第15話 一難去ってまた一難
食が満たされないことで口を曲げた緋鳥を横に、いつまでも沈黙は怖い。
察するに、人間も喰らいかねない少女の気を食欲から逸らすべく、泉は問いを口にした。
「あの、ここが人狼のねぐらって、どういう意味ですか? それにしては静かだと思うんですけど……」
言いつつ思い出すのは、珍しくないという人狼同士の諍いの声。地を鳴らすそれは、この場の静寂には似つかわしくないほど荒々しく、生に満ち溢れていた。
無機質な夜風と対比すれば、人狼の性質は真逆と言って良い。
「ふむ。此度の従業員様はあまり物をお知りにならない。否、知りたがり、ですかな? 好奇心はネコをも殺すと聞きますが……。死の責任はもたらした者が取るモノ。他の介入は不要。ならば、答えるが必定」
ぶつくさ一人で納得して後、緋鳥はもう一度「ふむ」と泉の方を向いた。
「奇人街の住人は大半夜行性ですが、人狼は特に月を好む習性があるため、出払っておりまする。いるとしても今時分ねぐらに用があるのは、性交目的の者のみ。聞き耳立てれば、嬌声や睦言の一つでも得られましょうが」
「…………そ、そうですか」
何とも居辛い話を、年若い緋鳥はさらりと言ってのけた。
つい先ほどまで自分もそんな可能性のある場所にいたと思えば、なおさら落ち着かない。
「して? 尋ねられたということは、綾音様は望んでここに来られた訳ではないご様子。如何されましたか?」
好奇心がどうのと言っていた割に、それ以外の何者でもない色を含ませた顔で問うてくる緋鳥。泉は得た情報と、ここに来た最初の状況を思い出して顔を薄っすら赤くする。
「ええと、シウォンさんに……」
「ほほう。なるほどなるほど。シウォン殿に……。はて? では、何故に綾音様はここにおられるのか? 彼の方が己が獲物をそう易々と手放すはずもないのだが」
心底不思議がる緋鳥を見て、泉の腹底からふつり、湧き上がるモノがある。
青筋を入れた顔には怒気が含まれようと、笑顔を張りつかせ、
「……寝ちゃいましたよ」
「シウォン殿と?」
「違いますっ! あの人、いきなり、勝手に、人を抱き枕にして寝たんです! だから逃げてきました。ちなみに私は何にもされていませんから!」
「何にも? というのに、眠りこけた挙句逃がした…………ふぅむ?」
肩で息をし、全否定する泉を余所に、緋鳥はしきりに首を傾げた。
「珍妙な話ですな? シウォン殿は人狼の中でもずば抜けて能力の高いお方。それが、失礼ながら、たかだか人間の小娘一匹、逃すなぞ…………うん? 逃す?」
爪で顎を擦り、考える風体であった緋鳥の顔が泉を伺うように傾ぐ。
「え……と?」
「…………綾音様。つかぬ事をお尋ねしますが、貴女様は望まれてシウォン殿についてゆかれたのでは? だというのに、逃げるというのは」
「いえ、私、その、早い話が、攫われてここにいるんですけど……」
「攫われた?……むむ? つまりシウォン殿が望んだがゆえに、ここへ?」
「……何を望んでかは知りませんけど、そうです」
抱き枕然の自身を思い返して、憎々しげに言ったなら、緋鳥は黙考に耽り出す。
しきりに首を傾げて唸る意識に、泉の姿はないように思えた。
急に突き放されたような居心地の悪さを感じ、件の人狼から逃げてきた路を見る。
キフが去ったのと同じ方向には、等間隔の街灯以外、視認できるものなぞないのだが、それゆえの不気味さに思わず身体が震える。
走る怖気にジャケットを握り締め、はたと気づいてコレを脱いだ。
そのまま緋鳥へ被せてやる。
「……ほへ?」
「いや……何だか寒そうだなって。私はまだ半袖ですし」
泉は思わぬ可愛らしい惚けた声に笑いを堪えるが、緋鳥が固まったままなのを受けては、別の話題を探した。
「ええと、緋鳥さん。あの、ここから芥屋って、どう行けば良いんでしょうか?」
「……はあ、ここから、でございまするか…………」
困惑に困惑を重ねた面持ちで、とりあえずジャケットを羽織った緋鳥は、泉が真っ直ぐ歩いていた先を指差した。
「この水路沿いを真っ直ぐ行きますと、右に巨木が見えて参りますが」
「それって、ラオさん?――――ぁ」
キフに尋ねては呼吸を止めた名。
しまったと口を塞ぐ泉だが、緋鳥にとってはどうでもよい名前らしく、彼女の雰囲気に変化はなかった。
「ふむ? 綾音様はアレを御存知で?」
「アレって……。うん、まあ、はい、知ってます」
「ほうほう。なれば話は早い。あの翁から芥屋が見えますれば、その直線上の路を横に逸れず移動し続けると、程なく芥屋に着きまする」
実に簡単な説明。
とにもかくにも水路沿いを歩けば良いという指針を得、俄然やる気を取り戻しかけた泉へ、緋鳥が付け加える。
「しかし、人の徒歩では、遠い道のりかもしれませぬな。翁も芥屋も……どうでしょう、綾音様。私めに身を委ねては? 必ずや芥屋には届けますゆえ」
「……でも」
過ぎる、へらりと笑う黒一色の男の言葉。腹は立つが、事実なのでここはぐっと耐える。
「私、重いと思います。緋鳥さん、すっごく細身だし」
自分の言葉にダメージを受けつつ言い切れば、目深帽下の大きな口が笑った。
「なに、心配は要りませぬ。華奢だろうとも綾音様程度、運ぶのは造作もなきこと。脆弱な人間の基準を被せられるのは、甚だ不愉快にございます」
「……へ、へえ」
嘲る音に泉の眉が密かに寄った。
恭しい緋鳥の態度の端々に見え隠れする、人間という種への明らかな侮蔑。
理由を察する材料は何ひとつなく、尋ねることすら危うい気がする。
そんな泉の沈黙をどう受け取ったのか、緋鳥はまた「ふむ」と顎に手を当て、ぽんっと手を打った。
「おおっ! 詰まる所、綾音様は遠慮されておられるのですな? 私めの手を煩わせまいと。なんと奥ゆかしき御心遣い! これは有難く頂戴仕るが礼儀……うくくくくくく」
「ひ、緋鳥さん?」
突然肩を揺らして笑い始めた緋鳥。
本能的に走る悪寒から、泉は一歩後退り。
真似るように一歩近づき、泉との距離を広げまいとする緋鳥が、細い手を伸べてくる。
「さあさ、綾音様。遠慮は要りませぬぞ? 私めに全てお任せくだされ。さすれば、必ずや違えず、芥屋までお連れいたしまする。――なれど」
「!」
もう一歩退こうとした腕が爪に掴まれ、緋鳥の方へ引っ張られる。
たたらを踏む足は緋鳥に触れそうな身体を止めるが、下から突きつけるようにその顔が寄っては身動きも取れない。
にんまり笑う口元から涎が滴り落ちていた。
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