八知さんは、元気?」
刹那、月白さんの目つきが変わる。
「お前!」
近くにあったビーズのクッションを先輩に投げつけ、鬼気迫る表情で、先輩に襲いかかった。
先輩は、顔を崩すことなく、核心に触れていく。
「八知さんって?」
私が質問を挟む。先輩は、「蓮の彼女だ」と答える。
「蓮、今日俺らが何のために来たか知ってるか?」
「知るわけ無いだろ! これ以上凜々花の名誉を侮辱したらただじゃおかないぞ!」
部屋の中央に位置するローテーブルに、不自然に置かれた裁縫鋏を手にとって、脅す。
持ち手に力を込める。閉じていた刃がゆっくりと開いて、丁寧に磨かれた刃は部屋の照明を反射した。
先輩に冷や汗が浮かぶ。先輩の普段の落ち着いた雰囲気で、私は悲鳴を上げることもない。客観的に見れば、ここでは女子として悲鳴を上げるべきだし冷静さを失うべきなのだ。だけど私は、この部屋のインテリアと同等の存在でしかなかった。危機感などとはまったく別の感情が沸いていた。
「八知さんがどうしたっていうんだ?」
先輩の発した言葉、それが契機だった。プツ、と月白さんの理性の糸が切れたように歯ぎしりをした。
先輩は、月白さんを押しのけるようなことをしない。何かがそれを押し留めていた。何に躊躇いを覚えていたのかはわからない。
ああやばい。緊迫した状況に、何か意識を逸らさせないと──近くにあった本棚を押し倒した。
瞬間、バサーと本が床に叩きつけられる音と、本棚と床が摩擦して軋む音に感覚が奪われた。
呆然とした先輩と月白さんの間に空白が生まれる。月白さんは、充電が切れたようにへなへなとしなって、ベッドへ戻った。闇の深い瞳が、彼女だという八知さんの存在を覗かせた。
先輩はさっきの衝撃で固まった。身動き一つとれないようだった。やがて、さっきの騒音を聞いてお母さんがやってきた。
「どうしたの? あらー」と一人で納得している。
「すみません」
とりあえずやった本人として謝っておく。
「いいのよ。気にしないで。怪我はない? 女の子なんだし気をつけなきゃだめだよ」
「わかりました。ありがとうございます」
私に優しい言葉を掛けてくれると、お母さんは、月白さんに言った。
「せっかく二人が来てくれてるのに、その態度はだめでしょ。どんなに悲しんだって、もう戻ってこないのよあの子は」
ねえ? と半ば無理矢理私達に反応を求めてきたが、なんのことか私達にはわからない。
「もういいよ。母さんは出ていってくれ」
渋々出ていったお母さんを脇目に、私は先輩の様子を伺った。今までにないぐらい先輩はひどい表情をしている。先輩は何か勘付いたらしい。
「傑、久しぶり」
何かを諦めたのか、振り切ったのか、これが本来の性格なのか。明らかに人が違う。淀みない声に先輩も驚いていた。
「お、おう」
対して先輩は、急に馴染めなくなって上手く喋れていない。
「隣の君は?」
「立花佳子です。文芸部の、後輩です……」
「よろしくね。立花さん」
月白さんは笑みを浮かべた。乾いていて、とりつけたような軽薄な笑みだった。
「傑は、もう見当はついたんだろう? 凜々花は、彼女は死んだんだ」
先輩が唇を噛む。
「交通事故なんだ。飲酒運転の煽りを食らったんだよ」
許せるか? 許せないだろ。と月白さんは言う。
「僕は僕が許せないよ」
「蓮。八知さんが死んだのは、この日なのか?」
先輩は、既読のつかない月白さんとのLINEのトークを見せた。『いままでありがとう』のメッセージ。そして不自然な鋏。
それが意味するものとは、自殺? 復讐?
「違うよ」と月白さんは答える。
「蓮、お前は何がしたい?」
「何もしないよ」
あっけらかんと月白さんは答える。
「じゃあ、なんでこれを」
「さあね」
答える気はないといったように月白さんは突っぱねるが、実情答える気力がない、というのが本当のとこだろう。
「死ぬなよ」
答えは返ってこない。間が空いたせいで、緊張が走る。
「人はいつか死ぬさ」とおちゃらける。
「俺にできることがあったら何でも言えよ」
「ないよ」と即答する。「いや、一つだけある。僕を憎み続けてくれ」
「どういうことだ?」
「僕は自分が許せないんだよ。だけど、勝手に楽になろうとしている自分がいるんだ。僕は生きるなら、後悔を背負って生きていくべきなんだよ。もしかしたら、生きることが罰なのかもしれない」
「……」
「だから君が僕を憎むんだ。憎み続けてくれ、これは君にしか頼めないことだよ」
「そんなの俺が楽になれないじゃないか」
「君も共犯なんだ。何もできないくせに、想うことだけは一人前で。一方的な感情だけ押し付けてさ」
「……そうかもしれないな」
ならさ、と先輩が言う。先輩の顔は苦悶に満ちていて、今にも泣き出しそうだった。
「最期を教えてくれよ。それぐらいはいいだろ」
「きっと君は僕を呪うよ。それでもいいのなら」
そう言って、月白さんは話し始めた。
「君にLINEをした日の一週間か二週間前、僕は体調を崩した。凜々花が見舞いに来てくれることになって、僕は気怠さを抱えながらも、彼女を迎えた。その時は確か、僕の小説の話と、そう水泳の話をした。彼女が見舞いに来てくれたのは、体調も快復してきたところだったし、それなりに会話も楽しめたんだ。彼女はいつでも僕の心の支えだった。僕は彼女の為に小説を書いていた。彼女は僕の物語をすべて愛してくれた。彼女は、僕が生きる意味を証明させてくれる存在だった」
そこで月白さんは息をつく。
「帰る時間になって、彼女は僕の家を出た。病人だから、僕は彼女を送ってやれなかった。夕飯を食べて帰ったから、けっこう遅い時間になってしまったのはなんとなく覚えているよ。そこからが問題なんだ。彼女を見送った後、僕は急激に体調が悪くなって、寝込んだ。気づかなかっただけで、疲れていたのかもしれない。何度かスマホの通知を確認することはできたけど、悪いことに何の通知も来ていなかった。そして完治した頃、彼女の妹から連絡が来たんだ。『凜々花はもう死んでいます』っていうのが。なあ、これが現実だよ、傑」
「そうか」
淡々と先輩は答えた。一筋の涙が頬を濡らす。
「許せるか? 僕みたいな人間を。凜々花は僕のせいで死んだのに」
「いい加減にしろよ。蓮、お前は思い上がりのすげえやつだよ。もしお前が八知さんの立場で死んだら、お前は八知さんを恨むのか? 違うだろ」
先輩は鋭い言葉を浴びせる。なんでそんなことを言っちゃうのだろうか、と私は思う。二人の間に何か特別なことでもあるんだろうか。
「うるさいうるさいうるさいうるさい」
「世界で一番かわいそうなやつになりたいだけだよ、お前は。小説からも逃げて」
「お前に小説の何がわかる」
「……」
月白さんはまた先輩に取っ組みかかる。でも、今回は先輩もそれに応じた。
「……ここじゃだめだ。まともに話せない。海へ行こう」
私達は、月白さんの案を受けて、電車で少し行ったところにあるという海へ行くことになった。
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