第6話 初恋

 シウォンを追いかけ、辿り着いた先。

 巨大な水槽が透す明かりで、蒼く揺れる部屋。

 ランは右の分厚いガラスから向けられる微笑を一瞥し、鼻面へ皺を寄せた。

(悪趣味だ)

 否、見た目は麗しく、シウォンの造り出す空間の見事さには舌を巻く。

 だが――

 くすくすと耳をくすぐる甘い声。持ち主は水槽の中、白いたおやかな指を用いて、ガラス越しにシウォンの姿を何度もなでつけていた。

 海の瞳に浮かぶのは恍惚。

 水に白波の髪をたゆたわせ、滑らかな肢体を象る白い肌は、腰から下を儚く煌く鱗へと変じ、輪郭も魚の尾をなぞるよう変貌している。

 上半身は人に近く、下半身は魚そのもの。

 陸にあっては幽鬼と等しく、またはそれ以上に忌まれる存在――人魚。

 恋に恋する人魚は、一生の内で一つ、焦がれる恋をするという。

 その恋は、男と、彼が心を残した女を凪海へ招き入れ、記憶を漁っては愉しみ、最後、彼らと共に泡となって消えることで成就する。

 大抵の場合、人魚は男とその女を求めて陸へ上がり、麗しい姿と声を変質させるのだが、稀に男が心を一切残さない場合がある。

 この時、人魚は凪海の深い底で恋しい男を想いながら、声が枯れるまで歌い、枯れて後は死を迎えるのみ。

 後で男に心残せる相手が現れようと、人魚は恋に落ちた瞬間の想いしか察せられない。

 そして、シウォンはまさに心を一切残さない男であり、そのことを利用して、陸へ上がれない人魚を麗しい姿・声のまま、水槽内に住まわせていた。

 否、飼っていると言った方が正しいのかもしれない。

「人魚まで囲っていたなんて……そんな貴方が何故、その娘に執着する!?」

 さすがにそのままを口にするのは躊躇われて、少しだけ言葉を変えるラン。

 泉を抱きかかえたままのシウォンは、件の人魚へ少しだけ視線をずらし、そんな気遣いを払うように鼻を鳴らした。

「囲う……とは違うな。あれに思い入れはねぇ……が」

 泉へ視線を投じては、青褪め震える頬を撫でつけ、

「使っても良い……とは思っている」

「げっ!? う、嘘だろう、おい! シウォン・フーリとあろう者が、人間の娘へ恋腐魚リゥフゥニなんて!」

 非難の声を上げるランが見たのは、困惑を滲ませた卑屈な笑み。

 言外に肯定と伝わり、小さく呻いた。

 恋腐魚とは奇人街の三大珍味として知られる一品で、原材料は人魚である。

 相容れぬ化け物とはいえ、己へ想いを寄せるモノを内装の一部として扱うばかりか、食材として使おうとする。

 そんな非道が、ランと対峙してなお、右手一本で抱える少女の頬を慈しみ撫でる様は、異常としか思えず。

(気持ち悪っ!)

 正直な感想を胸に、口からは呻きを上げて、間合いを一気に詰める。

 まずは、シウォンから泉を放すのが先決と、彼女を捕らえる右腕を狙えば、側面から鋭い蹴り。

 守りに徹しても重い一撃から身体が跳ぶ。

 間髪入れず強襲――されると思いきや、

「てめぇ! 泉に傷がついたら、どうするつもりだ!?」

 牙を剥いて吠えるだけ。

 防御へ使った部位の痛みに顔を顰めつつ、あんまりだと反撃する。

「傷って、彼女の右手を血塗れにした貴方が言う台詞じゃない!」

「ぐっ……こ、これは不可抗力――」

「大体、傷つけたくないなら、放せばいいだろう!? 俺は今日、決着を付けに――」

「で、出来るわけねぇだろうが!」

 ビシッと突きつけた黒い爪だが、初めて見るうろたえっぷりに、段々と力が抜けていく。

 その先で、赤い衣を自身の白い衣へ押しつけたシウォン、青褪めた顎を持ち上げては、揺れる緑の視線を注ぐ。

「夢にまで見たんだ。即行で目が覚める、飛びっきりの悪夢だったが……何故、俺からコイツを放せると思う?」

「シウォン……似合わない」

 ぼそり、呟いた言葉は今度こそ青黒い耳を動かし、それどころか左右共に伏せさせた。

 困惑と羞恥を示す、同族にしか分からない顔つきが浮かぶ。

「分かっているさ、そんなことは。だが、どうすりゃイイ? 何故コイツでなければいけない? 女なんざ腐るほどいるってぇのに。同族じゃないどころか、具合の良い身体にも見えん、こんな、こんな人間の小娘風情が…………」

 言いつつ、甘える仕草で鼻面を泉の頬へ摺り寄せる。

 もの凄く嫌な寒気が、ランの背筋を駆け抜けた。

 身震いしたなら、離れたシウォンから熱い吐息が為された。

「欲しい……身体だけじゃねぇ、心も全て、俺のモノにしたい。俺だけを見るように、触れたがるように、求めるように。……何なんだ、この気持ちは?……これが、初恋というモノなのか?」

「いやいや、初恋ってもう少し…………はぁっ!?」

 顎はなんとか外れずに済んだ――が。

 衝撃は増して激しく、ランは知らず知らずシウォンへ手の平を向け、制止を促す。

「待て待て待て待て――ちょっと待て!」

 グラグラする頭を抱え、もう一度シウォンの様子を見れば、襲ってくる気配もなく、本当に待っている。

 いや違う。

 元よりランなど視界に一切入っていない。

 先程から何の反応も返さない少女を案じ続けているだけだ。

(は、初恋? だって、貴方、そんな……)

 ――いや、ちょい待て、コノヤロウ。

 俺が知る限りでも数多の経験あるくせに、どの面下げてそんな戯言抜かしやがる。

 まだ同族嫌いではなかった頃、俺の初恋の人は、当時、すでに貴方の子を宿していたんだぞ?

 あの時の痛手は今も鮮明に胸に突き刺さって――

 耽りかけた思い出は、シウォンが泉の傷ついた右手を取り、謝罪を口にしたせいで粉々に砕け散った。


 許してくれ――なんて、一番似合わない台詞。


(え、待って? 誰、この人?)

 毛の先っぽまで怖気が走り、ランは金の眼に涙が浮かんでくるのを感じた。

 鼻の奥までつんと痛んでくる。

 出来るなら一笑に伏したいところだが、それで払えるほど青黒い人狼の想いとやらは薄っぺらではないと察する。

 なにせ、こんな弱々しく熱に浮かされた野郎を見るのは、初めてのこと。

 更に指へ口づけ、癒すように血を舐め取ろうとする姿へ、ランは己の次の行動を考えあぐね――瞠目する。

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