第8話 黒い瞳
ガラス戸を背に座り、かのえは長い髪をさらりと梳きながら言う。
「ねえシン? 私たち、これからずっと、一緒よ?」
愛しい少年の肩に頭を乗せ、指を絡ませる。
竹平は迷う素振りでガラス戸へ視線を向け、戻しては困惑だけを浮べた。
何かを隠す様子にかのえの眼が細くなる。
「ねえシン? 貴方は、私の大切な人なの」
甘ったるく告げれば、絡めた手が震え、信じられないと開かれた眼がこちらを向いた。
――ふぅん? そういうこと……?
察した気配に、深い泡が底から浮かんで弾ける。
決して幸福ではない記憶。
とても大切な恩人を亡くしたけれど、忙しい竹平に打ち明けることもせず、暗澹とした日々を送っていた時。その恩人の下で学び、共に成功を収めたモデル仲間の、親友と思っていた少女が、気遣うフリをして尋ねた一言。
「シンと付き合ってるって、本当?」
あまりにも無邪気に、しつこく尋ねるから観念して頷けば、自分の事のように喜んでくれた。
一人で抱え込むのはよくない、打ち明けてしまった方がシンにとっても良いはずよ……。
そんなアドバイスまでして。
けれど――次の日にはマスコミに知られていた。
詰め寄れば、彼女はせせら笑う。
「シンはあたしの、皆のモノよ? アンタ一人のためにいるべき人ではないわ。先生だってそう。アンタ一人のためにいた訳じゃないのに、いつまでもウジウジ鬱陶しい。そんなに恋しいなら、後追いでもしときゃ良かったのよ。あたしより売れてるからって、調子に乗った罰ね。ああ、面白い」
そうして見せびらかしたのは、少女とシンが一緒に写っている姿。
もしも、かのえが正気であったのなら、背後の人だかりから、何かのパーティーでの一幕と理解できただろう。
しかし恩人の死に加え、世間の興味の対象と成り果てた身に、安らぎなど望めない。
元が溜め込む性質のかのえは、胸内を誰にも明かすことなく、発狂寸前まで追い込まれていた。
もちろん、少女は全て知った上で、かのえの愕然とする顔を眺めては嗤って……。
――いつだって、貴方と共にいるのは私のはずなのに。私だけのはずなのに。
無意識に握り締めた手には白い包帯。
手首と甲を覆うよう巻きつけた不恰好さは、かのえが一人で行ったと分かる代物。
クァンの申し出を丁重に断った、おざなりの治療は、竹平へ絡めた手にもある。
怯える視線から目を逸らし、かのえは店の外を見た。
荷物を持ってくるクァンを待つ風体で、別の思いに囚われる。
先程の、あの少女。
手がかりかと思えば、竹平と共にいた。
今、竹平が着ている物に似た服を纏って。
ぎり……、奥歯が軋んでも構わず、噛み締める。
竹平と交わされた視線が気に入らない。
――気づいていない、とでも?
「っ!」
絡めた指を強く握りしめれば、隣から苦痛が漏れた。
――いいえ、いいえ、貴方は悪くないんだわ。悪いのはいつだって、女の方。
それでも力を緩めることなく、外をじっと睨みつける。
ここなら、とかのえは思った。
誰も自分たちを知らない、この場所でなら……
危険は知っている。
だが、この奇人街なら、決して二人を引き離しはしないだろう――死の直前ですら。
クァンは言う。
言い寄る野郎を一回払えば大概芥屋は安全だから、そこに住んじまえば? と。
赴く時、冗談交じりに。
けれど、あの少女がいる。
もう、どんな女の傍にも竹平を置いてはいけない。
例え傍に自分があろうとも。
思い立ち、立ち上がり、絡めたままの手を引く。
「か、かのえ?」
よろよろと続く恐れを抱く顔を綻ぶ笑顔で迎え、内心では深く嗤う。
「ねえ、シン。外に出ましょう? まだ日中だもの。危険はないわ。ようやく会えたんですもの、私に付き合ってよ」
駄目? と上目遣いに見つめる。
竹平に逆らえる訳がないと初めから分かっていて、なお、媚びた声で甘く尋ねた。
途端に固まる身体が首を縦に振れば、喜んでその腕に絡む。
陽の内に出て、空気の悪さに咳き込む竹平を嬉しそうに眺め、ぼそりと口の中で呟く。
「…………貴方は”私たち”だけの人。貴方には”私たち”一人だけで良いのよ」
そうして、一度だけ、ガラス戸の向こうにいる少女を一瞥する。
――さようなら。
くすり、微笑み竹平を伴うかのえ。
彼女が警戒するのは、彼の隣に添うかも知れない女だけ。
その女は、他に眼もくれず、かのえのモノである竹平に添おうとするから――だから。
芥屋に永遠の別れを告げる足取りは軽く、これから先には明るいモノしかないのだと笑む。
不穏がすぐそこで、彼女を狙っているとも知らずに。
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