第16話 難儀な彼女
「綾音様は義理深きお方。無償で運ばれるのはさぞや、御心が苦しいと拝察致しまする。つきましては……この腕、褒美に所望したく」
「っ!?」
しゅるりと音を立てて涎を呑み込んだ舌が、捕らえられた泉の腕に寄る。
払うため力を入れても意味はなく、触れる寸前で叫ぶ。
「ストップ、緋鳥さん! ま、待ってください! 私は確かに芥屋に戻りたいですが、緋鳥さんだって、何か用があるんじゃないんですか!?」
ほとんど悲鳴に近い、甲高い声。
ヘタをすれば追われる身、という認識は今の泉の頭にはなく、失われようとしている、外気に触れて冷えた右腕を守ることだけが、彼女の望みとなっていた。
内から沸き起こる悲鳴が、望みを助長し誘発する。
モウ二度ト、失ッテハイケナイ。
コノ腕ハ、アノ人ガクレタちゃんすナノダカラ。
居場所ヲ、手ニスルタメノ――――
その、一心に突き動かされて。
無駄と分かっていながら更に力を込め。
引っかかれたような傷が出来ても躊躇わず――
唐突に、放された。
「おわっ!?」
反動でよろけつつも、なんとか体勢を立て直し、尻餅を免れる。
薄皮の傷に痒みはあるものの、無事な右腕を労るように数度撫でた泉は、緋鳥の挙動を構えて見るなり、思いっきり脱力してしまった。
先ほどまでの剣呑さはなりを潜め、代わりに乱舞するハートマークの幻覚が泉を襲う。
今にも歌いだしそうな雰囲気で、緋鳥が頬ずりを続けるのは、キフが置いていった白いハンカチ。
どうやら指摘するまでもなく、キフの持ち物だと分かっていたらしい。
「うくくくくっ! よくぞ、よくぞお聞きくださいました、綾音様! 私めの用! それはそれは、我が初恋の君、ナーレン閣下拝顔の栄に浴すること!」
「は、初恋!?」
(……またそれは………………難儀なことで)
ようやくキフの逃走に合点のいった泉。
ハンカチ一つで、ここまで変化させる想いの強さは、幽鬼より質が悪いように思えた。
けれど、好機でもある。
心の中ではたっぷり謝罪しつつ、自分可愛さから、正直に中年が去った方角を指差した。
「それじゃあ早く行かないと! キフさん、あっちに逃げちゃいましたよ?」
「なんと!? 綾音様なんぞに関わったばかりに、あの御方を逃すとはこの緋鳥、一生の不覚! お待ちくだされ、我が君っ!」
言うが早いか、ジャケットを脱ぎ捨て羽を展開、示された方角へ飛び立っていく。
失礼極まりないことを言われた気もしないではないが、手に落ちたジャケットを見ては、くすりと笑みが零れてしまった。
そうまでして、追いかけたい相手のいる、羨ましさ。
私には、そこまで執着する相手なんていない――と思ったなら、へらへらした男が勝手に浮かんできた。
ご丁寧に口の中にスプーンを頬張り、楽しそうに泉へ呼びかけ――
さっと悪くなる顔色。
「そうだ! 晩御飯! は、早く戻らなくちゃ! ああ、でも、もう遅い!?」
想像は振る舞われるゲテモノ料理まで及び、走り出す泉。
と、手にした重みで我に返り、ついで緋鳥が消えた方角へ視線を投じた。
「ど、どうしよう、このジャケット。置いといた方が良いのかしら? でもここ、人狼のねぐらだっていうし…………」
思いつきで腕を文字通り奪われそうにはなったが、色々情報を与えてくれた相手。
すぐ戻ってくれば良いが、人狼たちが帰ってくる頃に来て、何かあったら大変である。
なければ上空から知覚できるだろうし。
「よし、預かっておこう……と、寒っ!」
ついでに夜風に煽られては、預かるよりも貸して貰う考えへ移行していく。
「ううう……す、すみません、緋鳥さん、お借りします」
一応、緋鳥が去って行った方へ宣言し、着こんでみる。
――項垂れた。
「…………う、腕がキツイ…………閉まらないし」
羽織るだけならできるが、それ以外、ジャケットの機能を役立たせることが出来ない。
幾ら緋鳥が華奢とはいえ、衝撃的な事実を突きつけられた気分だ。
服は変わらない着心地なのに、余計自分に対して貫禄を感じてしまう。
首を振ったところでリフレッシュされない辛さは、ジャケットが不要となる芥屋につくまで続くかもしれない。
そう思えば、駆け出す足にも力が入る。
ただし、気力だけは回復されず、
「はあ……まずはラオさんのところね」
目的地を口にして凹んだ分を補いながら、泉は街灯がぽつぽつ続く路を行く。
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