奇人街狂想曲 人魚の章

かなぶん

第一節 新たなる出遭い

第1話 とある街の日常・前編

 店の踏み板に腰掛け、ぼーっとする。

 未だ奇人街を脱せぬ綾音泉は、現在、食材店・芥屋シファンクにて店番中。

 緩く編んだ褐色の長いクセ毛の下、可愛らしい顔立ちの中で、こげ茶の眼が古びた電灯がぶら下がる宙へ、右の青果棚へ、中央の鮮魚箱へ、左の精肉箱へ――と所在なく動く。

「思った以上に暇ね……」

 ぼやいた泉は、上半身の線はくっきりと、下半身はスカートのように広がる薄青の服の下、同色のズボンの左足へ視線を落とした。幽鬼クイフンと呼ばれる化け物に負わされた傷は、残すところこの左足だけで、経過も良好なのだが。

 ふと、人の気配を感じて前を見る。

「御免よ。マオは…………いないよね?」

「いらっしゃいませ。いませんけど……?」

 座ったまま声を掛ければ、陽の中から店へ、中年の女と男が入ってくる。

 二人はおどおどキョロキョロ辺りを見渡して後、本当に泉しかいないのを認めて、ほっと息をついた。

 女の方が泉へ、にやりと妙な笑顔を向けた。

「んじゃ、従業員ちゃん、お肉頂けないかしら?」

「あー……すみません、今、店主から動くなって言われてて」

「ああ、そうなの。まあいいわ、店主相手じゃないならなんでも。見ても良いのよね?」

「はい、どうぞ」

 足首から覗く包帯に頷いた女へ、精肉箱を手で示す。再度頷いた女は、男と共に精肉箱へ近づくと蓋を持ち上げた。ひんやりとした冷気が煙のように流れる。構わず覗き込んだ男女はぶつぶつ相談を始め、泉はそっと溜息を漏らした。


 異形の者が暮らす、奇人街での人間の位置づけは、食材、でもある。他にも忌むべき扱いは多量に存在するらしいが、何にせよ気軽に出歩ける街でないのは確かだ。

 そんな街にあって、ここ芥屋の店主ワーズ・メイク・ワーズは、食材店を掲げながら人間を従業員として庇護する、奇特、というか変人と称されることの多い人物である。室内でもシルクハットとコートの黒一色の服装はさておき、病的とは違う白い肌、闇色の髪、一定しない暗色を織り成す混沌の瞳、血色の口という不気味な色彩も、彼の評判に拍車を掛けていると言って良いだろう。常時右手に携えた銃で、こめかみを掻いたり叩いたりするクセが加わればなおさら、それが実弾入りと知ってしまったなら、もう。

 とはいえ、彼自身は属する種族を「一応・人間」と称しており、そのためか、彼は老若男女、容姿の美醜問わず、人間に甘い。だからこそ、怪我人の泉が店番をすることに対して、渋々了承しては銃で頭を掻き、

「傷、まだちゃんと治ってないんだから、絶対動いちゃだめだよ?」

 と、それでは何のための店番なのか、分かりかねる約束をさせてきた。

 まあ、泉とて本来であれば、怪我関係なしに店番は遠慮したいところ。世話になっている心苦しさはあるものの、二度ほど走り回った街中で、碌な住人に会ってこなかったのだから、そんな住人と否が応でも接する機会など進んで設けたくはない。店主自身が望んでいないのなら、なおさら、大手を振って乗っかろうというものだ。

 なのに、それがどうしてこんな風に、自ら店番を望んでしているのかと言えば――


 ごとっと音がしてそちらを向けば、肉の塊。

 何の肉かは深く考えず、女から差し出された紙幣を受け取った。

 視線を釣り銭の入った籠に移すが、知っているより小さな紙幣に四苦八苦。

 その内にふくよかな手が、ひょいひょい釣り銭を拾っていく。

「うぁ……すみません」

 対処できなかったことを謝れば、釣り銭を手に女が呆れた顔をした。

 後ろの男まで似たような顔でこちらを見てくる。

「あれま驚いたね? 知らないのを良いことに、釣り銭くすねてる、とか少しくらい疑わないのかい?」

「ええと……く、くすねてたんですか?」

 頬を掻いて尋ねれば、男と顔を見合わせ、同時にゲラゲラ笑い出した。

 何故笑われるのか、さっぱり分からず困惑していれば、

「どうやら今回の従業員ちゃんは、えらくお人好しらしいね? いやいや、あたしらにとっちゃ結構なことだけどさ、あんた、他に拾われなくて良かったわねぇ、本当」

 くしゃくしゃ頭を撫でられた。

 次いで顎に手を掛けられて、上を向かされる。

 混乱続きの眼前で、にんまり笑みを浮かべた女は、声を潜めて首を傾けた。

「もちろん、誤魔化しちゃいないさ。芥屋の猫は怖いからね。でもお気をつけよ? あたしらもお人好しな方だから忠告してやるけどさ、あんまり奇人街の住人を信用しない方が良い。中には言葉巧みに誘って、己のところへ囲う方もいらっしゃるんだから」

