第2話 後腐れ

 前置いた通り、一瞬だった。


 ほんの一瞬で、かのえの身体ごと、人魚は消え去っていった。

 灰の一つも残さず、煙で高められた透明な炎に溶かされて。

 悪戯っぽい微笑を浮べたまま。

「…………」

 しばらくの間、面白くもなんともない顔で、クァンは煙を燻らせる。

 吸い尽くしたと知っては、盛大にため息を吐いた。

 そのまましゃがみ込み、俯いては煙管を持つ手でがりがり頭を掻く。

「……なんてーか…………なんだろーねぇ?」

 哀しいとは思わなかった。

 やはり相手が人魚だったせいかもしれない。

 けれど、嬉しいとも思えなかった。

 複雑怪奇な感情を持て余し、面倒臭そうに顔を上げたクァンは、煙のない煙管を咥えた。

 しばらく気だるげな表情で水平線を見つめる。

 完全に昇った陽の光は、青いフィルターのかけられた白さを空の眼に映す。

 先程まで、あれを背にしていた姿を思ったなら、ふいに視界が歪んだ。

「っ、やばっ!」

 こんなところで涙なぞ流したくない。

 かのえの輪郭を得た人魚は好きだったが、彼女の人魚嫌いは変わらないのだ。

 たとえ、何を言われようとも、他の人魚がいる海で無様に泣くわけには。

 と、その時。

「っぷ、はあっ!!」

 海面から白い頭が上がった。

 噂をすればなんとやら、人魚と思い、咄嗟に炎を放ったクァン。

 煙が若干残ったソレは、彼女が思う以上の威力を見せて、標的を捉える。

「うおっ!?」

 けれど、身体能力が特に優れているわけでもない人魚では到底避けきれない炎が、綺麗に避けられた。

 目を見開いたクァンは、茫然と呼ぶ。

「……え、司楼?」

「っぶないっすねぇ、クァン・シウ! 殺す気っすか、全く!」

 相変わらず変化の乏しい顔つきで、ぶちぶち文句を言いながら海から上がって来たのは、シウォンの下で働く司楼・チウ。大抵の時間を虎狼公社の仕事で潰す彼が、海にいることを純粋に驚くクァンは、涙も忘れて辺りへ視線をやる。

「え? え? え? あ、アンタがいるってことは、シウォンも? じゃあ、泉も?」

「はい? 何の話っすか? オレはただ、ここまで流されて――って、しつこい!」

 海の方を振り返り、司楼が足を払った。

 混乱するばかりのクァンの目がそれを追えば、司楼へ恍惚の表情を浮べる、今度こそ間違いない人魚の姿。仰け反り開いたその胸に、人間姿の若い人狼は容赦なく、揃えた指をつぷりと突き入れた。

「ああっ」

 波が立つと同時に、甘く妖しい悲鳴が人魚の口をつく。

 これを聞いたクァンの眉がぴくっと反応した。

 鼻がかった媚びが非常に苛立たしい。

 司楼もそう思っているのか、貫いた身体を乱暴に引き上げると、もう片方の手も捩じ込み、その身体を左右に裂いた。

 今度は悲鳴を上げられなかった人魚。

 変わりに、吐瀉物のようにその中身が波を打つ。

「ったく……振り切ったと思ったのに、一匹残ってたのか。オレには想う奴なんかいねぇってのに。……と、クァン・シウ? これ、喰いますか? もちろん、自力っすけど」

「……は?」

「いや、クァン・シウは恋腐魚リゥフゥニ好きだって情報が……な、何を怒ってんすか?」

 振られた話に自然と吊り上る目。

 司楼の言う通り、確かに怒ってはいるが。

 同時に、酷く気恥ずかしかった。

 証拠として、白い頬に朱が滲むほど。

「……ああ、そういうことっすか。……好きなのは、正式な食い方、と。うーん、じゃあ……コレ、内緒にして貰えます? まだ数匹、オレに人魚憑いちゃったみたいなんすけど、親分に知られて使われちゃ……ちと困るんで」

「……分かった」

 言いたいことを察したクァンは、未だ赤らむ顔で頷いた。


 ――そんな親分が、命の危機に瀕していことなぞ露知らず。

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