第2話 とある街の日常・後編

 夕飯の時まで、台所に同じような光景が広がれば、気分も沈む一方だろう。

 どうにか終えて胃薬を呑んだなら、気分の悪さが多少なりとも回復した。

 これをくれた少女には感謝しているが、準備の良さから同じような目にあったと察し、呑む度に同情の念を抱いてしまう泉。力こそ全て、な思考の持ち主ゆえ、口に出そうものなら「弱者の同情なぞいらん!」と一刀に伏されそうだが。

 なればこそ、時折見舞いに来る袴姿の美人さんへは、何も言わないでおこうと決めていた。それが彼女のためであり、何より泉自身の生命のためでもある。

 背もたれで猫が寝そべるソファに座ると、湯気立つカップが差し出された。

「はい、泉嬢」

「……ありがとうございます」

 ワーズが作る飲食物で唯一泉が歓迎する茶。

 一口啜れば、「ほぅ……」と息が漏れた。

 と、こちらに向けられた膝に気づき、前を見る。

 椅子の背もたれを抱くように座り、こちらを眺めるワーズと目が合った。

「……何ですか?」

 むごい物を見せられた分、険しくなる視線も解さず、ズズズ……と音を立てて茶を啜ったワーズが首を傾げた。

「店番は疲れなかったかい?」

「疲れる疲れないも……私、何も出来ませんでしたから……」

 途端に気が重くなった。

 足の治癒が完全であろうと、紙幣価値も分からない身では、役立たずではないかと溜息が出てきた。元いた場所へ戻れるなら戻るつもりの泉としては、分からないままで良い気もする。しかし、不本意でも従業員という職につき、消去法の末であっても店番をやるからには、役立とうとは思っていたのに。

 なにより、仮とはいえ芥屋は泉の居場所。

 ワーズはここにいて良いと言ってくれるが、ただ世話になり続けるのも居心地が悪い。

 ふと、浮かんだ名がある。

 瓦屋根と漆喰の壁の家を無造作に重ねた造りの奇人街。

 実質二階にある芥屋の、斜め下方に店を構えているという、パブの経営者、クァン・シウ。彼女はどういう訳か泉の唄を大層気に入り、隙あらば引き抜こうと躍起になっていた。

「……いっそ、クァンさんの誘いに乗っちゃった方が良いのかしら?」

「ぐぶっ!」

 唄うだけだっていうし、お金も稼げるなら――と半ば投げやりに呟いた言は、噎せるワーズに阻まれた。激しい咳き込みに心配より驚きが先立てば、ワーズがコートからタオルを取り出して口元を拭う。

「い、泉嬢、本気?」

「本気、ではないですけど……お金もないのに居候で、何の役にも立ってないですし」

 ため息混じりに言うと、ワーズがいつものようにへらへら笑い出す。

「ああ、最初なんて皆そんなだから、気にしないでよ。それに住人たちにとっちゃ、ボク相手より従業員の方が良いんだ。何せワーズ・メイク・ワーズは人間以外が大っ嫌いだからさ?」

 もの凄い良い笑顔で言い切られては、他に言える愚痴も思いつかない。

 それでも納得いかずに俯き眉を顰めていると、

「あのね、泉嬢?」

 名を呼ばれて顔を上げた。

 目線が合うなり、けろりと赤い口が笑った。

「例え君が本気でクァンのところで働きたい、って言っても、ボクは君をあれに渡すのは御免だから諦めてね」

「はい…………………………へ?」

 素直に頷いてから、妙な言葉に再度目を合わせる。

 人間の希望なら大抵叶えてくれるワーズの、忠告にも似た断りは、あまりに不自然。

 不鮮明な混沌が笑いかけ、どういう意味か問いかけ―――


ウオオオオオオオオオオオオォォォォォォ――――――……


 突然、低く唸る騒音がやってきた。

 地を揺るがすほどの大音量に、カップを肘掛けに置いて耳を押さえた。

「な、何ですか、この音!?」

 聞こえるかどうか分からず叫べば、合図であったかのように、騒音が少しだけ小さくなった。所々に呻き声を混ぜながら近付いては遠退く、不気味な響き。

「んー、人狼だろうね」

「人狼って……」

 嫌な記憶を思い出して首を触る。

 刃に似た爪の感触は、奇人街で目覚め、混乱に逃げ回った際、下卑た嗤いの主がもたらしたモノだ。二足歩行の狼、そう表される種族の――。

 不快さから顔色が悪くなる泉に対し、ワーズは殊更楽しげな声を上げる。

「群れ同士の諍いだよ。今回は随分と参加者が多いみたいだね。……これは、明日が愉しみかなぁ?」

「……群れ……諍い?」

 クツクツ笑う様に尋ねれば、茶を飲み干して食卓へカップを置く。

「例外はままいるけど、人狼ってのは大概群れで行動するんだ。で、奇人街の中では数も多くて勝手気ままな連中だからさ、時折こうして衝突があるんだよね、その群れ同士で」

「……つまり、外では今?」

「血みどろの殺し合いの真っ最中、かな? 泉嬢、見学に行くかい?」

 とんでもないことを聞かれ、ぶるぶる首を振る。

「ま、まさか!……でもこれ、いつまで続くんですか?」

 否が応にも惨状を髣髴とさせる騒音に、青くなりながらも困惑を示す。

「さあ? 人狼って本性に忠実なせいか、すんごい体力あるからね。規模にもよるけど……下手すると七日間くらい続くかな?」

「こんな音を聞きながら、七日間生活するんですか?」

「ま、長くて、だね。それに殺し合いだから双方とも徐々に減っていくし。結局群れ同士の諍いってさ、下っ端共が勝手にやるお遊び程度のことだから、群れを纏めるヤツは出てこなくてね。本当の意味で終わりがないから、小競り合い程度なら日常茶飯事なんだよ」

 呆れた風体のワーズを尻目に、泉は安堵を求めて茶を啜り、溜息混じりに零した。

「嫌だな。争う音って……」

 掠めるのは奇人街で目覚める前、抜け落ちた記憶の直前に見た、包丁まで飛び出す両親の喧嘩。共働きの二人は滅多に顔を会わさず、会っても無言か言い争うばかり。矛先は決して泉に向きはしないが、それでも聞いてて心地良いものではない。

 しかも、現在行われているのは言い争いどころか、命のやり取り。

 小娘にしか過ぎない泉では止める方法もなく、ため息をもう一つ零せば、背中が動く。


 ――ワーズの予想に反し、諍いが止んだのは、その日の夜、泉が寝に入る前。

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