「おいおい、あの方はもう少し熟したのが好みじゃ」

 窘める風体の男に、眉を顰めて泉から離れては向かい合う女。

「分かってないねぇ? 少しくらい好みから外れていようと、あの方にとっちゃ芥屋の従業員は格好の獲物じゃないか。前々回だったか、あの時の娘はこれくらいで、身体もこの子より細いってぇのに構いやしなかっただろう? ま、どっちかってぇと、あれは娘の方が惚れちまったせいなんだろうけど」

 鼻で笑っては悩める素振り。

「ああ、でもそうすると忠告も無駄だったかねぇ? 人間に限らずとも、大抵の女はあの方のお誘いを断れやしないし? 大体さ、店主に魅力がないのがそもそもの原因だと思わないかい?」

「はあ……」

 気のない返事をしつつ、おばさんという分類の人は、どこでもお喋りが好きなんだな、とぼんやり思った。


* * *


 二人を見送って後、背にしていたガラス戸が開く。

 顔を出したのは、件の店主・ワーズだ。

「泉嬢、昼飯できたよ?」

「…………………………はい」

 立ち上がるのを手伝おうとする黒いマニキュアの手を遠慮し、ひょこひょこと歩いて食卓を囲う椅子に座った。

 青褪めながらも、傍目には美味しそうな焼きそばを捉え、ワーズが座るのを待つ。

 動く気配に視線を落とせば、いつの間にか来ていたのか、客にいないと伝えてしまった猫が床にいた。泉のいた場所のネコと似た姿ながら、虎サイズにもなれる猫は、現在、体毛の影を揺らめかせて、餌を金の瞳で睨みつけては待つ姿勢。

 真正面にへらへらした顔がやってきて、挨拶。

「「いただきます」」

 すぐさま食べ始める猫に習い、さっさと食べてしまおうと箸をつければ、

「今日のお肉は幽鬼の頬肉だよ」

「ぐっ……」

 ワーズが聞いてもいない中身を説明し始めた。それこれはどういう効果があって、など聞きたくもない口上が次々発せられる。徐々に食欲が失せていくが、食べねば怪我に響くと、無理矢理にでも食べさせるのが、目の前でへらへら説明を続ける男。

 しかも、されるがままにしていたなら、勝手に”おすそわけ”を頂戴していく始末。

 一度きりのことだったとはいえ、、しばらく意識してしまった泉とは違い、ワーズには何の変化もない。こういう場合、落胆すべきか否か迷った泉は、なかったことにしようと結論付けた。

 不幸中の幸い、でもないが、初めてではない。

 よくは憶えていないが、あの感覚は知っていた。

 微かに残る想いは温かく、けれど切なく――

「どしたの、泉嬢?」

 きょとんとした顔で銃口を頭につきつけるワーズを認識しては、何でもないと首をブンブン横に振る。ファーストキスの想い出がぼんやり過ぎるというのも難だが、彼を前にして食事中ぼんやりするのは更によろしくない。

 手順もない二の舞は御免だ。

 ……手順があれば良し、という話でもないが。

 化け物と接触し、命を失ったであろう住人たちへの思いを打ち消して口に運ぶ。

「……お、美味しいです」

「それは良かった」

 翻る余地もない感想に、にっこり笑む姿が憎らしく、味とは別に気持ち悪くなる思いごと呑み込む。

 一息つき、ふと視線を感じた泉は台所を見て――固まった。

 気付いたワーズが同じ方向を見て、

「ああ、御免ね、泉嬢。片付け忘れてた」

 軽い謝罪に視線をワーズへ戻せば、へらりとした赤い口に迎えられ、泉の気分の悪さが最高潮に達する。

 長いこと怪我のせいで部屋に軟禁状態であったと、最近では一階で過ごすことが多くなっていた。足が治ってないから立ち仕事はさせて貰えず、自然と料理は美味しくとも、えぐい物を好んで使うワーズがすることになり……。

 これを見たくなかったから、消去法の末、信用ならない住人相手の店番を選んだのに。

 まな板の上で頬を削がれた化け物の首が、食してしまったこちらをじっと睨む様。

 苛まれた泉は、深いため息を吐く。

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